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2005/10/29

文化勲章、功労賞、二人の「光子」さん

morimitsuko
28日、今年の文化勲章、文化功労賞が発表されました。文化勲章には森光子ら5人、功労賞は内田光子ら15人です。森光子は、大衆演劇部門からの珍しい受賞となりました。

森光子は、伯父が時代劇で一世を風靡したアラカンこと嵐寛寿郎だったのが縁で、1935年に映画「なりひら小僧 春霞八百八町」でデビュー、時代劇を中心に脇役として出ていました。今でもNHK衛星放送の古い映画を見ていると、森光子の姿を見ることがありますが、いずれもチョイ役に近く、いわゆる映画スターとしては成功しなかった。その後は売れない歌手をしたり、ラジオでお笑い系の番組に出ていましたが、いずれも大成しなかった。

森光子の成功のきっかけは、1960年の芸術座での「がしんたれ」です。私はこの舞台を見たのですが、当時そうそうたる顔ぶれの中で、強く印象に残ったのは、中山千夏(子役でした)と森光子の二人でした。森は主人公の友人である林芙美子の役で、脇役で出番は少なかったのですが、これが実に名演でした。

結局この舞台が、当時東宝の重役であった菊田一夫の目に留まり、彼女のイメージで林芙美子を主人公にした芝居「放浪記」を書き下ろし、森光子を主役に抜擢します。当時の芸術座は、スター制度を採っていましたから、このキャスティングはかなりの冒険であったのですが、彼女は見事に期待に応え、興行的にも成功して一躍スターの道を歩むことになります。

林芙美子の役は、今までの森光子が辿ってきた道、人生の様々な経験、これらが一気に役に投影した、そんな演技でした。つくづく、舞台はウソをつかないと実感しました。
80歳を越えて、まだまだ若い男性と恋が出来る、いつもでも若い森光子へ、心から拍手を送りたいと思います。

内田光子、クラシックファンなら知らない人はいない、世界的に活躍している日本人ピアニストです。もっともご本人は、若い頃から国際舞台で活躍しているので、彼女を日本人だと思ってはいけないのかも知れませんが。特にモーツアルトのピアノ曲については、今や世界的に第一人者といって良いでしょう。

内田光子のピアノ曲をCDなどで聴くと分かりますが、先ずその音の素晴らしさに感動します。音楽評論家中野雄によれば、彼女のピアノ曲では通常の平均律を採用せず、古典調律法でチューニング(私は良く理解できないのですが)しているのだそうです。この方法は、曲ごとに調律し直すのだそうで、音の美しさが際立つとのこと。
そんな難しい理屈は別にして、とにかく彼女の演奏を聴いてください、こうお薦めしたくなる粒揃いの名演奏です。

今回はピアノを通じての国際交流という業績が認められての受賞ですが、チェコでのコバケンこと小林研一郎、ウイーンでの小澤征二のように、その国では知らない人がいないチョー有名日本人も少なくないのです。
音楽を通じて日本、あるいは日本人に尊敬と親しみを感じてくれる人も多いわけで、これからの内田光子の益々の活躍を期待したいと思います。
(文中敬称略しました)

2005/10/24

国立演芸場「芸術祭寄席・夜の部」

utamaru
現在東京に、ということは日本に、いや世界に寄席の定席(一年中落語を上演している劇場)は4軒だけです。浅草、上野、新宿、池袋(ここはいつも空いてるので有名)と、さすが繁華街にあります。
これは、お参りに行った帰りに、お花見の後で、買い物ついでにというように、何かのついでに行ける利点があるからでしょうね。

そこいくと国立演芸場、三宅坂の最高裁判所の裏ですからね、こちらはついでに行く所じゃない。最高裁小法廷に証人として出廷した帰りに落語でも聞いて・・・、そんな人はいませんやね。だからここだけは、わざわざ来る人ばかりです。
以前は、特別興業でも当日入れたんですが、最近は人気番組になると予約で完売、10月23日の「芸術祭寄席・夜の部」も大入りでした。
本当は寄席なんぞ、予約で行く所じゃないんだけどね。

この日は、歌丸、小遊三という“笑点”の人気者二人(この二人だけは実力を伴っている)の出演です。“笑点”といえば、三遊亭圓楽の入院、心配ですね。5月に高座を見た時に、盛んに手拭いで口を拭いていて、何か麻痺でもあるのかと気がかりだったのですが。

