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2008/05/31

「サマータイム」で環境保護だとぉ!

近ごろ都に流行るもの、それは「環境病」患者。なんでもかんでも「地球環境保護」と結びつけ、効果が不明なのにも拘らず有り難がってお題目のように唱え続ける。その最たるものが、バイオ燃料だった。環境保護の切り札みたいにもてはやされていたが、結果はどうだろうか。当初から予想されていた通り、穀物価格が上昇し、貧困層の飢餓を世界に拡げることになった。こういう人々は、人の命より環境が大切なのだろう。

仕掛けた人間ははっきりとした企みを持っている。バイオ燃料なら穀物価格の上昇を織り込んで、先行投資していた連中である。処が、これに乗っかり推進している人たちは、善意の人が多い。この「善意」がまた始末に終えないのだ。
今の「レジ袋」追放運動もまた然り。喜んでいるのはエコバッグとやらの販売者であり、スーパーの経営者だ。当ブログでも、「レジ袋」問題のまやかしについて早くから指摘してきたが、最近になってようやく環境保護に逆効果だという論調が出始めている。
A(石油、レジ袋)をB(バイオ燃料、エコバッグ)に替えた時、Aのマイナス分しか計算せず、Bのプラス分を計算していない、こういう初歩的な(推進者は計算づくだが)思い違いがいけない。

さて本題の「サマータイム」、どうやら政府は本気になって導入を図っているらしい。
実は、私はサマータイムを過去に経験している。終戦直後の1948年に進駐軍の命令により、日本でもサマータイムが実施されたことがある。もっとも当時は「サンマータイム」と呼ばれていたが。しかし悪評で、日本の独立とともにわずか4年で廃止されてしまった。そんな前歴ありの制度を又やろうというのだ。

サマータイム導入にあたって良く持ち出されるのは、先行して実験している北海道で賛成が7-8割に達しているというアンケート調査である。処がこのアンケートは、サマータイムに賛同して実験に参加した企業の経営者や従業員を対象にしたものだそうで、それなら賛成が多いのは当然なのだ。こんな数字のマジックまで使って導入を図っているサマータイムとはどんな制度なのか。

夏季には夏時間になり、時計の針を1時間進ませるという制度である。例えば、会社の就業時間が午前9時から午後6時までとしよう。夏季になると1時間進ませているので、通常の時間でいえば、午前8時から午後5時までが勤務時間となる。
早く始まって早く終わる、良いじゃないかと思われるだろうが、どっこいそうはいかない。いつも午後8時まで仕事をしている人は、サマータイムになっても午後8時まで残業してしまう。悲しいサラリーマンの性が、結果として残業(あるいはサービス残業)を増やすことになる。

一時期、企業でフレックスタイム導入がはやされた事があり、私の勤めていた会社でもこの制度を導入した。一定時間仕事をすれば、時間帯は自由という一見すると合理的なシステムである。
正規の就業時間が9時から18時の企業で、これを7時から出勤して16時に退社しようとすると、周囲の眼が気になり、やっぱり18時まで仕事をすることになる。10時に出社して19時まで仕事をしたいと思っても、取引先から9時に電話があり、未だ出勤していないと答えると怪訝な反応が返ってくる。朝一番の打ち合わせに「又あいつがいない」などと言われかねない。結局気が付けば全員が正規の勤務時間に戻っていて、ちっともフレックスにならなかったという結果に終わった。
横並び意識の強い日本のサラリーマンには、不向きなのだ。

海外では多くの国が実施しているではないかというのも理由の一つだ。だけど外国と日本ではサラリーマンの仕事の仕方が違う。生活様式が違う。
以前アメリカの企業で働く人に訊いたところでは、サマータイムになると退社時間が早くなる一方、夏季は日没時間が遅いので、退社後に近くのゴルフ場で同僚たちとハーフ位は回れるので大歓迎と言っていた。そんなサラリーマンは、日本には先ずいないだろう。
どっちが良いか悪いかではなく、慣習が違うのだ。
「仏作って魂入れず」で、制度だけ導入しても中味が変わらなければ、結果は逆効果になる。
ゆめゆめ「サマータイムで地球環境保護」などと騙されぬように。

いつも政府批判ばかりしていると思われるでしょうが、決してそんな事はありません。誉めることもあるんです。
クラスター爆弾の禁止条約づくりを目指す「オスロ・プロセス」で、一部の最新型爆弾を除いて禁止する条約案の受け入れを日本政府は正式に表明しました。自衛隊が保有しているクラスター爆弾も、廃棄することになるでしょう。これは大変良いことです。
小泉、安倍と二代続いた総理大臣が揃ってアメリカの顔色ばかり窺って、禁止条約に賛成してこなかったのですが、福田首相久々(初めての?)のヒットです。

