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2005/04/08

子供を宗教活動に巻き込むな

seishin
予定を一日繰り上げて、宗教と子供についてのテーマです。
聖神中央教会という宗教法人で、代表者のパウロ永田(お前は、吉本のお笑い芸人か)こと金保が信者の少女を強姦したとして、逮捕されました。オウム真理教事件以来、こうしたカルトに対する世間の眼は厳しくなっていますが、類似の事件が後を絶ちません。
カルトで、教祖と女性信者との間の性的な関係が問題となるのは、決して珍しいことではありません。洋の東西を問わず、どうもカルトの代表者というのは、概して精力絶倫の男が多いようです。私などは、それだけで教祖失格です。
今回の事件が悲惨なのは、信者自身ではなく、その子供の少女達が犠牲になったことです。他にも多数の被害者がいるようですが、殆どが10代前半と見られており、中には数年間も継続して暴行を受けていた少女もいたようです。この代表は、余程のロリコン親爺だったのでしょう。

6日には被害者の会の記者会見が行われていましたが、その様子をTVで見て多少違和感を覚えました。今回の事件は、信者である彼らが宗教施設に子供を連れて行き、宿泊までさせていたことにも原因があったのではないか。子供さんたちは確かに被害者で、本当にお気の毒と思いますが、親である信者は、見方によっては加害者ではないだろうか。厳しいかも知れませんが、親としての保護責任が問われると、私は思います。

日本の憲法には信教の自由がうたわれています。戦前の日本では国家神道が事実上の国教となって、信仰が強制されたのですが、現在は宗教を信じる自由も、信じない自由もあります。つまり信教は、個々人の心の問題です。
ここで私が疑問に思うことは、多くの宗教で、親が入信すると、自分の子供も同じ信者にしてしまうケースが多く見受けられます。小さな子供は判断力がありませんから、親の宗教をそのまま信じてしまうでしょう。それでなくても、子供は自分の親を悲しませたくないので、親の言うことに従います。
これは、その子供個人の信教の自由を奪っていることにならないでしょうか。
私の子供が未だ小学生の頃、日本最大と云われる宗教団体の信者の子弟が、クラスに数名いました。一緒にお祭りに行っても、罰が当たると言って、神社の鳥居から先へは入らないそうです。社会科の授業で、イエス・キリストの話になると、耳を塞いでいたそうです。私の子供にも、その宗教の集会だか催し物だかに、勧誘もありました。一体子供達にこんなことを吹き込んだのは、誰なのでしょう。

親がどの宗教を信じようと、それは自由です。しかし子供は親の従属物ではない。子供には子供の人権があり、人生があります。どうか、子供達に自分の宗教を押し付けないで欲しい。今回の事件を通して、改めてこのことを強く感じました。

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宗教」カテゴリの記事

コメント

>親がどの宗教を信じようと、それは自由です。しかし子供は親の従属物ではない。子供には子供の人権があります。どうか、子供達に自分の宗教を押し付けないで欲しい。

まったく同感です。
まだ年端も行かず判断力の育っていない子供に宗教を・・・無理です。

ちょっと論旨が飛躍しますが最近、子供だけでなく親も含めて自分でよく考えて自分で解決するという態度でなく、ろくに考えもしないですぐに人に聞くという態度の人が多いと思いませんか?
新聞の人生相談を見ていると「こんなこと人に聞かずに自分で考えろ」と言いたくなるような相談事が増えているような気がします。

解らなかったら考える前に、人に聞く、ネットに聞く、マニアルに聞く、その通りにやってうまく行かなかったら人が悪い、社会が悪い、神様が悪い、・・・・・・!
でも、自分の人生、最後に責任を取るのは自分なんですから・・・残念!