前座は桂夏丸で「課長の犬」。前座には珍しい新作もの、多分どこやらの大学オチ研出身でしょうが、手堅くまとめてました。
来年柳家小さんを襲名する柳家三語桜は、「親子酒」。先代小さんの息子さんで、中堅実力派の噺家です。正統派古典一筋で、噺も上手い。でも何かが足りない。この何かが、大看板になるための必須条件です。
話は変わりますが、私は最近の落語界で世襲が目立つのは、気に入らない。歌舞伎じゃあないんだから。この世界だけは、実力本位でいってもらいたいですね。いろいろ内部事情があったのでしょうが、大名代の柳家小さんは、やはり一番弟子の柳家小三治に継いで欲しかった。

三遊亭小遊三、落語芸術協会の押しも押されもせぬ大看板になりました。当日の演目は「野ざらし」。この噺、元々は陰気な内容だったんだそうですが、三代目春風亭柳好が改作し、現在の賑やかな形に変えました。私はその柳好の高座を、何回か見てます。(お前、歳いくつだよ、と言われそう)。小遊三は持ち前の明るさが、この噺と良くあって、実に楽しい高座となりました。軽く演じているようですが、相当工夫をしており、いい出来でした。
欲を言えば、小遊三は小唄、端唄、都々逸といった俗謡の素養に欠ける。ここを克服すると、この噺はもっと生きてくると思います。

曲芸のボンボンブラザース、私はこのコンビが大好きです。二人とも一口もしゃべらず、黙々と芸をするのが良いですね。それと、細長い紙を額の上に立てる芸、いつ見ても大笑いです。帽子を使ったジャグラーも、このコンビだけの持ちネタです。

トリは桂歌丸で「井戸の茶碗」。歌丸は今や落語芸術協会会長であり、名実共に第一人者になりました。
歌丸の高座は年1回位しか見ませんが、感心するのは見る度に上手くなってることです。あの歳で、まだまだ発展途上にある、これが歌丸の偉さですね。
この日の高座も、若い武士、年配の浪人、紙屑屋、この三人をキッチリと演じ分けていて、大変気分の良い高座となりました。
芸術祭らしく熱演が続き、客も満足して帰ったと思います。

他に操り人形のニューマリオネット、講談の一龍斎貞水が出演。

2005/10/20

鈴本演芸場10月中席夜の部

karoku
いやー大変な時代になりましたね。「鈴本演芸場」でブログを検索すると、ダダーっとこの番組の批評が並んでいるのですから、こりゃあ席亭もオチオチしてられません。
私らが最初の寄席に行った昭和20年代のころは、それはひどいもんで、休演代演当たり前でした。出演者が足らず、同じ人が二度高座に上がってきたり、昼と夜のトリが同じだったり、とにかくメチャメチャでしたね。

その代わり、客の方もよくしたもんでね、一番少ない日は4人ということがありました。そうなると、いくらつまらなくても、帰るに帰れない。他の3人に迷惑を掛けますから、最後までじっと辛抱して聞かないといけない。これじゃ寄席なんだか、ガマン大会なんだか、分からなくなりましてね。
そこいくと近頃は、いつ行ってもそこそこの入りで、土日に人気の噺家が出るっていうと、もう満員です。人気落語家の独演会になると、発売即日完売なんてね、ユーミンのコンサートじゃないんだから。
まあそういう意味じゃあ、寄席もいい時代になりました。

そういうわけで、19日の鈴本は『柳家花緑60分奮闘公演』。
柳家初花(しょっぱなと読むんだそうで)は「やかん」。芸はしっかりしてるんですが、早口で聞き取れない時がある。それとこの噺、講釈の素養がないとムリです。三代目金馬が得意ネタにしていたのは、金馬が若い頃に講釈師だったからです。もうちょっと、勉強ですね。
漫才のロケット団、久々に見たのですが、上手くなってます。東京の漫才で、若手にイキのいい芸人がいなかったので、これは期待できますね。4字熟語で、「深く考えもせずに行動し、周囲に迷惑を掛けること」と問題を出すと、相方が「靖国神社!」、なかなか宜しい。
柳家圓太郎は「棒鱈」。この人は中堅落語家として、着実に力を付けてきています。端正な芸で、今時流行りの噺を崩すようなことがなく、しかも笑いは取れている、安心して聞ける噺家です。「赤べろべろの醤油づけ」「にがちはてんてこてん」、結構でした。TVのお笑い番組とはおよそ無縁ですが、こういう芸人が日常の寄席を支えています。

