「赤穂事件(忠臣蔵)」の謎と真実(下)
元禄忠臣蔵の観劇記と並行して掲載してきた「赤穂事件(忠臣蔵)」の謎と真実も、今回が最終回です。
この事件の最大に謎は、吉良に対する浅野の刃傷事件が、最後まで原因が分からずに終わってしまったということです。
事件後の聴取で、浅野は「私的な遺恨」であることを繰り返し述べていますが、その具体的な内容は最後まで口をつぐんでいます。一方吉良は「恨みを受ける覚えがない」と主張しています。
加害者である浅野は処罰されるにしても、もし吉良により名誉を汚されたなどの事実があれば、吉良にも何らかの処罰が下された可能性があります。
従って、浅野内匠頭が一切口を閉ざした理由が、どうも理解し難いところです。
寛永4年の殿中刃傷事件では、口論(喧嘩)が原因とされて、被害者側もお家断絶の処分になっています。
浅野内匠頭の「一言の申し開きもない」という弁明が、この事件をややこしくしてしまいました。
内匠頭の血筋で一つ気になることがあります。
母方の伯父にあたる内藤忠勝という大名が、芝増上寺で行われた将軍家綱の法要の席で、大名永井信濃守を殺害する事件を起こしています。
この両事件には共通点が多いのです。
①幕府にとり重要な儀式の最中に起きている。
②加害者に強い殺意が認められる。
③被害者が立場上で上役にあたる。
④被害者が無抵抗であった。
⑤加害者は直ちに切腹となった。
まさか浅野内匠頭に、内藤忠勝のDNAが影響したというわけではないでしょうが。
大石内蔵助は討ち入りについて随分と迷いました。
最終的に決断したのは、浅野家の再興が不可能となったこと、浪士の中の脱落者が増えてきたことや経済上の理由などがありますが。私はもう一つ重要な要素に、幕府がこの仇討ちを認めるかどうかの判断があったのだと思います。
大石は当初から、自分達の行動が幕府に盾突くものではないことを強調してきました。しかし主君浅野内匠頭の仇として吉良を討てば、刃傷事件にあける幕府の裁定への抗議と受け取られかねない。
幕府がこの討ち入りを認めてくれるかどうか、そこを心配していたのでしょう。
これは私の推理ですが、刃傷事件の起きた年の9月に、吉良家の屋敷が呉服橋門内から本所に移し替えになりましたが、これで討ち入りを幕府が容認するとの感触を得たのではないかと思っています。
というのは、呉服橋門内は武家屋敷に囲まれていて、何といっても江戸城のお膝元ですから、非常に警備が厳重でした。この地区に近付くのも容易はなかったでしょう。
赤穂の浪人たちが密かに討ち入りの計画を練っているという情報は、幕府の上層部に届いていたでしょうから、警備を考えれば呉服橋の方が遥かに安全でした。
一方本所ですが、当時は「本所無縁寺うしろ」という地名(本所松坂町というのは後年つけられた地名)に表れているように、かなり寂しい地域でした。当然警備も手薄になります。
吉良家の屋敷が元の呉服橋門内にあったなら、討ち入りを成功させるのは非常に難しかったでしょう。
そこで本所への移転を、大石は幕府のGOサインと読んだのではないか、これが私の推理です。
討ち入り後、浪士の中の2名が大目付仙石伯耆守の屋敷に出頭し、「浅野内匠頭家来口上書」を差し出しています。討ち入りの届出を行ったわけです。
ここで仙石伯耆守は浪士たちの行動を誉め、感心したことは注目に値します。
既に討ち入りを予想していた幕府の上層部の中には、赤穂浪士たちの行動を支持する動きがあったのでしょう。
大石内蔵助としては、亡き主君の仇討ちを成功させると同時に、幕府に自分達の行為を認めさせたということで、全面勝利であったわけです。
哀れをとどめたのは吉良家でした。
刃傷事件と、討ち入りという2度の被害にあい、前の主君義央は殺害され、現主君の左兵衛は重傷を負ってお家は断絶、本人も他家にお預けとなり罪人と同様の扱いを受けた末、21歳の若さで死んでゆきます。
大石以下浪士46名に切腹に申し渡しがあったその当日、幕府は吉良方に先の厳しい処分を下しました。
かつての殿中刃傷事件の裁定とは、正に雲泥の差です。
この間に将軍及び幕府上層部にどのような心境の変化があったのか、これも謎です。