プロテスタントの教会に通うクリスチャンです。今回の事件には心を痛めますが、日本人の中に聖書に対する知識のなさとそれを平気で”信教のの自由”につなげて発言してしまう方の多さに驚いています。
「パウロ永田」という名はおそらくイエスの弟子から付けられたもので、この牧師以外にも「ペテロ○○」とか、「ヨハネ○○」といった名を付けられて牧会を行っておられる先生は多くおられます。
子供に宗教を・・と問題提起されていますが、子供が自己の意志をはっきり確立させる12~3歳くらいまでは(あくまでも平均的に、ですが)着る物、食べる物、住むところなどはほぼ親の意志で決定して与えているのに、人の命や人生観や魂の行く先まで関わる信仰の問題はもっと親が真実に信じているなら強く勧めるのは当然ではないでしょうか。
我々プロテスタント教会のほとんどは、12~3歳くらいまでの子供には嫌がらない限り「幼児洗礼」を受けさせ、一緒に礼拝に出たり聖書を読み聞かせたりお祈りをしたりします。それ以降は自分の意志で信仰するのかどうかを決めさせ信仰を続ける意志のある子供にはもう一度洗礼を受けさせます。
「お前は・・・」というフレーズを書かれたおかげで、すべての誠実なコメントが汚れて浅はかに見えてしまうことが残念です。

とゆーか、「子供が自己の意志をはっきり確立させる12~3歳くらいまでは(あくまでも平均的に、ですが)着る物、食べる物、住むところなどはほぼ親の意志で決定して与えているのに、人の命や人生観や魂の行く先まで関わる信仰の問題はもっと親が真実に信じているなら強く勧めるのは当然ではないでしょうか」という前提で行動した結果、我が子の将来を踏みにじってしまう事がある、というのがこの事件の教訓でしょう。

>タケチャンマン様

>日本人の中に聖書に対する知識のなさとそれを平気で”信教の自由”につなげて発言してしまう方の多さに驚いています。

同意見です。信教の自由もさることながら、なににつけても個人の自由を振りかざしてしまうのは現代日本人の悪癖ですね・・・(自戒の念を込めて)
「律法無き個人主義はただの無秩序」とはどこかの本で読んだフレーズですがその通りだと思います。

ただ、私もプロテスタント教会に通うクリスチャンの一人ですが、
>親が真実に信じているなら強く勧めるのは当然
ここには少々異なる意見をもっています。

私は、自らの心のよりどころ、魂の柱となる「宗教」は(もちろん親と行動をともにすることが多いので影響を受けるのは当たり前ですが)あくまでも個人の取捨選択によるべきと考えます。

つまり、「(親である)私がこの宗教を正しいと言うのだから、(子である)あなたも信じなさい。」ではなく、
「(親である)私はこういう考えでこのような信仰をもっている。(子である)あなたはどう思うか?」というスタンスであるべきと考えています。

もちろんお子様を教会などに連れて行くのは素敵なことだと思いますし、徳育教育の面でも有用だと思います。
あとは自らの行動を通して神に従う事の素晴らしさを伝えれられたら最高ですよね。

ちなみに私の通う教会はプロテスタントですが、「幼児洗礼」は行っておりません。(ほとんどの教会で行っているとの書き込みに驚いています)
年齢を問わず、神に仕える信仰の表明と、聖書への(最低限の)理解を条件にバプテスマ(洗礼)を行う教会もあるのですよ。(逆に中学生ぐらいだと、一時的な熱病で判断していないか牧師と相談しながらじっくりと進めたりします)

自分はクリスチャンの母、日本的無宗教者(実家に神棚と仏壇が同居してたりしますw)の父にあちこち連れて行かれ、最終的に母と同じクリスチャンの道を選択しました。

「親が子供に信仰を押しつけるな」と主張なさる方というのは、残念ながら宗教というものに対して無知なのだと思います。

キリスト教では伝統的に幼児教育を重視し、どの教会でもまず間違いなく、子供たちのための「日曜学校」や「教会学校」を主催しています。教会に通わせなくても、キリスト教系の保育園や幼稚園に通う子供は多いし、最近はキリスト教系の私立学校も人気があります。こうした場所に子供を通わせることは、間違いなく「親から子への信仰の押しつけ」と言わねばなりません。でもそれをすべて否定すべきでしょうか?