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2008/05/29

自衛隊の中国派遣に反対する

中国政府が日本政府に対し、四川大地震の被災地支援のため、自衛隊の派遣を要請し、これに応えて日本政府は被災者支援のため、自衛隊の輸送機でテントや毛布、医薬品などを運ぶ方向で検討に入った。このまま行けばどうやら自衛隊が中国に派遣されるのは確実の様だが、私は反対である。
結論からすれば今回の自衛隊の中国派遣は、自衛隊が人民解放軍の補完部隊、後方支援になりかねない危険な要素を含んでいると考えるからだ。
自衛隊の任務として、自衛隊法第3条に次のように定めている。

(自衛隊の任務)
第3条 自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
2 自衛隊は、前項に規定するもののほか、同項の主たる任務の遂行に支障を生じない限度において、かつ、武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲において、次に掲げる活動であって、別に法律で定めるところにより自衛隊が実施することとされるものを行うことを任務とする。
1.我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応して行う我が国の平和及び安全の確保に資する活動
2.国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動

自衛隊の使命は日本の防衛であり、国内での災害派遣も国土の防衛という文脈から行われている。
今回の中国への派遣は、この原則を逸脱するものと考える。
その災害派遣だが、同法第83条に、特に緊急を要する場合を除き、都道府県知事などの要請があった時にだけ派遣できるとされている。

(災害派遣)
第83条 都道府県知事その他政令で定める者は、天災地変その他の災害に際して、人命又は財産の保護のため必要があると認める場合には、部隊等の派遣を防衛大臣又はその指定する者に要請することができる。
2 防衛大臣又はその指定する者は、前項の要請があり、事態やむを得ないと認める場合には、部隊等を救援のため派遣することができる。ただし、天災地変その他の災害に際し、その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるときは、同項の要請を待たないで、部隊等を派遣することができる。

つまり国内の災害派遣においても、これだけの厳しい規定がなされているのである。海外からの災害派遣要請についても、ただ要請があったからという安易な判断は許されない。
もう一つ、今回の中国への自衛隊派遣に関連する法律として国際緊急援助隊派遣法があるが、同法の第2条、第3条2項の規定は次の通り。

(国際緊急援助隊の任務)
第二条  国際緊急援助隊は、前条に規定する災害に係る次に掲げる活動(以下「国際緊急援助活動」という。)を行うことを任務とする。
一  救助活動
二  医療活動(防疫活動を含む。)
三  前二号に掲げるもののほか、災害応急対策及び災害復旧のための活動
(関係行政機関との協議)
第三条
(1項省略)
2  外務大臣は、前項の協議を行つた場合において、第一条の目的を達成するため特に必要があると認めるときは、自衛隊法 (昭和二十九年法律第百六十五号)第八条 に規定する部隊等による次に掲げる活動につき協力を求めるため、防衛大臣と協議を行う。
一  国際緊急援助活動
二  国際緊急援助活動を行う人員又は当該活動に必要な機材その他の物資の海外の地域への輸送

中国の四川省大地震について、既に救助活動と医療活動は実施しており、その上に政府は「特に必要があると認める」ということで、自衛隊の派遣を行おうとしている。
では現在の中国政府による被災者救援活動は、どうなっているのだろうか。
報道で見る限りでは、人民解放軍を主体とした活動は、人命救助というより専ら治安対策に重点が置かれている。つまり国民の命より、国家権力(政府)を守ることが最優先なのだ。
この点は、我が国が行ってきた救助活動や医療活動に対して、まるで「招かざる客」のような扱いがなされてきたことからも明白だろう。
日本の救助隊や医療班が被災地に入ると被災の実態が明らかになるのを何より恐れて、肝心の被災地に極力近付けないようにしていた。人命より事実の隠蔽が優先されている。

今回の自衛隊派遣についても、援助物資を北京、西安、成都などの国際空港へ空輸することが主たる任務である。
しかし今問題なのは、援助物資が肝心の被災地に届いていない事であり、そうしたルートが阻害されている以上、いくら援助物資を空港に運んでも、人命救助には役に立たない。
ではなぜ今回の自衛隊の中国派遣を進めようとしているかだが、その理由は次の点に尽きるだろう。
①被災の状況が余りに深刻で、中国政府は治安対策上、あらゆる手段を講じていることを国民にアッピールしたい。そのダシに日本の自衛隊を使う。
②自衛隊海外派遣の恒久化法案を準備している日本政府としては、中国が自衛隊を認知したことが裏づけされ、「待ってました」のタイミングだった。自衛隊幹部が妙に乗り気なのも、そのためだ。