赤穂事件は、その後これを題材にした芝居「仮名手本忠臣蔵」が余りに大当たりし、日本人の心情にまで深く影響した結果、事実とフィクションとの境目がアイマイにされてきたきらいがあります。
そのため特に吉良上野介が一方的な悪者とされてきたことは、大変気の毒なことです。
一種の「風評被害」とも言えるでしょう。
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吉良家の屋敷替えに関してですが、赤穂浪士の研究家である平尾狐城は『滅びゆくものの美−赤穂浪士の死生観−』という著作において、「(前略)『甘露叢』や延享の『吾妻鑑』などには彼(註、吉良上野介)の願い通り屋敷替えになったと載っている。それもあるだろうが、丸ノ内で近所に屋敷を構える蜂須賀らが、赤穂浪士の討ち入りで火でもかけられては大変と陰の運動をして吉良を追っぱらったのだという」といっており、また歴史考証家の綿谷雪も『考証 江戸八百八町』のなかで、「一説に、吉良が権要者の多い丸ノ内から辺鄙な本所へ移されたのは、幕閣が吉良をにくんで左遷したのであり、もし万一、赤穂の義党が復讐のために乱入をくわだてるとすれば、丸ノ内は戒厳地であるから決行しにくかろうという配慮もあったのであろうとまで、ご念の入った推理論議もあるようだが、それは行き過ぎである。吉良上野介は丸ノ内より本所の方が安全だと思って、自分から屋敷替えを願って許されたのだ。その証拠に、彼の親戚たち、荒川丹後守、伊東志摩守、高木宇右衛門、津軽采女、酒井主馬等の屋敷が、いかに彼の新しい住所の近辺に散在しているかを、当時の地図によって一覧されるがよろしい」と述べています。
まずは参考までに。
投稿: 小林平八郎 | 2008/11/21 02:13
小林平八郎様
詳細なコメントを頂き感謝いたします。
先ずお詫びしなければならないのが、現在頂いたコメントは一旦保留とされ、その後に公開されますので、時間遅れがあります。こうした事をしたくないのですが、当ブログに送られるコメントやTBの8割以上がアダルトサイト宣伝用のスパムです。そのまま公開することが憚れるような内容のものが大半のため、こうした措置を採っています。この点ご了解をお願い申し上げます。
さて吉良邸の屋敷替えの件ですが、自ら願い出ての事というのは、初めて伺いました。ご指摘のような事情もあっての事なのかも知れません。
ただこの転居が大石らの討ち入りに有利に働いた可能性があり、結果として吉良家の安全は担保されなかったのではないでしょうか。
子どもの頃初めて忠臣蔵の物語に接した時から、どうもこの話には無理があり、真実とは異なるのではないかと、ずっと考えてきました。その思いをこの拙文にまとめたものです。
投稿: home-9(ほめく) | 2008/11/21 14:51
刃傷事件の最大の原因は、当日になってのスケジュール前倒し変更にあると思います。
これは平成10年から11年にかけての雑誌連載で既に発表したことですが、梶川日記には、急な「時刻変更」があったことや勅使ら公家衆が予想外に早く登城したことが書かれています。
さらに徳川実記(常憲院御實記)の元禄十四年三月十四日条には、「長矩時刻を過ち禮節を失ふ事多かりしほどにこれをうらみかゝることに及びしとぞ」とあります。
浅野内匠頭は勅使らの宿舎である傳奏屋敷の長屋に寝泊りして接待にあたっていました。勅使らの登城など時刻管理も仕事のうちです。
事件当日は勅使らよりも内匠頭のほうが早い時刻に登城しているので、内匠頭がスケジュールを間違って記憶したか、あるいは傳奏屋敷にいた浅野の家来が間違った時刻で勅使らに傳奏屋敷出発の時刻を告げたものと思われます。これ以外にも前からの体調不良、前日の猿楽高覧立会いによる疲弊などが重なっていました。
松之大廊下での吉良と梶川のやりとりは時刻変更に関することでした。そこで、内匠頭はキレた。
「拙者を差し置いて何事ぞ!」
投稿: 百楽天 | 2011/02/07 23:13
百楽天様
詳細なコメント有難うございます。
浅野内匠頭としては、ストレスと披露が蓄積していた上に、勅使のスケジュール変更が知らされていなかったとしたら、逆上する要因になっていたのかも知れません。
いずれにしろ吉良には罪がなく、一方的な被害者ということになるのでしょう。