春風亭小朝は「桃太郎」。上手さでは申し分がない。それと最近の小朝は、一時期のように適当に演って、引っ込んで行くという傾向が無くなりました。短時間でもまとまった噺をするようになり、私の好感度も上がっています。私の見立てでは。志ん朝が亡くなった頃から、小朝の高座での姿勢が変わってきたと思っていますが、どうでしょうか。
林家たい平は「粗忽の釘」。正蔵の代演のせいか、調子を落としていました。中トリにしては、少々薄味だったように感じました。

トリはお目当て柳家花緑の新作「ナンパジジイ」。
先ず苦言ですが、花緑の欠点の一つは、マクラが面白くない。それに祖父の小さんをネタにした内輪話は、そろそろ止めた方が良い。志ん朝や先代馬生が、マクラで志ん生の話しをするのを聞いたことがない。
さて肝心の長講一席。恐らく小劇場の脚本家が書いたホンだと思われますが、若い客層を対象にしているのでしょう、若い人たちは良く笑っておりました。年配者の反応はどうだったんでしょうか。
花緑がこういう新作に挑み、しかも1時間の大作を演じるという意欲は買いますが、このネタは花緑のキャラとはチョット違うのではないかと思います。
この位置には既に柳家喬太郎がいるわけですから、新作を手掛ける場合でも、違った方向性を目指したほうが良いと、私はそう感じました。
他に林家彦いち、三遊亭白鳥、太神楽の仙花、小花が出演。

2005/10/16

国際テロの背景(その2)

Arafat
中東問題の要であるイスラエル対パレスチナの領土問題、しばしば繰り返される両者の武力衝突について、従来多くの日本人は、パレスチナ側への共感、支持の声が強かった。一つには日本政府が、エネルギー源確保のためにアラブ諸国との友好関係を重視した政策を採ってきたことも、無縁ではないでしょう。それにニュースなどで、投石するパレスチナの若者に、重装備のイスラエル正規軍が攻撃する映像を繰り返し見ると、どうしてもパレスチナに肩入れしたくなります。判官贔屓という、日本人独特の心情もあります。

しかし、こうした空気に微妙な変化が起きたのは、2004年11月11日のアラファト氏の死去と、それに続く遺産問題でした。先ず次の数字を見て頂きたい、いずれも丸い数値にしていて、単位は億ドルです。
50  35  5
左からアラファト氏の遺産推定額、パレスチナ自治政府の国内総生産、海外からの援助金(1年間)です。海外援助金については少し古いデータですが、パレスチナ計画国際協力庁(MOPIC:Ministry of Planning and International Cooperation)の1993-1998年間の実績値を採用しました。

アラファト氏の遺産は、パレスチナ自治政府のGDP総額を遥かに超え、海外からの援助金の10年分に相当します。こうしてみると、アラファト氏の遺産が、いかに膨大であったかが分かります。
彼が大富豪の御曹司だったわけではないとすれば、パレスチナのトップの地位の間に蓄財したものと、推定されます。
アラファト氏の死後パレスチナの首脳から、海外からの援助金はアラファト氏の個人口座に入金されていたとの説明がありましたが、各国の援助はその国の税金から支出されていますから、有り得ない話しです。

ではなぜこのような膨大な金額を、アラファト氏は蓄財していたのか、私の推定では次の通りです。
①私利私欲のために、単純に公金横領を繰り返していた。
②援助金の民衆への分配により生活が向上し、対イスラエルへの武力攻撃(爆弾テロなどの)が抑制されるのを避けたかった。保身のためには、イスラエルとの緊張関係を維持する必要があった。
③和平協定を円滑に実行することを条件にした、他国からのワイロ又は裏金が存在した。

①の可能性は、過去のアラファト氏にキャリアから見て、先ず有り得ないでしょう。
③の疑念は完全には捨て切れませんが、可能性は低いでしょう。
そうなると、残り②が、最も可能性が高いことになります。

