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2006/05/16

惜別「松山恵子」

Keikoconsert
歌手の「おけいちゃん」こと松山恵子(本名、岡崎恒好(つねこ))が、5月7日肝臓癌のため亡くなりました。1937年生まれで、享年69歳でした。同時代の人が、といっても彼女の方が年上ですが、亡くなるというのは、とても寂しい気分になるものです。

歌手デビューが1955年ですから、芸能生活52年ということになります。私はほぼデビュー当時から、名前を知っていました。
当時ラジオでは、各レコード会社が競って自社の宣伝番組を持っていました。彼女の所属した日本マーキュリーレコードという会社はマイナーな会社で、世間に知られている歌手というのが、当時は松山恵子と藤島恒夫(♪包丁いいっぽん、晒しに巻いてへ・・♪の歌手です)しかいなかった。従って毎週彼女のレコードが必ずラジオから流れていました。

故郷の宇和島市で、小学校から歌のレッスンに通い始め、風の吹き荒れる台風の夜、停電になってもロウソクの火の下で、ただ一人練習を続けていたというエピソードがありますが、根性もあったのでしょうが、芯から歌が好きだったのでしょうね。中学卒業後全国歌謡コンクールで優勝し、プロの歌手となっています。

主なヒット曲は、「未練の波止場」「お別れ公衆電話」「「バックナンバー1050」「アンコ悲しや」「だから言ったじゃないの」などですが、その大半は歌手活動の初期です。通常こういう歌手は世間から忘れ去られるケースが多い。
それとご本人には失礼ですが、決して美声の持ち主ではないし、特に歌唱力が優れているわけではない、いうなればB級歌手でした。偉大なるB級です。
それでいて半世紀以上にわたり第一線で活躍できたのは、偏に彼女のキャラクターがファンに愛されたからでしょう。

小柄な身体をカバーするような、舞台一杯に広がる巨大な落下傘ドレスを身に纏い、片手にハンカチを持ち、甘ったるい声で観客に話しかける、見方によってはクサイ印象を与えますが、ファンにはそのクササがたまらない。歌をじっくりと聴くというより、ナマ「おけいちゃん」に会いに行って満足する、そういう歌手であったと思います。
何より60歳を越えても、なお可愛らしい女性であり続けた、ここが最大の魅力でしょう。

今年2月に収録し、昨日NHK・BSで放送されたコンサートで、松山恵子は自ら癌と闘っていることを、始めて告白しました。
涙を流しながら話す姿に、会場全体がすすり泣いているように、私は感じました。
体調不良の中を、アンコールで3曲歌い、フィナーレでは「又会いに来てね」とトレードマークのハンカチをグルグル回していた姿が、眼に焼きついています。

故郷のJR宇和島駅の改札口の脇に、「お別れ公衆電話」に因んだ電話ボックスが置かれているそうです。左上の写真は、その前で歌う松山恵子の姿です。

ご冥福をお祈りします。

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芸能・アイドル」カテゴリの記事

コメント

トラックバックをいただき、ありがとうございました。こちらからもトラックバックさせていただいたのですが、どうも上手く送信されないようです。

それはともかく、私のブログで、それと匂わせながらもはっきりとした口調で表現できなかったことを、こちらのブログでは説得力のある筆致で述べられており、言い得て妙と深く同意、納得いたしました。

TBありがとう。
女房が、お恵ちゃんの唄を十八番にしています。
子供のころ、風呂焚きをしながら覚えたと良く話します。お恵ちゃんはきっとご両親とゆっくりお茶でもしていることでしょう。

frugal gambler様
コメント有難うございます。
松山恵子の追悼文を多くの方々がブログで書かれていて、改めて彼女の人気の高さを感じました。
舞台に登場しただけで、会場全体を明るくする、得難い歌手でした。

enkayaroo様
コメント有難うございます。
風呂を焚きながら、松山恵子の歌を覚えたという奥様のお話、確かに彼女のデビュー当時の日本の風景でした。
それから半世紀、時代が変わっても、多くのファンに愛されていたということは、大変なことです。
ある意味で松山恵子は、不世出の歌手と言えるかも知れません。

松山恵子さんありがとう!

体調が悪かったことを、ちっとも知らずにおりました。
娘が、肝臓病で苦しんでいることを知り励ましていただきました。
ありがとうございました。
おかげさまで今は元気になり、ほぼ人並みの生活ができるようになりました。

明るい歌声をこれから聴けないことが残念ですが、私たちも病気とうまく付き合いながら、皆さんに助けていただいたお返しを社会にしていきます。

けい様
コメント有難うございます。
お別れコンサートでの、おけいちゃんの姿、何より病気と闘って行きたいという決意と、最後までサービス精神を失わない姿勢に、感動した方は多いと思います。
急逝は残念ですが、おけいちゃんは最後まで全力疾走したのだと思います。

今晩は、初めて書き込みさせていただきます。私は、お恵ちゃんと出逢ったのは、平成元年です。お恵ちゃんには、とても可愛いがっていただきました。BS日本のうた
歌謡コンサート(チャリティー)で、広島やラジオで、四国に2回、沖縄にも2回ほどふたりのビッグショーで、広島・石川県・あとは東京のステージ・や福島のステージ転々と一諸に連れて行っていただきました。お恵ちゃんとは、家族のようにしていただきました。お恵ちゃんは、ファンをとても大切にしてくださいました。渋谷らいぶ館の時も、私は、会場にいました。
体調の悪さは、知りながら、私は、不安を抱えながら拝見してました。でも、サービス精神旺盛な、お恵ちゃんは、そんなそぶりも見せず最後まで、ファンを楽しませてくれました。そんなお恵ちゃんが、今でも、大好きです。お恵ちゃんは、庶民派の歌手でした。書き込みでは、B級の歌手とありましたが、私は、50年以上も、歌手生活され、気取らない歌手はいないとおもいます。歌も上手でした。お恵ちゃんの歌を、歌える方はいないと思います。

かずちゃん様
コメント有難うございます。
このエントリーには沢山の方が書きこみをされていて、おけいちゃんがいかに多くのファンに愛されていたのか分かります。
美空ひばりや藤山一郎といった国民的歌手とは異なり、良い意味でのアイドル歌手であり続けた方だったと思います。
本当に幸せな人でした。

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» 「だから云ったじゃないの」 哀悼・松山恵子さん [クレイジーポーカー 2 Crazy Popular Song (歌謡曲)]
「お恵ちゃん」と呼ばれ親しまれた松山恵子さんが亡くなられました。 彼女のデビューは、私が生まれる前ですから、馴染みがないのもむべなるかなです。「だから云ったじゃないの」は、もちろん良く知っている曲ですが、私が生まれて間もなくの頃にヒットした曲なので、..... [続きを読む]

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