人命救助は表看板で、実際には日中両国政府の「不純な動機」が実態の自衛隊派遣であり、容認することはできない。

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2008/05/28

ある満州引揚げ者の手記(七・最終回)帰国と兄の死

亡くなった母の実家にたどりついた。次々といとこ達親戚の者も朝鮮などから引き揚げて来ていた。父は母を連れて帰って来れなかった事を伯父に手をついてあやまっていた。伯父の家は昔は船を出した漁民の頭だったが、その時は網の修理や浮きなどをけずって作り、細々とした生活であった。従兄一家も広島より原爆を逃れて帰ってきていた。
漁村農村は物がないとお米も魚も分けてくれないように、外地へ出てた者はいい思いしたのだから仕方ないと見下げ、なり上がっている時代となった。
父は初めて愚痴をこぼし、母と代って自分が死んでいた方が、お前達の苦労は半分だったろうと男泣きした姿も見た。兄も私も、右も左も人も初めての人たちの中で言葉になれるのも馴染めなかったが、生きてゆく為にその日から何かしなければ食べていけない現実だったが、一月ばかりは伯父の家で休んだ。父の友人が倉庫半分にして私たち住む部屋にしてくれた。

次男の兄は寝込んだままだった。結核というとみんな伝染するので寄りつかない。だが食糧というとただタンメン、芋、コーリャンの粉、病んだ兄はほうれん草が食べたいなー、リンゴも食べたいなーと言った。どこをさがしてもない物ばかりで、農家へ買いに行っても、品物を持って行かないと出してくれない。買えない。お金はなく売るものもない引揚者の惨めな生活は、同じ日本人でもその頃の漁民や農民の人の冷たさは本当に鬼の様に思えた。
漁村と農村は敗戦で豊かになった。そして人間も日本人同士なのにと何度か思わされた時代だった。日本国中が何の治安もなく、女は身を売ってパンパンという長崎佐世保福岡とはなやかな夜に舞い込んでいくものも多かった。
自転車を求め、父は兄に地図を書いて地元で取れるアミ漬を売りにいくよう指導した。仕事を探す所もなく行商より他ないのである。人と話すことも下手な兄は父に言われるとおりハカリを持って、初めはリュックに担いで売ってきていた。

私も進学できればまだ女学校卒業していないことを、どうしていいのかわからなかったが、誰も何もいってくれなかった。妹だけが小学二年生に入った。「学校はどうするの」と熊本の伯母が来て初めて言ってくれたが、私は「行かれない」と初めて泣いた。母がいないし次兄は病で寝込んでいるし、父も感染していて肋膜炎となっていた。
病人ばかりの我が家は従姉が医者と結婚して近くにいたため何かと助けてくれたが、次兄は二十三歳で缶詰の空き缶に血を吐きながら息絶えた。今でも命日が来るとリンゴとほうれん草を仏壇はないが、私の心の仏壇にかざる。いっぱいいっぱい今はあるし、いっぱい食べさせたかった。栄養失調で妹も感染、私も足がむくみ歩けなくなった。

山を手に入れた父は食糧になるイモを少しでも作ろうと、荒れた山を毎日毎日登って畑にした。木の根を掘り起こしたので、一年は薪を買わずに済んだ。イモを作り麦を作り何もかも初めてだ。出来たものを持って帰る楽しさと言うような、甘い農業ではなかった。十代の私にはとてもつらい仕事だった。
父は母のない年頃の女の私たちを見て、つらい思いを手の届かない思いを、酒の力を借りて当り散らすこともあった。病で身体はだるい、仕事は出来ない。それでも町の仕事や区の仕事を少しずつでもさせてもらっていた。

従姉になる小柳の姉は男の子一人をかかえ、足の不自由な親戚になる軍医と結婚して、三人で東京より引き揚げて来ていた。
伯父の家の庭にささやかな診療室を建て開業していたが、その頃の医者と言っても保険も無く、田舎の人たちは米や魚を持ってくるだけで、現金はなかなか入らない。義足の技術も未だ不十分な品で、苦しそうな従兄の顔を何回と無く見る度に、胸の痛くなる思いだった。亡くなった兄を注射を打ち、また手を取り見送ってくれた医者であった。

後に私が商売に農村を歩き始めたのも従姉のさそいだった。桃子という女の子が生まれその子をおぶって私を連れて、イモで作ったアメを売りに歩き始めたのである。私は兄が残してきた佃煮や削り節などをもって一緒に歩いた。
朝六時すぎの列車に乗って行き白石平野を歩き始める。背中におんぶされてる桃子はおとなしくしていても、やはり疲れるのであろう。早くおさつを数えるよう両手をたたいたようにする。「おっぱいおっぱい」とお腹が空くとぐずってくる。
お寺のような所やお地蔵石のある所で一休みして汗をふきながらの夏、冬は寒くて一軒一軒でよくお茶を頂いた。
あれから、行商に来る人に対してのあつかいも体験した。相手も立派な人間なのだとして言葉態度を思い知らされた。

