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« 原爆の日にあたり「久間発言」を振り返る | トップページ | 田原総一朗様、いつ後を追うんですか? »

2007/08/07

「イスラム過激派」という名のゴロツキ集団

Tariban先日、当ブログへの書き込みに、次のような文章が紹介されました。
「俗にいう日蓮宗を代々やっていると家族に不具者ができたり、知能の足りない子供が生まれたり、はては発狂する者ができたりして、四代法華、五代法華と誇っている家ほど悲惨な生活をしているのである。」(池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」)
ナルホド、我が家は先祖代々の日蓮宗ですから、私がいくら努力しても報われないのは、そのセイか。
でも未だ発狂はしていないぜ。

他の宗派の方がこれを読んだら、創価学会っていうのは、何てひどいことを言うのだろうと思われるかも知れませんが、宗教的には間違ってはいないでしょう。社会通念上からいえば、クレージーですけど。
こうした考えをトコトン突き詰めていったのが、オウム真理教です。
普通の人から見れば、人を殺しておいて何が救済かと思われるでしょう。彼らからすれば、不幸になることが分かっているなら、命を絶つことが人助けという理屈になります。

宗教に名による殺人は、なにもオウムの専売特許ではありません。
中世ヨーロッパの宗教戦争、中でもキリスト教のカソリックとプロテスタントの争いは、正に血で血を洗うような凄惨なものでした。
例えばフランスでは、16世紀末のナントの勅令によりようやく宗教戦争は終結するのですが、パリの市民が半分になったと言われる大きな犠牲を払った末のことです。

最近でいえば、イラク開戦前のブッシュ大統領による十字軍発言、何だか中世の時代に逆戻りしたような気分ですね。

我が国だって例外ではありません。
明治政府によって行われて神道の国教化により、廃仏毀釈と呼ばれる仏教弾圧が全国で引き起されました。
この時に抵抗する僧侶が井戸に投げ込まれたり、多くの重要文化財が破壊されたりしました。

こうして見ると、宗教により救われた人と、不幸になった人、一体どっちが多いんでしょうね。
差し引きゼロ以下なら、宗教なんか要らないということになりますが。

ここから本日のネタに入ります。「宗論」です。
マクラがちょっと長過ぎましたかね。これじゃまるで柳家小三治だ。

アフガニスタンで韓国のキリスト教関係者23名がタリバンに拉致されて人質となり、既に二人の犠牲者が出る悲劇を生んでいます。交渉は膠着状態にあり、残る人たちの安否が気がかりです。
この事件に関するネットの論調ですが、今時アフガニスタンに行くほうが悪いとか、布教活動をする方が間違っているとか、自己責任論が根強いようです。
しかしこうした主張は、タリバンの蛮行を免罪していることになります。
痴漢にあった女性に、「そんな短いスカートを穿いているからだ」と説教するようなもんですね。

タリバンはこの事件以外にも、ドイツ人やフランス人などの外国人を人質にとったり、射殺したりしています。日本人の中学教諭二人も殺害されています。
イラクにおいても同様の事件は日常茶飯事ですが、アフガニスタン同様に、標的とされるのは民間人、それもジャーナリストだったり、ボランティアであったり、どちらかと云えば、現地を支援する側の人々が多数犠牲になっています。
それもいきなり拉致し人質にして、仲間の釈放や金品を要求し、受け容れなければ殺害する、これでは強盗と同じです。
そこには何の正義もありません。

9・11事件を思い起こして下さい。
あの事件を起こして、イスラム教国にとって何か良い事があったでしょうか。何一つ無かった。
ブッシュを勇気づけ、アフガニスタンやイラクへの侵入の口実を与えただけです。
だから未だに、米国の陰謀説がくすぶっているのです。
もしウサマ・ビン・ラディンの犯行だったとするならば、彼こそ天下の大馬鹿者です。そうでなければ、ブッシュの手先か、そのどちらかです。

私はアメリカのアフガン戦争、イラク戦争は侵略戦争であり、間違っていると思います。
従って、自国を侵略された国民が、抵抗運動を起こすのは当然の権利です。
しかし現在のイスラム過激派の手口は、抵抗運動にも値しない、テロリストと呼ぶのさえ恥ずかしい、単なる強盗集団、ゴロツキ集団でしかありません。

もしビン・ラディンやイスラム過激派の連中が、こうした蛮行を神の名の下に行っているとしたら、一体イスラム教とはナンなのでしょうか。
宗教といえども社会的存在です。
法律や社会的規範を無視するような教義は、許される筈がない。

こんなこと言ってると、今度はイスラム教からバチがあたるかな。

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宗教」カテゴリの記事

コメント

天動説と地動説の論争に見られるように、ある意味、宗教とは真実を曲げなければ、信心深いと言われないところがあります。教義が宗教の真髄であり、限界であることを悟らなければ、ファシズムと変りありませんね。

さみ~い様
コメント有難うございます。
このエントリーは、実は前置きが本題、本題が前置きと逆の構成になっています。
私が最も疑問に思っているのは、果たして宗教は人類社会に必要なものなのかという問題です。
教義を絶対化すれば、必ず社会のルールとぶつかる事になり、場合によっては社会生活そのもを破壊してゆく。
いかなる宗派であろうと、「原理主義」は民主主義社会に敵対するものと私は考えています。

HOME★9さま。争いが宗教の名の下に行はれることに疑問を持つものです。
‘これからの宗教’を考えています。内容は低く読み書きそろばんの世界で、決してハイ次元のものではありませんが。
スポーツの世界では基本の重要性は誰もが知っています。芸能の世界でも同じですね。オペラ歌手は毎朝の発声練習を欠かさないと聞きます。
宗教の世界では基本という言葉を口にする人がいません。なぜでしょうか。
宗教が、信仰=信心、の世界にとどまり続けているからではないでしょうか。
キリスト教の博愛精神、仏教の慈悲の心、が宗教の基本中の基本であると認識すれば、争いの起きるはずがありません。
宗教界の人や、この世界に関心のある知識人はいまだに霊的世界に‘信仰’を求めたがりますが、その弊害に気づくべきなのです。
また2千年も前の知識と言葉によって遺された聖書や仏典の研究を、考古学、化石の発掘調査といってしまうのは少し乱暴でしょうか。
現代の豊富な言葉と知識があれば、昔の方便による布教によらずとも、理性に訴えることができるはずです。
道徳心を生み出した人の好ましい心‘良心’は、信じるに値するものと思いますが。
釈尊は入滅のとき、これからは誰を頼ればよいのかと聞く弟子阿南に、法と自分自身を頼りなさいといいました。この自分自身とは人の‘良心’と受け止めたいのです。

mi-ta(ミータ)様
コメント有難うございます。
ご指摘の点は、とても重要な事だと思います。
昔の諺に「仏作って魂入れず」がありますが、正に、仏は作るが、魂を入れていない宗教、その指導者が多いと感じています。
キリスト教の宗教者で本田哲郎さんという方がおりますが、この方の書いた聖書の解説を読むと、その素晴らしさに胸を打たれます。
本田氏の説の通りなら、キリストの名の下に戦争なぞ起こすわけがないと思ってしまいます。
しかしそういう宗教家は少数でしょう。
宗教が広がれば広がるほど、人類が平和に、幸福になるなら、私は宗教を評価します。
「自分自身とは人の‘良心‘」、とても良い言葉ですね。

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