聖神中央教会が本当の意味でキリスト教と呼べるのかどうかはよくわかりませんが、逮捕された牧師は被害少女たちを脅して固く口止めしていたとのことですから、教会の教義として牧師と少女たちとの性行為が是認されていたわけはないようです。牧師が性犯罪者であったのは間違いありませんが、聖神中央教会は未成年者との性行為を奨励するセックス教団ではないのです。

権力や権威を持つ立場にある人が、その権力や権威を使って、少年や少女を性的な欲望の対象にする事件はよくあります。今回はその加害者が「牧師」でしたが、学校教師が女子生徒にいたずらしたり、塾の講師が教え子に手を出すことはよくあります。今回の事件も、構造としてはそれと同じです。

わいせつ教師がいるのと同じように、わいせつ牧師もいるのです。こんなことは当たり前の話です。親は「わいせつ教師」から子供を守るのと同じ程度の注意を払って、「わいせつ牧師」からわが子を守らねばなりません。それは「親が子供に信仰を押しつける」という問題とは、まったく別の事柄です。

大変失礼いたしました。

>タケチャンマン様
ではなく
>ree様
へのレスポンスでした。
申し訳ございませんでした。

ぽしゅいんさま。
たいへん失礼いたしました。
>ちなみに私の通う教会はプロテスタントですが、「幼児洗礼」は行っておりません。(ほとんどの教会で行っているとの書き込みに驚いています<私の方に語弊がございました。クリスチャン新聞社や教会年鑑により調査したものでしたが、幼児洗礼の%は正確かどうかを確認しておりませんでした。
また、私の教会も私自身も、「「(親である)私はこういう考えでこのような信仰をもっている。(子である)あなたはどう思うか?」というスタンスで、自立し始めた子供の意志を確認し時間をかけて洗礼のうけなおしをしてもらっています。
またこの事件以来多くのサイトで「牧師が性犯罪者であったのは間違いありませんが、」とまだ容疑の段階で取調中の人を”犯人”と確定される方の多さに悲しみ、また一方で「聖神中央教会は未成年者との性行為を奨励するセックス教団ではないのです。」と、冷静な判断をされている方の多いのにも安心しています。

キリスト教に対する知識~…というコメント欄の流れとしては全く違うと思いますがご容赦を。
実は、自分の考えも纏まっているとは言えません。
ただ、このトピックスの行き付く所は、子供の「価値観」に対する親の介入はどの程度許されるのかという事だと思います。宗教云々より、親の子供に対するしつけや教育の話なんかとリンクすると、漠然とながら思います。


『無宗教とて思想的な寛容さを失い、排他的に自己の思想を絶対視すれば、それは「宗教」と化す。そして、その排他性が他の思想信条の存在を許さぬほどに先鋭化した場合、悲劇が起きる。』

違うHPで見かけた言葉ですが、私の考えにあっていたので無断ながら一部転載させて頂きました。
私が、このトピックスの主張を見るに、漠然とながらも感じた不安は、「人権」という言葉が「宗教化」し、その排他的行動の根拠として使われ、やがてはカルト化するのではないか、という事です。

「我々プロテスタント教会のほとんどは、12~3歳くらいまでの子供には嫌がらない限り「幼児洗礼」を受けさせ・・」
私もプロテスタント教会に通う者ですが、逆に上記のような慣習のある教会がごくまれにある、と聞いていた程度でしたので驚きました。
上記のやりとりだけではクリスチャンではない方から見てよくわからないのではと思い、今更ながら投稿してみました。統計の数字はわかりませんが、実態として、うちの教会では幼児洗礼は一切していません。幼児洗礼をしている教会、というのも実生活ではカトリック教会以外では近辺にはありません。なぜなら洗礼とはイエスキリストを信じた時に行われるものだからです。子どもが信じたので洗礼を受けたいと言えば行われますが、信じていないのならしません。幼児(信じる、信じないの意思の確認を取れないくらい小さなこたち)にはしていません。以上です。

りみん様
私もクリスチャンの場合、通常は幼児洗礼を行っていると思っていました。
お気付き、有難うございます。

問題の本質は、性的な過ちを牧師が行ったというのであれば、それは、はっきりと罪であり、
それを牧師ではなく、不道徳な業界団体が行っても、等しく罪だということです。

自分が神のことばを扱うものとして立っていることを、自ら宣言し、しかも、聖書のことばを使って自分に対する従順を他人に強制している、そのようなものが、聖書ではっきりと示されている、姦淫の罪を、隠れたところであれ行っていたのであれば、その裁きは、神自ら行われるでしょう。

