「終戦の日」は8月15日だろうか?(上)
8月15日は「終戦の日(終戦記念日)」とされていますが、戦争が完全に終結した日かというと、そうでもありません。話はもう少し複雑になります。
1945年2月に英米ソ3国首脳によるヤルタ会談が行われ、2月11日にその合意文書(密約)に署名がなされました。
我が国に関係する部分としては、日ソ中立条約を破棄しソ連が対日参戦するという米国の要求にソ連が同意し、その見返りにソ連が要求した南樺太と千島の引渡しを米国が同意する、というのがその骨子でした。
日本の終戦から戦後処理に至る枠組みが、ここで決まってしまったと言えます。
ではなぜアメリカが、ソ連の対日参戦を強く望んだかということですが、当時中国大陸に駐留していた関東軍が、世界でも有数の精鋭部隊として認識されていたからです。
アメリカとしては日本本土への攻撃で手一杯なので、関東軍はソ連に任せようというのが、当時の米国の戦略でした。だから領土問題は、ソ連の要求通りになってしまったのです。
一方スターリンは、これで日露戦争の屈辱を晴らすことが出来ると考え、この点で米ソの利害がピタリと一致します。
6月に入ると、ドイツの降伏を受けて、日本政府は密かに終戦に向けての工作を始めます。
処が、事もあろうに講和の仲介を、ソ連のスターリンに頼むことを決めてしまいます。
スターリンに仲介を依頼するとは、正気の沙汰ではありません。
既に対日参戦を決めているソ連にとっては、正に飛んで火にいるナントヤラでした。
当時の戦争指導者たちがいかに愚かであったか、典型的な例といえます。
終戦工作が進められていたその時期、沖縄戦は最終段階を迎えていました。
3月末から始まった沖縄の地上戦は死者およそ19万人という犠牲を出して、6月23日日本軍の組織的戦闘は終わります。
沖縄で戦っていた人々は、まさか政府首脳部が終戦工作を開始していたとは、想像もできなかったでしょう。
英米ソの3国首脳が再び集まったのは、7月に開かれたポツダム会議です。
会議の最中、スターリンは米国トルーマン大統領と面談し、講和の仲介についての昭和天皇からの親書を見せます。
どう扱うかを尋ねたスターリンに、トルーマンは親書を黙殺することを提案します。
アメリカとしては日本政府が講和に動き出したことと、無条件降伏の意志が無いことを知っただけで、十分でした。
7月25日トルーマン大統領は、8月3日以降に日本に原爆を投下することを命令します。
翌日の7月26日に米英と中国(重慶政府)3首脳の名で、日本軍の無条件降伏を求める、いわゆるポツダム宣言が発表されます。そこにソ連の名前はありません。
会議には参加していたソ連が、宣言から外されたのは、ルーズベルトの急死で後継者となったトルーマン米国大統領が、ソ連に対して強い警戒感を持ったためです。
この時点から、東西冷戦は始まっていたのです。
しかしポツダム宣言にソ連が加わらなかった事が、日本の戦後処理を複雑にしてゆきます。
(この項続く)
写真はヤルタ会談の3首脳、左から英国チャーチル、米国ルーズベルト、ソ連スターリン。
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