投稿: home-9(ほめ・く) | 2011/02/08 10:18
屋敷替のことですが、あの「願い」は形式上のことで、公儀の方針に従ったのです。
本所吉良屋敷の前住人は将軍御小姓の松平登之助で、彼は元禄十四年八月に立退きの指示があってすぐ、移転先の下谷の町野酒之丞の上ケ屋敷に家来を遣わして翌日には受取状を提出しています。
吉良上野介に本所への移転指示が出たのはその直後でした。
松平登之助は速やかに下谷の屋敷に移転しましたが、吉良が本所に移転したのは翌月になってからです。
本所にあった松平登之助の屋敷の正面は南側。これは元禄十一年九月までその地にあった御竹蔵を継承したもので、表門も南側にあったのです。
ところが、吉良屋敷になって正面が東に変わっています。表門が移設されたのです。
大石内蔵助ら表門隊が東の表門から討入ったことは誰でも知っています。
松平登之助の本所屋敷の表門が南にあったことは、当時の江戸大絵図や昭和45年に公開された公儀普請方作成の役所用資料を見ても明らかです。
さらにいうと元禄十五年十二月十三日付で赤穂の三人の僧宛てに大石内蔵助が送った書状には、若老中(若年寄)も御存知なようで(討入は)うまくいくようだ、との記述があります。
討入後に泉岳寺に引き上げたのち、大目付の仙石屋敷に呼ばれ、四家の大名に御預の沙汰が下され、翌年二月に切腹の命がありました。
明六つ頃(5時50分過ぎ)に両国橋の袂を出発。朝四つ近く(8時前)に泉岳寺に到着。暮六つ過ぎ(18時頃)に仙石屋敷に向かい、夜四つ前後(20時頃)に各家に連絡が行き、寺坂吉衛門を除く46名はそれぞれ真夜中に移動したのですが、最近明らかになったのは、こうです。
夕七つ前(4時以前)には、細井広沢が御預けの大名家のひとつ十五万石の伊予松山の城主、松平隠岐守の留守居から御預けの指示があったことを聞いていたのです。
もしかしたら、討入以前に指示されていたもかも知れません。
暮六つ過ぎに一同が泉岳寺の門を出てきたとき、堀部安兵衛の従兄の佐藤條衛門が彼をつかまえて、「どこに行く?」と訊いたところ、「仙石屋敷に行く」と応え。「それからどうなる?」との質問に安兵衛は「切腹、切腹」と答えたというのです。(佐藤條衛門の記録より)
原文は次のとおり。
何方へ被参候哉と尋候へは仙石伯耆守殿へ参候と申候何事にやと申候へハ切腹切腹と申候
投稿: 百楽天 | 2011/02/08 14:30
百楽天様
度々詳細なコメントを頂き、感謝いたします。
吉良家としては呉服橋門内から本所に移るメリットは無かったと思われ、やはり形式上は自ら願い出たことになってはいるものの、実際には公儀の指示だったのでしょう。
少なくとも呉服橋門内であれば、徒党を組んだ武装集団が簡単に屋敷には近付けなかったと思われ、屋敷の移転が討ち入り成功の大きな要因であったことは想像に難くありません。
討入りに、幕府上層部による暗黙の了解があったのではという疑いも、依然として残ります。
投稿: home-9(ほめ・く) | 2011/02/09 10:39
すべて公儀(幕府)主導で行われたことです。刃傷事件後、四月一日から六月二十七日まで、麻布と小石川の離第(将軍別邸)にて大規模な射撃演習が集中的に繰り返し行われました。忠臣蔵本には書いていませんが、「常憲院殿御實記」を参照いただければわかります。討入事件には次期将軍敬称問題を含めた朝廷との難しい問題が関係しています。
なお、十二月十五日未明の日時も、あらかじめ設定されていたと思われます。
あの日であれば、月明かりの下で表門脇に立てた梯子を使って乗り越えていけますが、五日とか六日予定だったということでは、月齢以前に月没時刻からいっても、夜中や暁の討入は不可能です。まさか、松明を片手に梯子を上って雪の積もってる屋根を越えることはできないでしょう。
投稿: 百楽天 | 2011/10/31 21:25
百楽天様
度々興味深いご指摘を頂き感謝します。
「常憲院殿御實記」に関しては全く不案内ですが、12月15日未明の日没や月齢については眼から鱗の思いです。
公儀主導による討ち入りであった事の傍証ということになるのでしょう。
投稿: ほめ・く | 2011/11/01 16:02