―終り―

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2008/05/27

ある満州引揚げ者の手記(六)祖国へ

戦争の惨めさを味わい始めたのは吉林を離れる頃からだった。九月ようやく最後の病人ばかりの家族の引揚げの日が来た。ごはんをいっぱい炊きおにぎりをつくった。
また王さんが焼酎や保存食などを持って馬車に乗って来て、私たちのリュックを今のふとん袋位の大きさに、重さどれくらいあったろう。とにかく今は抱える事も動かす事も出来ない位の重さだった。馬車に積んで出発する列車の近くまで運んでくれた。私たちが歩いて着いた時には、小高い所にわかる様にまとめておいて去っていた。
日本人に良くすると、他の反日感情の満人たちから冷たくされる事はわかっている王さんの親切は、深く深く私たちに教えてくれた。

屋根の無い無蓋車、お皿だけの上に乗せられた人たちもいた。新京を通って奉天の方へ向かって走る。
途中止まった所で小用をすませたり死んだ人を下ろして捨てたり、駅でない所でたまたま止まったのを覚えている。雨になるとみんなで幌のように厚い布地で少しでもしのいだ。奉天の駅では通化の方よりの日本人の引揚者が一夜雨の中張るものも無く、お皿の貨物列車に乗せられていた。お互い哀れな目で見つめ合いはげまし合った。
コロ島に着いたのは何日目だったか忘れているが、二・三日はすごしたと思う。

病人の兄は痔ろうでおしりに穴が開いていた。父は毎日化膿したガーゼを取り替えてやっていた。兄と妹と私は、その回りを人に見せない様に背を向けて囲んだ。ガーゼや消毒液など何日分持って歩いたのか覚えていないが、両足をあげて汗を流し、我慢していた兄の顔が悲しく残る。手当てする父、痛さを歯を食いしばっていた兄、何時も自分の名前はいいと言っていた猛の字の自慢の顔、結核が痔ろうにまでなると、おしまいである。だが兄は頑張ってリュックも担いであるいた。
八才の妹は頑張り屋で、小さい身体に大きなリュックを担いで薄いふとんを上に乗せ、父と兄と私の荷物は大変なものだったが、父と兄は棒を妹のリュックにさして両側を支えて歩いた。日本へたどり着かなければとただそれだけ祖国への一歩一歩であった。

リュックの中まで出して地べたで広げ調べられた。水筒の中の水の中にお金を入れて帰ろうとした人がいて、団体全部引揚げ中止になった人たちがいたと聞いた。みんな捨てた人も多かったようだが、船に乗船する時お金は一人一千円と決まっていた。
父は見知らぬ女の人と子どもだけの人たちに残ったお金を渡した。拝むようにして見送ってくれたあの人たち、その後日本へ帰れただろうか。
病人ばかりなので、船の上でも毎日のように死ぬ人が出た。でも船の上は日の丸の旗がひるがえり、船員さん達も日本人で黄海を日本へ日本へと二週間、海征かばの曲が流れ、死んだ人はカーキ色のコモに包まれ船の上から海へ投げ込まれ、三回その周りをまわり進む。
食糧は朝夕二回、間引きした大根葉が味噌汁のようなものに入っていると、大喜びしたものだった。コーリャンのような、本当におさじ何杯かのわりあてであった。

コレラ患者が出たという事で佐世保の沖に日本の山が見えるのに、又、二週間上陸できなかった。やっと上陸しもとの兵舎に集まり、その夜おじやが出た。初めておいしく食べるものを食べられたと思ったが、リュックの中を全部出して消毒が始まる。その間注射など色々あったが、苦労して持って帰ってきた父のリュックの中のラクダの下着が全部(一人三着分)なくなっていた。日本も食糧難と衣類も無く敗戦国だったのだ。

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2008/05/26

ある満州引揚げ者の手記(五)母の死

北満の人々の中に、牡丹江にいた母の親友田中さんは息子6歳を連れて我が家にたどりついた。他にお腹の大きな三十歳に満たない女の方も我が家でひと時落ち着いた。この女の人の名はおぼえていないが、明るいきれいな人だった。ご主人は出征していた。お腹の赤ちゃんを守りながら一人で何週間家にいたか、よく夕食を作ってくれた。お料理の上手な方だった。無事日本へたどりついたか、その後はわからない。
田中さん親子は一緒だった。田舎も一緒の佐賀だったし、父も一緒に引き揚げる様引き受けしたのだろう。だが我が家は病人二人寝込んでいて収入はなく、持っているものをみんな売り食いが始まっていた。病人へ飲ませるくすりもなく、同じ佐賀という知人の先生が毎日母の注射に来て下さった。
不安な毎日の中、零下二十度と下がるお正月を迎え、学校などに集団でいた人々は次々と飢えと寒さその上伝染病等で死んでいった。

