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2008/04/22

思い出の落語家10「ご存知」柳家三亀松

Mikimatsuたまにはイロっぽい所をということで、今回は初代柳家三亀松を。ジャンルからいうと音曲師ということになるが、三味線漫談、粋曲、粋談と多彩な芸の分類に困って、しまいには「ご存知・柳家三亀松」とチラシに書かれた、伝説的な色物の芸人である。
1901年生まれの三亀松の全盛期は戦前になるらしいが、戦後も大看板として寄席に出ていて、色物の芸人には珍しく度々トリをとっていた。私は小学校3~4年にかけて信濃町に住んでいた関係から、親に連れられ新宿末広亭に通っていたので、三亀松の高座を数回観ている。

なにせお色気が過剰で、戦前の検閲で31枚のレコードが発禁になった人なので、芸が子ども向きとはいえない。ウットリするような良い声で都々逸を唄っているときは、子ども心にも思わず聴き惚れていたが、漫談になると途端に女の鼻声で「イヤァ~ン、バカァ~ン」や「うっふん、イジワルゥ」「ヤッッテ」(音声は想像してください)と始まるので、なかなか刺激的だった。
その都々逸も、
♪緋緬(ひぢりめん) 肩から滑って のぞいた乳房 にっこり笑って 消す灯り♪
というような文句なので、9歳の子どもがどこまで理解できたか、心許ない。
三亀松の方だって、最前列の中央にチョコンと子どもが座ってられたのでは、さぞかしやりにくかったろう。
なかには、
♪金も出来たし 着物も出来た そろそろあなたと 別れよう♪
なんて、素っ気無い文句もあった。
よくまあこんな芸を子どもに見せていた、我が母親の神経はどうなっていたんだろう。

一度、代表作である「新婚熱海(箱根だったかも)の一夜」の一部を聴く機会があったが、この中で「いけませんわ、さっきのお風呂の中の、あのおイタは。」というセリフだけは、身体に電流が走った。あの時、私は目覚めたのだ! 以来ずっと目覚めっぱなしで、今日に至る。

芸にムラのある人で、やる気のある時は都々逸から「さのさ」、新内と次々に良い喉を披露するが、やる気のない時はサッパリで唄は二つ三つ、後は当時の時代劇映画スターだった阪東妻三郎や大河内傳次郎のモノマネでお茶を濁していた。

結婚して妻が妊娠し5ヵ月だった時に、お腹の赤ちゃんへの胎教として、妻を伴って人形町末広に出かけた。この時に柳家三亀松が出ていたが、顔はどす黒く、身体はやせ、目ばかり大きく見えるという状態だった。それでも喉は衰えず、当日は気分が良かったのか次々と都々逸を披露していた。
その三亀松の高座を初めて目にした妻は、あまりの男の色気にブルブルっと震えたそうだ。何のことはない、時を隔てて、夫婦揃って三亀松によって目覚めさせられたのである。
それからおよそ半年後の1968年1月に、三亀松は胃がんで亡くなった。享年66歳であった。
その2年後には、落語の殿堂と言われた人形町末広も閉館している。

音曲師で声が良かった芸人に、春風亭枝雀がいた。細長い首を鶴のように伸ばして唄うのが特徴だった。この人は元々落語家だったので、語りも面白かった。
それから遅れて、柳家紫朝が出てくる。この人も良い声で、新内流しの「蘭蝶」を得意としている。病を得てから高座に上がる機会が減ってしまったのは残念だ。
女流の芸人も、かつ江、鯉香、人形・お鯉など達者な芸人が揃っていた。

昔の寄席と比べて今の寄席は、落語家は今の方が充実しているように思う、だって昔は文楽、志ん生という名人がいたじゃないかという向きもあろうが、その人たちは当時からメッタに定席には出ていなかった。実力者の多くは名人会やホール落語会が中心で、出演者が限られるのに寄席の数が多かったから、質が落ちていたのだ。
今の方が明らかに劣っているのは、音曲など色物の芸人だと思う。

♪吾妻橋とは 吾が妻橋よ そばに渡しが ついている♪

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