思い出の落語家(第1回)声を失った五代目左楽
不定期のシリーズものとして、私の「思い出の落語家」を掲載していこうと思います。
たまたま幼少の頃から寄席に連れていって貰ったことから、古い落語家をライブで見ています。全て故人になっていますし、中にはネットの記事ではお目にかかれない、専門書でもなければとり上げられない芸人もいます。思い出をたどりながら、少しずつ書き留めて行くつもりです。
第1回として、五代目柳亭左楽のことをとり上げてみました。
その理由は、左楽は晩年に声を失い、なお寄席に出続けた稀有な噺家だからです。
明治4年に生まれ、明治後期から昭和初期にかけて活躍し、昭和28年に没していますので、私は最晩年の左楽を見ていることになります。
昭和の初めに、今の落語芸術協会の母体となった「落語睦会」という団体がありましたが、左楽はその会長を務めていました。
自ら新作落語を創ったりして人気者だったようですが、それより指導力、政治力に優れていたらしく、沢山の弟子を抱えていました。
その中から落語全盛期を支えた名人、上手を多数輩出しています。
名人八代目桂文楽、ミュージシャンに絶大な人気があった八代目三笑亭可楽、踊りの名手七代目雷門助六、「柳亭痴楽はイイ男」のセリフで一世を風靡した四代目柳亭痴楽、七代目春風亭柳枝などが主なお弟子さんです。
左楽は病気が原因だったようですが、私が初めて見た1952年には声が全く出なかった。その後何回か高座を見ましたが、同じ状態でした。
私の寄席での指定席は、最前列の中央でしたが、それでも全く声は聞こえません。
拍手に迎えられて高座に上がり、お辞儀をして口だけ動かしています。持ち時間一杯話し終えると又お辞儀。そこで観客は左楽の高座が終わったと分かり、又拍手です。
初めての客は、オヤっと戸惑いを見せますが、馴れた人々は、皆さんじっと大人しく見ていました。
左楽の風貌は、面長で色が白くて目鼻立ちがくっきりとした、落語家というより歌舞伎役者が似合う男前でした。
声が出ないからというひけ目を一切感じさせず、淡々と一席伺い下がってゆく姿に、昔の栄光を思わせるものがありました。
声が出ない噺家の高座、それをじっと見る客、幼かった私が、最初に寄席と言う空間を少し理解できた、貴重な経験でした。
寄席という場は、駆け出しの若い芸人から晩年を迎えた年配の芸人まで、売れてる人やいつまでも人気が上がらない人、かつて人気が高かったけどすっかり凋落してしまった人、芸の上手な人と下手な人、こうした様々な芸人が寄せ集まって芸を競い、それを客が楽しむ空間です。
これが名人会や独演会とは全く違った、寄席にしかない特長です。
五代目柳亭左楽は、私が始めて高座で見た翌年の1953年に亡くなりましたが、寄席と言うものを教えてくれた貴重な噺家として、いつまでも思い出に残っています。
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おそらく本筋としては、客と芸人との関係ということでしょうが、少し違うものを感じました。
それは、究極の落語。
言葉と僅かな仕草で客にイメージを喚起させるのが落語という芸能だとして、その言葉をもとっぱらった状態ではどうなるか。
ひとつの答えがここにあるように思いました。
投稿: ジャマ | 2007/02/12 08:53
ジャマ様
コメント有難うございます。
言葉をもとっぱらった究極の落語ですか、成る程、そういう見方もあるんですね。
さて半世紀以上経った今日の寄席に、左楽が高座に上がったとしたら、客席はどういう反応をするのか、ちょっと見てみたい気がします。
投稿: home-9 | 2007/02/12 09:58