パレスチナ自治政府が所管する地域は、三重県程度の広さです。ここに住む民衆に毎年600億円近い資金が分配され有効に活用されていたなら、民衆の生活は今とはかなり違っていたと思われます。
その場合、現在進行中の中東新和平(ロードマップ)が、よりスムースに進行していた可能性も高かったと思われます。

今年8月にガザ地区からイスラエルが全面撤退を完了しました。ところが9月下旬、パレスチナ過激派ハマスのパレード中に爆発事故がありました。原因はハマスの武器の爆発だったのですが、ハマスはこれをイスラエルの攻撃だと主張、イスラエル側にロケット弾を打ち込みました。これに対しイスラエルは、ガザに報復の空爆を行いました。
従来なら、ここで両者の武力攻撃がエスカレートする所ですが、今回は違っていました。パレスチナ住民の怒りがハマスに向かい、ハマス側が停戦を表明しました。パレスチナの内部の新しい動向として、注目されます。

パレスチナの民衆が、アラファト氏の文字通りの「負の遺産」を乗り越えて、生活の再建と国作りに向けて、新たな前身を図るよう、心から希望するものです。

2005/10/12

国際テロの背景(その1)

binladen
ここのところパキスタンとインドを襲った大地震の陰に隠れた感がありますが、インドネシア・バリ島で起きた爆弾テロのその後、捜査は殆ど進展が無いようです。10月1日に起きたテロにより、死者は日本人一人を含む22人、負傷者は120人を越えています。
バリ島では2002年10月に大規模な爆弾テロが発生、日本人を含む二百二人が犠牲になりました。治安当局は国際テロ組織アルカイダとのつながりが指摘されているジェマ・イスラミア(JI)による犯行と断定しています。今回の同時テロについても、JIが関与したとの疑いを強めています。

インドネシア政府は、2002年のテロ事件の後、JIに対する取締りを宣言しましたが、一部イスラム教の反発を受け、アイマイにしたことが、今回の事件を招いたとの批判が起きています。

こうしたテロが起きるたびに、日本のマスコミの論調は、テロは絶対に許せない、しかしテロを根本的に廃絶するのは、イスラム教国の貧困と抑圧を無くすことが大切だという主張を繰り返してきました。これは果たして本当なのでしょうか。最近私はどうもこの理論が疑わしいと思えてなりません。
例えば我が国で起きた戦後のテロ事件を振り返りますと、右翼少年による浅沼社会党委員長刺殺事件、赤軍派や連合赤軍を名乗るメンバーによるビルの爆破やハイジャック、空港での乱射事件、オウム真理教による地下鉄サリン事件、いずれをとっても、貧困や抑圧とは全く無関係なものばかりです。

これらはいずれも特殊なイデオロギーに洗脳された人たちによる犯罪であり、責任はむしろそうしたイデオロギーを植えつけた指導者の存在ではないでしょうか。
バリ島テロの首謀者と目されるJIですが、彼らの主張はインドネシアやマレーシア、フィリピン南部を統合するイスラム国家樹立を目指すというものです。こんな荒唐無稽な主張が実現する筈が無い。
日本のテロ事件との類似性を求めるなら、オウム真理教の一連の事件に近いと言えます。宗教的信念に基づく政治的主張の実現です。

テロの背景を考える上で、もう一つ注目しなければならないのは、最近とみに聞かれるアルカイダと米国CIAとの繋がりです。
元々は、アフガニスタンでのアルカイダ掃討作戦で、米軍はビンラディンを追い詰めては逃がし追い詰めては逃がしを何回も繰り返したことから、疑いが持たれ始めたのです。
例えばフランスのフィガロ紙が、ビンラディンが9・11直前の2001年7月、中東ドバイのアメリカン病院に、腎臓の病気を治療するため入院し、その入院中にアメリカCIA要員やサウジ高官などが、面会に訪れていたことを報じています。
又最近では、トルコの大手紙「ザマン」が、トルコ当局がアルカイダNo.5のルアイ・サクラを逮捕し、取り調べたところ、自分はCIAのエージェントとして、多額の資金を貰って活動をしていたと自供したと、報道しています。

