「能」と言える日本人
周囲に歌舞伎や寄席に行ったことがない人がいると、「東京に住んでいながら、芝居も寄席も行かないというのはモッタイナイ。」などと偉そうな事を言っていたが、恥ずかしながら「能」というものを見たことがなかった。大概の古典芸能には一度や二度接しているが、能楽だけは縁が無かった。
そこで今回初めて能を観賞すべく、1月30日国立能楽堂に赴いた。
先ず目を奪われたのは、劇場の立派なことだ。たっぷりとした敷地に建てられていて、他の国立劇場とは、金の掛け方が違う。
会場内には中庭や展示室があり、休憩所のスペースも広い。内装も風格がある。
同じ国立といっても、能楽―歌舞伎―オペラー寄席という厳然たる序列が出来ていることを実感。
客筋も違いますね。和服の女性客が多いのが目に付く。それと外国人の姿が多い。
そのためか、場内放送が英語でも流される。前の座席に液晶モニターが備えられ字幕が表示されるが、これもボタンで日本語/英語が切り替えられる。
何だか日本を代表する古典芸能を観賞しに来たという感覚が、ジワジワと湧いてくる。
平日の昼にも拘らず、600席余りの座席はほぼ埋まっていた。固定客がいるんですね。
この能楽堂で行われる公演の殆んどが、能と狂言の二本立てになっている。
当日の演目は次の通り。
【狂言】惣八(そうはち) シテ・山本則俊(大蔵流)
金持ちの屋敷に、元料理人の出家と、元出家の料理人が召抱えられるのが発端。主人から言いつけれた仕事を、二人が入れ替わって行ってしまうというストーリー。中世の日本で出家した人がたやすく還俗していたという風潮を諷刺したもの。
やあ、狂言はいつ見ても面白い。諷刺の精神こそ、笑いの基本であることが再認識させられる。
【能】難波(なにわ) シテ・田崎隆三(宝生流)
「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民の竃(かまど)はにぎわいにけり」という歌で有名な仁徳天皇の善政を偲ぶストーリー。
「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」と歌ったとされる、仁徳天皇即位の功労者・王仁の霊が主人公(シテ)の物語である。
開幕といっても幕は無いが、先ず楽器の演奏が始まる。
能楽の楽器は、笛、小鼓、大鼓、太鼓の4種類だが、この音が実に良い。聴いているだけで気持ちが和んでくる。
演者はすり足で静かに登場するが、まるでスローモーションを見ているような感じだ。演者の抑制された動きと、楽器演奏と地謡の声とが独特のハーモニーを構成していく。
音だけ耳から入ってくるが、時折演技は飛んでいる所を見ると、眠っていたのかも知れない。夢と現の間を行ったり来たりの時間は心地良い。
でも、途中休憩無しの約2時間は、正直言ってかなり退屈。来月もまた是非来ようと言う気分にはなれなかった。
近くにいた年配のご婦人同士が、「とても素敵でしたね」と会話を交わしていたが、そうした心境に達するまでには相当の距離がある。
それでも、今日から私も「能」と言える日本人。
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