女学校の担任だった新田先生のご主人は警護隊の隊長だったため、すぐ裏山の砲台山で銃殺された。当日私はその下で山を見上げ胸をつまらせ、役目だったとはいえ子供さんもない先生がどんな気持ちかと胸つまり涙が出た。戦争ってこんなものだとは知りつつも、敗けて初めて何のために?何がどうなるを感じ味わう三十二歳の未亡人となられた。
前から父は母がお医者様からがんと云われていたのだろう。おもちの好きな母に何も食べられなくなったのに、ストーブの上でグツグツとやわらかく飲める様に、凍ったおもちをとかして口へ入れてやり、「おいしいー」と母がニッコリした日は二月に入ってからだった。

それまで色々あった父がみんなにやさしいのはいいが、一緒に居る田中の小母さんも父にしがみついた毎日だった。母は寝込んでいるので女の感情と云うか嫉妬であったろう。子どもの私たちはその小母さんの存在を母に同情して食事を別にした。
そして母は亡くなった。どれだけ日本へ帰りたかったろう。日本人の渦巻きの死と生の中にまぎれこんでいった姿のようだった。
隣り近所、父の会社の知人寄りあってどう連絡されたのか、多くの人に見送られ雪の中ソリに乗せて、又砲台山で寒い夜木炭をつかってトタンの上で焼き、骨にする事が出来ただけでも幸せだった。
母のお骨も日本へ持って帰りたかったが、自分の身ひとつ帰れるか未だわからない日々の中、この山の端に南も北も東も見える所へ埋め石をおき、ここなら日本まできっと見えるよねと死んだ母へ語った。

第一戦で侵入してきたソ連兵は物あさりと言うか、日本人の家へドタドタ来て銃剣をつきつけ、時計、シューバーあらゆる貴重品があるものは取り上げていった。言葉は通せず身振り手振りで病人だ胸が悪いと父が云うのがわかったのか、口に手をあてて出て行った。あちこちの家も荒らされ、女の人たちもどれだけ犠牲になっていったかと後で知らされた。
集団の中での一日一日はソ連兵が去って八路が入って来た。それは中国軍との戦いのため、どちらの軍隊も日本兵の捕虜がつかわれていた。兄は若い二十代なのですぐ使役にどちらの軍からも引っ張り出され、トーチカ作り鉄橋作りこわしなど毎日毎日、収入などあるはずない、ただあの年で日本兵として日本の国のためと血をおどらし命をささげて往った若者の方が幸せだったと思う。
私たちの引き揚げは日本人最後となった。仲良くしていた友を見送りに出発の所まで行って別れたのに、後、逃げ出してその後中国兵と一緒に暮した人もいる。
八路軍はどんどん後退した。日本人の引揚げがすめば又進むと言い残していった人がいた。

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2008/05/25

ある満州引き揚げ者の手記(四)地獄

終戦、日本人の敗姿は地獄そのもので、下九台の方から逃げてきた人の話では満人たちに襲われて抵抗、人々たちは斧や鉈でたたき殺されたということである。
関東軍の兵隊さんたちがソ連の捕虜として貨物列車へつまれて北へ送られる時、私はどこであの姿を見たのか場所を記憶しないが、くやしくはぎしりし涙をこぼしながら軍服の襟章(軍隊の階級)をちぎりとってたたきつけた姿を、何とも云えない思いでみつめたものだった。この人たちどこへ連れていかれるのだろう殺されるのだろうかと見ていた。

そして毎日のように脱走兵が我が家にも逃げて来た。来る人の姿は泥沼の中をはいまわって来たような姿だった。目だけが光っていた。
母は父と兄二人の下着を買いだめというか、配給のものを大事に十枚づつ位あったようだ。
お風呂に入れてそのしまってある下着をタンスから出して全部着せ、上着も着せてごはんを食べさせた。頭を下げてお礼を言いながらどこかへ消えた人が何人だったろう。とにかく脱走兵を見つけるとすぐ殺されるので、かくまったりしてもみんながどんなになるかわからない状況だった。

次兄の病の上に母も倒れた。その頃吉林の町は、牡丹江の方より逃げてくる日本人の難民と表現した方がわかりやすい着のみ着のままの人、大切なものだけ持って逃げて来た人が多く、学校、映画館、色々な所へ集団で入った。
寒さも満州では九月中旬も終わりになると寒くなり、十月に入ると初雪が降る。
冬にむけて燃料食料と、日本人は街の中を動く時は満服を着て歩き、物がある人は品を売って食料を買った。ソ連兵が日本人の町に入ってくる時は女か物か、あらゆる所で日本人の男の姿も女の姿もそれぞれ地獄であった。

