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2006/05/18

「田村高廣」の死去を悼む

Tamura
2回続けて、追悼文をエントリーすることになりました。
俳優田村高廣が死去していたことが18日判明しました。享年77歳でした。故人の遺志で葬儀日程などは公表されておらず、通夜も既に近親者で終えているようです。
田村高廣には、私が勝手にご縁を感じていました。

田村高廣は、大学卒業後一度は商社に勤めていたのですが、そのご映画界入りしたという経歴の持ち主です。
世間から注目されたのは、木下恵介監督の「二十四の瞳」で、戦争で視力を失う男子生徒の役を演じてからです。

1965年には、映画「兵隊やくざ」でのインテリ役で、主演のやくざの親分役勝新太郎と名コンビを組んで、大ヒットし、シリーズ化されました。
この兵隊ヤクザの親分のモデルになったのが、戦前から戦後にかけて、日本やくざ史上に燦然と名を残す(適切な表現かどうか、疑問ですが)万年東一です。
万年東一とは、私の家族ぐるみの付き合いがありました。私の従姉が一時期、万年東一の愛人の一人だったこともあり、幼少時に度々顔を合わせています。
そんな関係もあって田村高廣に、一方的に親しみを感じておりました。

しかし、何といっても田村高廣の演技で印象に残るのは、1981年の映画「泥の河」で演じた、食堂の主人でしょう。厳しさと温かさを併せ持ち、繊細でいてで人情味溢れるこの役は、田村高廣以外のキャスティングが思い付かないほどの、適役でした。
生前ご本人も、代表作としてこの作品をあげていたそうです。

田村高廣といえば、父親の阪妻こと阪東妻三郎のことに触れないわけにはいかないでしょう。日本映画初期の大スターであり、名優です。
私が生まれて始めて観た映画は、その阪東が主演した「無法松の一生」です。映画そのものは私が生まれる前に製作されましたが、終戦後に再上映されたのを見たのでしょう。
この映画で主人公の車夫が、未亡人への思いを告げる一番のクライマックスシーンが、出征中の兵士の士気に影響するという理由から、当局によりカットされてしまいました。太平洋戦争末期という、時局の反映です。それでもこの映画は、日本映画史上に残る傑作となりました。
余談ですが、この時の名子役が、現在の長門裕之です。

阪妻は1953年に急逝しましたが、私は遺作となった映画「あばれ獅子」も観ています。撮影中の死であったため、最終シーンの後ろ姿は吹き替えでした。
独特の台詞回しと、ちょっと背中を丸くして歩く阪妻の姿は、今でも心に残っています。

よく田村高廣が、父阪妻にそっくりと言う人がいましたが、私はそう感じません。
親子ですから顔は似ていますが、阪妻という人が豪放磊落な人柄であったのに対し、田村高廣は繊細、誠実な人柄であったと思われ、顔つきにもそれがはっきり出ていました。
そして何より最も大きい違いは、阪妻にはこぼれんばかりの色気と愛嬌がありましたが、田村高廣にはそれが欠けていました。
それが方や常に主演であり続けた大スターであり、方や名脇役であった差だと思います。

得難いバイプレイヤーとして、まだまだ活躍をして欲しかった田村高廣の死は、とても残念です。
ご冥福を祈ります。

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コメント

HOME9さんも、田村高廣には、勝手にご縁を感じていたのですか。
実は私もです。
彼の弟である正和と私が中学の同級生。
たったそけだけの理由なのですが(笑)
でも「24の瞳」は見ましたよ。

投稿: タケチャンマン | 2006/05/20 14:19

タケチャンマン様
コメント有難うございます。
阪東妻三郎の華やかさと色気を一番継いでいるのは、正和さんかも知れませんね。
偉大な父親を持つ悩み大変さというのは、ジャンルを問わずですが、高広さんもその例外では無かったでしょう。

投稿: home-9 | 2006/05/22 00:07

はじめまして。
八ヶ岳通信(知人ブログです)のトラバからこちらにきました。
私は、加納貢氏に憧れボタンヌに通ってましたが
既にその親分筋にあたる万年さんはこの世の方ではありませんでした。
万年さんに関しては山平重樹や宮崎学の本でしか知識はありませんでしたが
ボタンヌのママから聞く万年さんも男の自分でさえ惚れてしまう魅力があったようです。

投稿: アキオ | 2006/05/25 18:53

アオキ様
コメント有難うございます。
万年さんの家は私の生家と直ぐ近く水商売をやっていた関係から、万年さんは常連客でしたので、私の両親は戦前から万年さんとは知り合いでした。
終戦後の一時期我が家の店は、万年さんとその関係者が入り浸っていて、まるで事務所のような様相を呈していたようです。
店の手伝いに来ていた従姉が、太目の秋川リサという感じのコケティッシュな人でしたが、万年さんと深い関係になったのも、その頃だったようです。
私は万年さんがどういう人なのかは全く知らず、ただ近所のカッコイイおじさんという印象しかありません。子供好きで、よく可愛がって貰った記憶だけあります。
戦後みんながボロを着ていた時代に、彼だけはハリウッド映画の俳優のような、洒落た服装をしていました。物腰が柔らかくて男前でしたから、女にはもてたのでしょう。
近所でも万年さんがヤクザの大親分だとは知らない人が殆どで、奥さんの葬儀に300本の花輪が町内を埋め尽くして、初めて気が付いた人が多かったそうです。
カタギには迷惑を掛けない、そういう矜持を持った人だったようで、昨今のヤクザ、暴力団連中の堕落ぶりには、天国で眉を顰めているでしょうね。

投稿: home-9 | 2006/05/26 09:49

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