「赤穂事件(忠臣蔵)」の謎と真実(上)
今月から3ヶ月にわたり、国立劇場の「元禄忠臣蔵」を観劇する予定ですが、これに合わせていわゆる「赤穂事件」の謎と真実について、私見を述べてみたいと思います。
この事件は、一般に忠臣蔵と呼ばれるほど人口に膾炙され、それだけに事実と物語の世界がないまぜになり、フィクションがあたかも真実のように受け止められています。
史実としての赤穂事件とはどういうものだったのか確認して見ましょう。
【刃傷】
元禄14年(1701年)江戸城松の廊下において、赤穂藩主浅野内匠頭が高家肝煎吉良上野介に切りかかり負傷させた。
幕府は浅野内匠頭に対し切腹・御家断絶、吉良上野介に対しては「お構いなし」との裁定を行った。
内匠頭の弟で養子の浅野大学は閉門、赤穂藩の江戸藩邸と赤穂城は収公され、家臣は城下から退去となった。
【討ち入り】
翌年の元禄15年(1702年)12月14日、元家老職にあった大石内蔵助以下赤穂浪人46名が、江戸本所の吉良邸に討ち入り、上野介とその家臣多数を殺害、負傷させた。
今回の事件に対する幕府の裁定は、討ち入りに参加した赤穂浪人全員を切腹させ、遺児に遠島を命じた。
一方上野介の養子吉良左兵衛は知行地を召し上げられ、他家へお預けとなった。
以上が赤穂事件全体の概要であり、事実です。
何だかこうして事実だけ書くと、2つの事件ともに浅野家サイドが加害者、吉良家サイドは被害者であることが分かります。
しかも最初の刃傷事件は無抵抗の吉良を浅野が一方的に切りつけたものであり、後者は武装した旧浅野家家臣たちが、無防備の吉良家の主とその家臣たちを殺戮したものです。
処が、吉良家は前の事件ではお構いなしだったのに、後の事件では事実上のお取りつぶしにされたのですから、正にふんだりけったりで、被害者側から見ると不条理な裁きだったと思います。
赤穂事件は、「忠臣蔵」ではなく、「吉良家の災難」と呼ぶのが相応しいですね。
赤穂事件の最大の謎は、私は討ち入りにあると考えています。
江戸の市中は将軍のお膝元ですから警戒は厳重であり、街の治安も今より遥かに良かったでしょう。
では何故、完全武装した50人近くの集団が徒党を組み、大名屋敷に押し入るなどということが出来たのでしょうか。
夜中に押し入った後恐らく数時間は吉良邸内に留まり、かつ上野介の首級を掲げて、本所から高輪泉岳寺まで集団で行進できたというのは、いかにも不自然ではないでしょうか。江戸の治安部隊が出動しなかったのには、それなりの理由があったのでしょう。
赤穂浪人の討ち入りが、実は幕府首脳の暗黙の了解、黙認の下で行われたとしか、考えられない。
刃傷から討ち入りまでの1年数ヶ月の間に、恐らくは幕府上層部の方針に大きな変化があったのでしょう。
三権分立など無かった時代の政治事件への裁定は、100%トップの方針で左右された筈です。
この辺りは程度の差はありますが、現在も同じかも知れませんが。
吉良家サイドに過失があったとすれば、そうした幕府の動向に気付かず、藩邸のセキュリティを疎かにしたという点です。
時の最高権力はである柳沢吉保や、米沢上杉家との縁戚関係に頼り切って油断し過ぎたことが、吉良家の悲劇を生んだものと思われます。
地元では名君として慕われていたという上野介ですが、気の毒な最期を遂げたことになります。
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