侵略者として入って来たとは言え、開拓団の人々義勇軍の少年達はせまい日本国よりもてはやされて、広々とした土地へ自分のものとなる大地へと、又女は開拓の花嫁としてみんな貧しい東北・中国地方の人々(長野、山梨)が多かった様に思う。
開墾してようやくものが作れる様になった土地を捨て、逃げて来た人たちは何とかなる、追われると子どもどころか一人逃げるのに精一杯の人もいた。
落ち着いて泣き狂う人、年頃の男は戦場へ出ていたのだから女老人子供の集団だった。村中で自決した所が多かったと聞く。吉林へ何十里何百里野宿しながら着く人々の姿は、日本人同士として着るもの食べるものを分け合ったが、戦時中配給配給だった生活なのだから続きはしない。

吉林満鉄道局に日本の旗が下ろされ中国の旗と変った。父はきびしい人だったが心のやさしい人だった。中国人を会社でも可愛がっていたのだろう、終戦後何かにつけて出入りして助けてくれた。
家ではよく古着や色々安く買いに来る満人のボロ買いの小父さんがいた。王さんと呼んでいて何時もニコニコした顔を思い出す。その王さんの子供さんが熱を出し肺炎となり、相談にきたのか私にはわからなかったが、父はその頃貴重なアスピリンを手に入れて来て分けて上げたのだ。熱は下がり命をとりとめた王さんの子供の様子に、大喜びした両親の姿を思い出す。その王さんが終戦になって引き揚げる日まで本当によくしてくれた。
新聞もなくラジオもなく人からデマばかり流れる毎日、コックリさんが流行した。「かえれるでしょうか、内地まで」?「かえれる」「かえれない」とか返事が文字の上にはしが動く。二人ではしを三本くくって軽くもって、五十音文字書いた紙の上に色々聞くと、返事ははしが文字の上に下がる。
何回か引き揚げだとデマがとぶ。その度に王さんは長期保存食のようなお菓子やお酒まで運んで来てくれた。

あちこちの学校、兵舎に日本人は固まって住んでいた。集団チフスで多くの人が死んでいった。
残された子ども達はまわりの人々で世話する。世話出来なくなると中国人に売って食糧を求める人も少なくなかった。百円二百円三百円など今犬を買う様なものだ。大切に育ててくれる人に買われた子どもは幸せだったろう。捨てられた子どもだって多く、両親兄妹逃げてしまって、それぞれ迷子で死んだ子もいただろうし、拾われた子どももいただろう。その子ども達が今日本人の血のつながりを求めて中国孤児四十歳前後の人々である。
我が家では次兄が肺結核で寝込んでいたし、母も引き揚げのリュックを家族五人分作って寝込んだまま起き上がる事が出来なくなった。

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2008/05/24

劇団K助「ステージ」

K_suke大好評(それにしてはアクセスが少ない)連載中の「ある満州引き揚げ者の手記」、これから未だ未だ続きますが、ここでちょっと一息入れて。5月23日中目黒ウッディシアターで行われた劇団K助「ステージ」を観劇しましたので、その感激をお伝えしたいと思います。
親友の息子さんが主役で出演するということで観にいきましたから、劇団のことも役者のことも殆んど知りません。

スタッフとキャストは次の通りです。
劇団K助 第9回公演
『ステージ』
脚本・演出/金沢知樹
脚色・演出/大関真(劇団SET)
[キャスト]  
大隈いちろう(デフロスターズ)
大竹浩一(劇団SET) 
大関真(劇団SET) 
Kいち(トラストワンホープ)
斉藤誠人(SMA)
堀田勝(劇団アルターエゴ)
相原美奈子(劇団†勇壮淑女)
兎本有紀(宝井プロジェクト)
内田もも香(E.NESTO)
土屋史子(YOUGO OFFICE)
松村真知子(劇団SET)
出演者情報によれば、全員舞台やTV、CMなどの出演歴のあるプロの俳優(斉藤誠人だけがお笑いタレント)です。
ただ配役がどこにも書かれていないのは不親切です。

ストーリーは弟分に殺されたヤクザが、死後の世界から自分の辿ってきた過去がリプレイされる中で、次々と真実が明らかになってゆきます。その中でもう一度自分自身を見詰めなおし、現実の世界に戻って新たな人生を歩んでいくという物語で、発想そのものはそう目新しいものではありません。
金沢知樹の脚本は、笑いの中にシリアスな場面を織り込み、笑いと泪で休憩無しの2時間をたっぷりと楽しませてくれました。個々の役者も序盤にはドタバタする所もありましたが、それぞれの力量を発揮していたと思います。
舞台のセットは貧弱と思われるほど一見質素ですが、その分役者の演技を際立たせていました。
過去の公演については分りませんが、今回の舞台を見る限りでは、小劇場の芝居として十分成功だったといえるでしょう。
計6回の公演は全て完売だったようで、やはりお客は良く知っています。

