「書くカラオケ」
岩波書店のPR誌「図書」11月号に、フランス文学者・鹿島茂教授(私は氏の書く「性書」類の愛読者)が「いきなり『書く人』」と題する一文を寄せている。少し長くなるが一部を引用する。
【引用始め】
昔は、「書く人」というのは、その前段階においては、必ず「読む人」であった。本を読んで、他人の言葉を我がことのように感じるという「同化」の過程がまず存在したのである。
ついで、どうも自分の感じることは他人と違うのではないかと思い定めた人が現れ、その未だに表現されていない何かを表出するために机に向かった。こうした場合、表出の前提として自他の「比較」がまずあった。自分と他人を比べて類似と差異を見極め、その谷間に自己の独自性を発見するという回路がごく一般的であった。
(中略)
「書く人」は「読む人」の段階を経ないでいきなり「書く人」になろうとするのである。
では、なぜいきなり「書く人」になりたがるかといえば、それは生まれた時から自分は他人と違っていると思い込んでいるからである。なにゆえに、こうした天上天下唯我独尊タイプの人が増加したのであろうか?
(中略)
このタイプの人には自他の比較がない。自分は初めからユニークだと思って比較なんてする必要がないし、本を読んで自己同一化を図るなんてこともない。
(中略)
かくして、日本は「読む人」が皆無で、「書く人」ばかりのカラオケ社会とあいなったのである。
【引用終わり】
ウ~~ン、読んでいて自分のことを言われているようで、実に耳が痛い。
このブログを開設した当時、ブログは「書くカラオケ」という記事を書いたが、奇しくも鹿島氏と同じ結論となっていたわけだ。
原稿を書く段階で、一応テーマに関する事実関係の確認と、出来れば自分の主張と反対の意見にも眼を通す努力はしているつもりだが、「自己同一化」などとは程遠い。
若い人の活字離れが問題視されることが多いが、最近の調査ではむしろ年齢が高くなるほど本を読まなくなるという傾向が現れている。
自分では、平均よりは少し多く本を読んでいると思っているが、それでも読書家とは到底いえない。
サラリーマン現役時代、社内でも読書家を自他共に認める社員と一緒に出張したことがあるが、この人は1ヶ月に段ボール1箱の分量の本を読んでいた。それも半分は専門書だ。
英顎、ドイツ語、フランス語など外国語で書かれた本も混ざっていて、とにかく半端じゃない。
この人が書く報告書は見事に「自己同一化」が行われており、感心するしかなかった。
でもオレじゃあ無理だなとも思った。
私もアレコレ言える立場ではないが、世の中には「唯我独尊」タイプのサイトが氾濫しており、それも人気ブログランキングの上位にいるブログほど、その傾向が強いというのは困った現象ではある。
こちらも、日々世の中の役にも立たない駄文を書き連ねていることには、反省するばかりだが、反省はするが決して改めようとしないのだから、我ながら始末が悪い。
かくして又明日から、埒(らち)もないことを書き綴る日々を送るのだろう。
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おはようございます
私がブログを続けている理由をhome-9さんはなんとなく理解していただけてると思いますが、やはり自己顕示欲を満たすということに集約されると思います。
勿論、せっかくの美女の画像をどうしょうもないままで見たくないからレタッチするということもありますけど・・・。
唯我独尊でも人様に迷惑をかけないようにしています(x_x;)
home-9さんのは駄文どころか、的を突いた指摘は念入りな調査に裏づけされてる証拠でしょうね。
当方の「憧憬」は更新がストップのままなので、貴殿にあやかりたいものです。
投稿: dorunkon | 2007/11/18 06:50
dorunkon様
コメント有難うございます。
いつも貴ブログで美女を拝見している立場からすれば、貴兄の「自己顕示」は大歓迎です。
ブログの根底に「自己顕示」があるのは普遍的でしょう。注目を集めるためには、極論をはくのも理解はできます。
でも時には反対意見に耳を傾ける姿勢だけは失わないようにと、心の片隅に命じています。
ただブログとカラオケが違うのは、観客に逃げ場があるということですか。いくら嫌でも、カラオケは最後まで付き合わなければならない事が多いですね。
投稿: home-9 | 2007/11/18 08:18