CIAとアルカイダの結びつきは、今後の検証を待たなくてはなりませんが、先のザマン紙に語ったトルコのテロ専門家のコメントは、国際テロの背景を考える上で、留意する必要があると考えます。
「アルカイダという名前の組織は存在しない。アルカイダとは、テロ戦争を永続できる状況を作ることを目的として、CIAなどの諜報機関が行っている作戦の名前である」。
「テロ戦争の目的は、常に低強度の危機が持続している状態を作ることで(アメリカが世界から頼られる)単独覇権体制を維持することにある」。
(この項、「田中宇の国際ニュース解説」より引用)

2005/10/07

現代保育事情

hoikuen
今の日本の最大課題は、少子化対策でしょう。そこで、女性にどんどん子供を産んでもらわなくてはならない。よし!それならこの私めも老体に鞭打ち、何かお役に立てないものかと愛妻に尋ねたら、そうね小さな子供の面倒でもみたらと、言われてしまいしました。

そういうわけで、今日は子守(正確には孫守)の話しです。近くに住む娘に6歳の男の子(小1)と1歳の女の子がおり、仕事を続けている関係から、毎夕方保育園から孫を引き取り、娘が帰宅するまで子守をする日常となっています。今春までは、上の子も保育園に通っていましたので二人の面倒を見ていましたが、今は孫娘だけです。愛妻はその間、娘の家の夕食の支度やら掃除洗濯やらで、夫婦揃ってボランティア家政婦というのが実態です。

娘の場合常勤なので、通勤時間が往復3時間で勤務時間が9時間ですから、残業無しでも最低12時間は子供を預かる必要があります。しかし通常の保育園は最大でも10-11時間ですから、必ず二重保育が必要となります。24時間保育というような施設もありますが、保育料が高く、施設の条件も悪い所が多いので、できるだけ避けたいのです。

そのせいか、お母さんたちでも常勤の人は少ない。孫娘のクラスでは、電車通勤しているお母さんは娘だけのようです。
最近目立つのは、外国出身の母親たちで、子供たちを見ていると国際色が豊かになってきています。

私たち夫婦も共働きだったのですが、二人の両親とも実家が遠いため応援が頼めず、夕方の子守は家政婦さんに頼んでいました。
処が乳幼児というのは、実に良く病気に罹ります。それも麻疹やおたふく風邪などの伝染性の病気ですと、完全に感染の恐れが無くなるまで、登園ができません。子供は二人いましたから、片方が直る頃もう片方が発症すると、最低2週間は通園できなくなります。その間は家政婦さんに日中ずっと、家で子供の面倒を見て貰うことになります。妻の給料より、家政婦さんに払う費用の方が多かったということも、度々でした。

もっと困るのは、保育園にいる間に発熱して、直ぐに引き取ってくれと連絡がくる場合です。我が家ではこうしたケースでは、私が会社を早退して子供を連れ帰りました。そういう条件が無い家庭が、殆どでしょう。
娘夫婦の場合は、私たちが全てカバーしてますので、その点は幸せです。

認可保育園の場合、私たちの頃から収入に応じて保育費が決められていました。簡単に言えば、税金が高い人ほど保育費も高くなります。我が家の子供たちが通っていた保育園では、近所の商店街や自営業の子供たちも沢山通っていました。そうした家の保育費が、我が家の3分の1以下だったりすると、そんなバカなと、ついつい腹立たしくなりました。世間で言われるように、税の捕捉率がサラリーマンには不利だなと実感しました。

そういうわけで毎日保育園通いをしていますが、祖父さんのお迎えは少ないようで目立つのでしょうか、直ぐにOOちゃんのジイチャンと子供たちに覚えられます。時々近所のスーパーで買い物をしていると、「あ、OOちゃんのジイチャンだ」と指を指されたりします。
もはや私のアイディンティイは、OOちゃんのジイサンという形でしか存在しないのです。
でも決して辛いことだけではありません。保育園で若いお母さんたちに混じっていると、結構気分が若返るものです。

園の保育士さんの話では、それでも都内の保育園は保育士の定員が多く、他県に比べ条件が良いそうです。確かに障害のある子供さんも通園していますし、そういう子供さんの場合は専任の保育士が付きますので、定員に余裕がないと無理ですね。
他県で、子供に障害が見つかった途端、退園を迫られてたいう話を、直接聞いたことがありますので、東京はまだまだ条件が良いのでしょう。革新都政の頃の好条件が残されているのです。
しかし最近、何事も構造改革ばやりで、区立保育園の民営化も進められつつある中、東京の保育園の条件も年々切り下げられているという、これは近所に住む保育園園長さんの話しですが。