出演者では、主役の斉藤誠人が歳に似合わぬシブイ演技を見せ、母親役の兎本有紀(写真)が登場すると舞台が締まります。息子と母がビールを飲みながら語り合うシーンが秀逸でした。
他には、大隈いちろうが軽快な演技で沸かせ、土屋史子が可憐。

公演は25日まで。

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2008/05/23

ある満州引き揚げ者の手記(三)終戦

戦争はますますひどくなりほとんど若き青年は少なくなり、出征出来ない兄はまわりから非国民とささやかれ、同年の青年達は次々と戦死、あまり外にも出ずハーモニカをふいていたさびしい姿が残っている。
昭和二十年夏、私たち三年生は陸軍に依頼され学校を陸軍病院(兵站病院)扱いとして、衛生兵従軍看護婦数人で私たち学生の看護教育が始まった。大量にインスタント看護婦を作り上げるのだ。授業は救急、止血、人体の構造から始まった。
軍医の講義も学校の講堂で若い二十五・六歳の将校だったが力んで講義する軍医、私たち女学生を何か悲しみに物思いするかの様に教える、軍医様様だった。
八月六日広島へ原爆が落ちても、遠く日本本土へ空襲くらいとしか想像してなく、長崎の原爆も又、まだまだ神の国だから大丈夫と、お互い励ましあっての毎日の訓練に、日々をおしげなく張り切っていた。

ソ連の宣戦で満州は一変した。関東軍は軍備うすく南方へまわされていて、残る兵は壕作りくらいで無防備に近かったと言える。
関東軍の姿は五味川純平さんの「戦争と人間」で知られている。なだれの如く広い北満一体の日本人は、打ち出される波の如く南へ南へと逃げ始めた。
逃げるといっても、今まで地べたへ頭を押し付けていたものが手がはずれた如く、満人達は日本人をおそい家の床板まで剥いで持っていく。子どもの着ているものまで剥いで持っていかれた人もいるという。

吉林も緊張状態になり私たちは看護婦隊を解散となった。それまで学校は、北満より送られてくる傷病兵二千人位収容したと記憶する。毎日担架で下ろしたり運んだりする事、又講義を受けていた講堂にいっぱい兵隊をねかせ、教室もいっぱいとなった。
炊き出し配給、そして苦しむ兵隊さんの「もう日本はおしまいだよ」というのを「何言うんですか、しっかりして」と励ましながら、今まわりの四・五人の語り合った兵隊さんを思い出すと、悲しい気持ちでいっぱいである。若い二十二・三才の人もいるし、四十歳過ぎの小父さんもいた。お国のためと勇んで出征した人たちなのだろうが、この敗戦後退しながらどこかで死んでしまう人たちが多かったろう。何人の人が日本までたどりついたろうか。

八月十五日終戦の日は、学校にいた傷兵たちはみんな南へむけて送り出した後だった。
学級にもどって学年で必勝祈願に吉林神社へ朝から参拝して解散となり、正午の報道は満鉄病院で聞いた。今日は特別放送があるらしいから聞いてみなければ、私たちは歩いて三十分かかるし間に合わず、四・五人の友人と天皇の敗戦御朗が流れるラジオの前で、ただ何か雑音まじりにこれが天皇のお声なのかと神の声として聞いた。戦いがただ終わった事だけはわかった。
「たえがたきをたえしのびがたきをしのび」悲しく重苦しく伝わるこの言葉で「終わった」という、体中から何かホッとした力がぬけた一つの感じがあった事はたしかだった。
家に帰ると父が会社から帰ってきていて、イライラとした表情で二時の放送を待った。

その頃は長兄は父の仕事と一緒の満鉄に入り家にいて、次兄も学校より動員され、軍服を作る工場で労働に倒れて帰されて寝ていた。軍服の布地もほこりの出るもので、裁断から縫いボタン付けまでオートメーション式に一日何十着と、大変な仕事だった話を聞いた。
今思えば何もかも命令で、野麦峠のあの織姫たちの悲しい結核で倒れて死んで行く姿を、男に変えた一つの物語と重なってくる。引揚げ後次兄の二十三歳の人生も悲しいものであった。

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2008/05/22

ある満州引き揚げ者の手記(二)吉林

陽転して、私が胸を(肺浸潤)患って小学校三年生の終わりから四年生の秋まで安静療養のため、父はバター、ミルク、ドリンクと色々手に入らぬ食料を統制の中買い求めてきて、私に食べろ飲めと大変だった。
奉天は工業都市で空気は悪いからと希望転勤、水の都吉林へ行った。その頃兄は奉天鉄西酒造工場勤務、父は自分より給料がいいと我が子の就職を自慢していたし、次男は大連の学校に行っていたので二人の男の子と別居で、私と妹と四人で吉林に行ったのが昭和十五年十一月、冬を迎えての北満行きだった。紀元二千六百年と日本中が湧いていた時であった。

