思い出の落語家②唄い調子の三代目柳好
昭和26年に初めて民放ラジオが開局すると、各局は争うように落語番組を作り始めました。笑いに飢えていた人々を簡単に満足させるには、落語(特に東京では)を流すのが一番手っ取り早かったわけです。
ラジオから落語が流れない日はなかったし、未だラジオが一家に一台の時代なので、子供たちも家族と一緒に落語を聴いていました。
これが戦後の落語ブームと言われるものです。
ほぼ同じ時期に、「ホール落語」と呼ばれる、寄席ではなくホールで大看板や人気落語家を集めて行う落語会が始まります。
寄席の場合、持ち時間が通常10-15分程度なので、トリを取る時以外はなかなかまとまった噺が聴けない。ホール落語であれば一人が30分ほど演じられるので聴きこたえがあり、こちらも人気が集まりました。
落語ブームはその後10年間続き、昭和35年でピークとなります。
皮肉なことにこうした落語ブームが、寄席を衰退させる大きな要因となっていきました。
最初のうちは、ラジオで聴いた落語をライブで聴きたいと多くの客が寄席に押し寄せました。
処が、名人クラスや実力者、人気者はラジオやホール落語に取られてしまい、寄席に出演しなくなってきます。
志ん生や文楽はホールでしか見られなくなり、当時人気No.1だった三代目三遊亭金馬は協会を抜け、ラジオ出演専門になってしまいます。
せっかく寄席に出かけても、お目当ての芸人の代演、休演が多くなり、ファンは次第に寄席から足が遠のいてしまいました。
昭和40年代に入ると、寄席の歌舞伎座と言われていた「人形町末広」を始め、多くの定席が閉鎖に追い込まれてゆきます。
最近はまた落語ブームになっていますが、寄席の関係者はこうした過去の轍を踏まぬよう、留意する必要があります。
落語の「源平盛衰記」じゃないけど、「驕る平家は久しからず」です。
そんなわけで、初めて寄席に連れて行ってもらった時の印象としては、ラジオに比べると決して面白くないということでした。
平日などは客席は閑散としていて、名前を聞いたことがないような芸人が次々と高座に上がってくる。
面白い人もいましたが、年寄りが暗い顔をしてボソボソ喋って帰って行くという感じの芸人も少なくなく、何だか寄席って暗いもんだなと思っていました。
そんな中でひときわ明るい、出てきただけで寄席全体がパーッと花が咲いたようになる噺家がいました。
それが三代目春風亭柳好です。
出囃しの「梅は咲いたか」が鳴り出しただけで、心が浮き立ちました。
風貌は江戸っ子を絵に描いたみたいで、粋で、色気と愛嬌があり、とにかく華やかなのです。
口調が当時「唄い調子」とも「柳好節」とも呼ばれていたように、まるで唄うような流麗な語りが特長でした。
私もいっぺんでファンになりましたが、寄席でも大変な人気がありました。
処が、この人の高座には一つ大きな欠点がありました。
高座に上がってくると、客席から一斉にネタのリクエストの声がかかるのですが、「野ざらし」か「がまの油」(短く「がま」)の二つしかない。柳好は、いつもそのどちらかをやるわけですが、逆に言えば寄席ではこの2席しか聴けないのです。
柳好はこの他得意の持ちネタがあり、例えば「二十四孝」「大工調べ」「穴どろ」などいずれも1級品でしたが、あまりに「野ざらし」「がまの油」が絶品過ぎて、リクエストが集中してしまうのです。
三代目春風亭柳好は、昭和31年に上野鈴本の楽屋で急死してしまいます。
訃報を聞いて、私は肉親を失ったように打ちひしがれた事を覚えています。
「野ざらし」「がまの油」それに「二十四孝」、これらのネタに関しては、半世紀を越えた今日でも、三代目柳好を越える演者は出現していません。
この昭和の前半に活躍した柳好は、実は五代目でした。
処が、なぜか本人が三代目を名乗っていたものですから、未だに三代目春風亭柳好で名が通っています。
現在の柳好は七代目になりますが、年配の落語ファンにとって柳好といえば、この(通称あるいは俗に)三代目柳好を指します。
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