「ユダは裏切り者」だったか?(その2)
今回このテーマを選んで、ただいま後悔しているところです。
しかし書きかけで放り出すのもナンですから、続けることにしましょう。
今回米国ナショナル ジオグラフィック協会から発表された文書によれば、初期キリスト教文書『ユダの福音書』の現存する唯一の写本を含むコプト語のパピルス文書が、専門家チームによる鑑定、修復、翻訳を経て、その一部が公開されました。
コプト語の写本の元になった『ユダの福音書』のギリシャ語の原典は、正典福音書の成立期から紀元180年までの間に、初期のグノーシス派に属する人々によって書かれたようです。
しかしこの原典は、存在は当時の文献から推定されているようですが、実物は発見されていません。グノーシス派は、真の救済はイエスが側近たちに伝えた秘密の知識を通じてもたらされると考え、この秘密の知識は魂を物質的な肉体から解放し、人間の内部にもともとあった神とのつながりを復活させるものだと主張しました。さらに彼らは、イエスの父である神は、物質世界を創造した旧約聖書の神より、上位の存在だと信じていました。
「ユダ福音書」は、グノーシス派の考え方が色濃く反映されたもののようです。
このコプト語のパピルス写本は、紀元300年ごろに書かれたとみられます。この写本は1970年代にエジプトのミニヤー県付近の砂漠で発見され、エジプトからヨーロッパを経由して米国に持ち込まれました。その後複雑な変遷をたどった後、専門家チームが結成され、調査が始まりました。
パピルスの放射性炭素年代測定や、インクの成分分析から、この写本が当時のものであることが確認されました。
さて「ユダの福音書」の冒頭には、「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」と書かれています。つまり最後の晩餐を行う以前の1週間に、イエスとユダがさしで話し合いをしたというわけです。
福音書の初めの部分で、イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。
イエスはユダにこう語ります。「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」。ユダはイエスから物質である肉体を取り除くことによって、内なる真の自己、つまり神の本質を解放するというのです。
この福音書からは、キリストがユダに対してと格別の信頼感を持っていたことが、窺われます。
たとえばイエスはユダに、「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に[神の]王国の神秘を語って聞かせよう。その王国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」と語っています。
また「お前はこの世代の他の者たちの非難の的となるだろう――そして彼らの上に君臨するだろう」とイエスは言っていますが、非難は当っていますが、君臨は外れてしまったようです。
福音書の最後には、「彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。ユダは彼らが望むとおりのことを答え、いくらかの金を受け取ると、イエスを引き渡した。」と書かれていますが、その後のキリストの磔刑や復活については触れられていません。
この記述通りであれば、キリスト処刑当日の使徒たちの行動は、辻褄が合います。キリストの意図を、当初は彼らが理解できなかったということなのでしょう。
私は前回に記したように、旧約聖書のイザヤの預言を、キリストが実行しようとしたのではないかと考えていました。
「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」
「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」
イザヤの預言は、キリスト自身の死によって実現されたと考えます。
いずれの理由にせよキリストの死は避けられないし、教祖の死は教団の消滅を招きかねません。とすれば、弟子たちがこぞって反対したかも知れません。
処刑当日、彼らが姿を見せなかったのも、そうした理由からでしょう。
しかしキリストの死と復活を経て、初めてその死の意味を理解し、キリストの思想に深く帰依した使徒たちは命がけで布教活動を開始し、その後の教団の隆盛をもたらしました。
教団組織の側から見れば、教祖の命と引き換えに、繁栄を手に入れたことになります。
それがユダという一人の使徒の裏切りの結果なのか、キリスト個人の意思によるのか、キリストと一部の弟子による計画なのか、あるいは教団全体の合意によるものか、2000年前の出来事にはまだまだ謎が多いようです。
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こんばんわ
僕は宗教の話とか好きですが
そんな詳しいわけでもなく
興味深くよませて頂きました
こういう記録しかない歴史の話ってのは
いろんな時代、その雰囲気、考え方、政治
等を反映しているのだなーと思ったり
決して正解を知ることができないというのがまたおもしろいですよね
ちなみに
僕は 裏切り者のユダ という役割のほうが
あのキリスト教の聖書の物語 としてドラマチックでわかりやすいんじゃないかと思います
史実はさてどうなんでしょうね
投稿: tomo | 2006/04/16 23:35
はじめまして、ほめく様。いつも楽しく、勉強させていただいております☆
さて、今回の古文書の解読は、歴史的にはとても重要な意味があると思われますが、神学的にはどうでしょうか。
これも冒頭にお書きのグノーシス派が自己アピールのため書かれたものではないか?と見ております。
3~4Cに、古コプト語で、写本として、書かれている点は、「トマスの福音書」に類似していると思います。
イスカリオテ・ユダの裏切りの真実は、私にはわかりません。しかし、ユダがキリストを売らないかぎり、「十字架の贖い」は成就しませんでした。すべてが神の計画、ということでしょうか。
旧約聖書では数多くのキリストに関する預言があります。これらが、もし偶然に起きたなら、その確率は、「一億円の宝くじを百万回連続に、一発で当てる」確率だそうです。
『しかし、彼を砕いて、痛めつけることは、主のみこころであった。』イザヤ書53章
投稿: トマスの福音書 | 2006/04/17 00:47
tomo様
コメント有難うございます。
聖書は物語文学としても大変興味深い書物です。教典なので止む得ないのですが、不自然な記述も多い。そこに又謎解きの面白さがあるのだと思います。
歴史と考えれば、当時の文献を精査して整理して、事実に迫って行かれるのですが、そこは宗教書としての制約があります。
私はユダの裏切りに疑問を持っていますが、正典と矛盾する事は、これからも受け入れられる事は無いでしょう。
投稿: home-9 | 2006/04/17 12:02
トマスの福音書様
コメント有難うございます。
もしキリストの十字架での磔刑が行われていなければ、今日のキリスト教の発展は無かったでしょう。そういう意味でキリスト自身の願い、教団の目的はキリストの死によって達成されたと思います。
イザヤの預言は、預言が当ったというよりは、正典福音書の作者が、キリストの生涯をイザヤの預言に合わせて再構成したと想像しています。
キリストに権威を付与するためには、旧約聖書との連続性を証明する必要があったと思われます。
邪馬台国論争と同様に、誰でもが参加できる推理ドラマとして、とても興味深いテーマです。
投稿: home-9 | 2006/04/17 12:17