聖書に基づく教育が子供の頃からなされているなら、その子供はどういう理由であっても、結婚するまで、純潔を保つことを、教えられていると考えます。聖書のどこにも、不品行と姦淫が神様の試練であるとは書いて無いからです。

また、全て上に立つ権威に従うべき・・・という聖書のことばにより、猥褻な行為が正当化されていたとしたら、それは巧妙なみことばの悪利用です。

「使徒の働き」4章で、ペテロとヨハネが大祭司たちに答えて言ったことばが参考となります。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」
今回の事件では、良心と神の前に正しいと思うことが曲げられないよう、注意する必要を感じました。

キリスト教全般に見る終末思想は、判断力の無い子供にとって、やはり恐怖以外の何物もでもないでしょう。実際うちの子供は、母親と一緒に通っている教会で、「日曜日に協会に行かないことは、天国への道を手放すことになる。地獄に落ちる」と言われて、運動会にも参加しません。思い余って協会の責任者に電話したところ、容認する発言をされました。確かに日本国憲法は「信教の自由を保障しています」が教育を受ける義務も謳われています。

続き
キリスト教(プロテスタント、カソリック)は今まである意味寛容な宗教だと思っていました。しかし、認識を改めます。つまり、自身の教義を優先するのであればそれは雑多あるカルトと何も変わらないということです。オウムが教義のために人を監禁したり、殺害したりと原理的には相違ないということです。さらに、終末思想によって人心の恐怖をあおり入信させる手法は、厄を落とすために坪を買わせたり、健康になるために石を買わせる手法となんら変わりないと思います。僕は徹底的にこの集団と戦う決意をしました。

宗教活動は自由ですが、あくまで社会の公序良俗に反しない範囲内であることが、法律で求められています。
ご指摘のような、宗教の教義により、ご子弟が学校行事に参加しない事態が生じるなら、それは信教の自由を逸脱しています。
オウム真理教による反社会的行為が糾弾されましたが、各宗教団体がこの事件を、どれだけ深刻に受け止めているか、私は率直に疑問に思っています。
自分の信仰している教団の利益ために携帯電話の名簿を盗み出したり、恐怖心をあおって高額な金品を強要する行為と、教団の教義のためにサリンを撒く行為との間に、それほど大きな差は無いと思います。
宗教家こそ、社会的道徳を尊重してほしい、この点を強く主張したいと思います。

宗教とはこんな物だったのか?
私は、宗教に関しては無関心な方です、正月や神社の祭礼で賽銭を入れ、お御籤や祭りなどを楽しむるぐらいの信仰者です。それが、先日、ブログを渡り見ていたら、こんなことが書いてありました。

(抜粋)
「俗にいう日蓮宗を代々やっていると家族に不具者ができたり、知能の足りない子供が生まれたり、はては発狂する者ができたりして、四代法華、五代法華と誇っている家ほど悲惨な生活をしているのである。」(池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」)

これが事実であるなら。また、これが最高宗教指導者の指導であったら、他宗教弾圧また言論・人権弾圧に繋がるのではないでしょうか。これは宗教指導者というより、他宗教粛清といいますか。また、何処かの国のように自分の理に適わない民族を強制的に排除しょうとする、民族浄化運動に似ているのではないでしょうか。

私は、古民家、歴史ある神社仏閣、建造物、庭園等を見て歩くのが趣味でもありますが、宗教というものの見方を変えなければなりませんね。

宗教とはこんなものだったのか。と!! (練馬創価学会の真実より)

sawas様
ご指摘の通り、創価学会は大変危険な面を持っている宗教団体です。
これも大人になって判断力がついてから入信するならまだしも、子供の頃に何も知らないまま洗脳される、これが一番恐いわけです。
学校の授業でイエスキリストに触れると、そうした子供たちの中には、耳を塞いでしまう子もいます。
お祭に行っても、神社の鳥居をくぐらない子も。
やはりマトモではありません。

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