少子化対策には、先ずは女性が結婚しても安心して子供を育てられる条件作りが欠かせません。
国も自治体も、保育所の質量両面での一層の充実を図る必要があるでしょう。

2005/10/04

身近にあった「人身売買」(その2)

baby
これは人身売買とは云えないかも知れませんが、戦前によくあった「貰い子」の話しです。乳児を別の家族が引き取って育てるのですから、そこにある程度のお金のヤリトリがあったことは、想像に難くありません。

戦前、私の母は「貰い子」の仲介をしていました。相手は主に親類縁者と、私の両親が経営していたカフェ時代の女給さんたちです。元々世話好きの母が、完全なボランティアとして行っていたものです。
当時は、堕胎が自由にできない時代で、婚外で子供が出来て悩んでいる人が多かったようです。避妊方法が今ほど普及していなかったことも、原因です。
今だったら「デキコン」で目出度くゴールインとなるのですが、何せ戦前は親の許しがなければ結婚できなかった。それに不倫や浮気、こちらは当時も結構多かったんですね。

一方、これは現在でも深刻な問題ですが、子供が出来ずに悩んでいる方もいました。母はその間をつなぎ、望まずに生まれてしまった子供を、子供を欲しがっている家庭に仲介したわけです。
これだけなら現在でもある養子になるわけですが、違うのは実子として仲介した点です。
養子の場合、子供が成人してある時期、戸籍を調べれば、自分が本当の子ではないと分かるわけで、それが原因で親子関係が崩れたり、子供がグレル例も多かったそうです。

母は産院や産婆を抱きこんで、ニセの出生証明書を作らせ、譲り受けた赤ちゃんを最初からその家庭の実子として、役所に届けさせるのです。そうすれば生んだ方も何も痕跡が残らず、譲り受けた側も戸籍上は実子となりますので、万事が円く収まるという仕組みです。

母は「貰い子」を仲介するにあたり、鉄則を持っていました。
一つは、赤ちゃんを譲る側と貰う側、双方に会うのは母だけで、絶対に直接顔を会わさせないこと。
もう一つは、赤ちゃんを譲った側の人とは、母はその後一切接触しないこと。
それと、赤ちゃんを譲る側の身元が確かであることを条件にしていました。
例えば、慶応病院の医者が看護とデキテ子供が産まれてしまったというようなケースです。こういう場合は、出生証明書の偽造も、楽だったのでしょうね。
言葉は良くないですが、母には一種の「品質保証」の考え方があったのだと思います。
「実子」を永久に真実とするためには、生みの親との関係を完全に遮断しなければなりません。そのためには、極めて合理的な方策だと云えます。

子供を貰った方の家庭とは、母は親しくお付き合いをしていました。先方は頻繁に母のところを訪ねてきていましたし、母は時々先方に行って子供の様子を観察し、子供に問題が起これば相談に乗っていました。
母はよく私に、「ひとつだけ失敗しちゃったけど、他の子はみんな出来が良くて、上手くいってるよ。」と言っておりました。
そうしてその子供たちは、最初から最後まで実の子として育てられました。

母のこうした行為は、確かに違法です。
でも人間の幸せ、生まれてきた赤ちゃんたちの幸せ、と言う観点に立てば、決して悪いことではありません。

母は神奈川県多摩の農村の生まれですが、子供の頃は未だ乳児の「間引き」が行われていたそうです。
産婆さんが、生まれたばかりの赤ん坊の口に、水で濡らした障子紙を当て、あとは亡骸を山林に埋めておしまいです。
とても残酷な話しですが、当時の貧しい農家が生き抜いていくには、それ以外方法が無かったのでしょう。
それに比べれば、母が仲介した「貰い子」たちは、遥かに幸せだったと思います。

今の人たちの中に、開発途上国での色々な出来事をとりあげて非難する向きがありますが、たかだか数十年前の日本でも、こうしたことが日常的に行われていたことを、知っておく必要があります。
善悪の基準も、時代によって変わってきます。

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