吉林はスキー場もあり、それまで学校の体育はスピードのスケートだけだったのが、初めて未だ滑った事の無いスキーがあった。一年近くもの休学は大変な重荷となって私はつらかった。特に少数分数代数とわけのわからない勉強に追われ、進学に追いつくのに担任の若い教師は放課後残して教えてくれた。一つ一つ個人で解いてくれた言葉は忘れない。
先生は文学青年でおとなしいあまり喜怒表現の薄い人に見えたが、とても忍耐強い人でもあった。クラス四十二・三人づつ朝日小学校学年男女別々で一クラスづつだった。

クラスメートの中には今作家として活躍しているSさんもいた。私と反対に彼女は健康優良児で幼い時から文学には進んでいたし担任を追い込んでいた。くいしばってがんばる人間は性格であったが、終戦後彼女はあらゆる生活の中で、そのがんばりが体をこわしてしまったのではないだろうか。心臓の二度の手術にむちうってがんばっている彼女の今の姿に、自分の事の様に嬉しくもあり心配でもある。
一緒に吉林高女へ進学した頃は大東亜戦争もたけなわ、南の島々へ日本軍は進んでいた。
ラジオの報道「敵の戦艦の撃沈、我が方の損害少なり」がとても気になり毎日耳を傾ける不安な世であった。
女と云えども銃を持てと教練の時間もあった。中学生は今考えて見れば一人一人敵は素手で攻めてくるはずないのに、藁で作った人形を一突きづつ、大声かけてさしころす練習ばかりであった。

二年三年と進学、軍需工場へ動員、開拓団では農業を手伝った。学校は運動場をつぶし畑をつくり、松花江の江岸へスコップかついで土を掘り起こしヒマやそばを作ったのがどう製造流れたのか、お国のためお国のためで飛行機のガソリンになるのだと、ヒマは多くまた張り切って作った。
十五歳の学生時代は髪は両方に分けくくり、ちぢれた髪やうすい人は苦労した。セーラー服はイギリス服と廃止され国民服となった。国防色といってベージュの濃いいやな色で、ズボンのズダ袋の様な姿の女学生であった。
軍歌軍歌の中にも音楽の先生は、クラシック行進曲(マーチ)を毎朝の朝礼集まりに私たちに聴かせてくれたので、今聞くとベートーベン・シューベルトの曲かわからなくとも、音楽リズムだけは身体の中になつかしく思い出す事が出来る。英語もだめで、あの時英語を教えておいてくれてたらこんな苦労は今ないだろう。横文字をみるとまるでめくらと同じでわからない。

戦争も敗戦になり始めた時はもう何もかも統制され、食料も着るものも日本人でさえ配給配給で並ぶこともあった。
満人には配給などあるはずなかった。学校へ行く途中、よく行き倒れというか冬は道べたに死んで凍った満人をよく見た。飢えて死んだのか寒さで死んだのか、今の中国では華麗な姿も見かけないが、その様なみじめな飢えもないという事だ。
男という男二十歳前後は勿論招集された。十五歳の男子から予科練生として、勉強をたち切って戦場へとかり出され始め、あれが教育されて特攻隊として一人一たま体あたりの教育があった。
我が家は兄は目が悪く徴兵乙となり甲種合格から落ちた。男に生まれ年頃の男の子として、こんなみじめな思いはなかったそうだ。二十一歳の徴兵検査の三ヶ月は明るく楽しく父や母に話していた顔、甘党数人で外出した時お汁粉やに入り、七杯八杯食べたとあの時の親子満足そのもの。親は目の悪い兄を心身ともに身に付けさせようと柔道を習わせ、青年学校で初段になったりした賞を部屋の上に額を並べていた。

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2008/05/21

ある満州引き揚げ者の手記(一)奉天

昭和九年、一家五人田舎の駅で(佐賀県藤津郡)親戚知人何人かの見送りを受けて、満州国奉天市へと日本をはなれた。四歳の私と兄二人を連れて両親はどんな夢を見ていたのだろう。今では大陸への侵略であったと言うが、当時は開拓進出と日本人が支配しなくては前進のない中国として支那へ支那へと送り込んだ。日本人は満人は下等な人間として見て扱ったことは、子供の私でも身をもって感じている。父は先に渡満していた奉天駅前果物店をだしている兄になる伯父を頼って居候した。

近所に住む久山さんという金物屋さんの協力で色々な夜店やまつりの有る所をめぐって色々売り、リヤカーで店を出しに行っていた。長男は中学生で友達に会うのがいやだと言いながら、夜は一生懸命親に手伝って車を引っぱったり押したりしていたのをおぼえている。次男と私は留守番が多かったが、時々夜は車の商品の下に入れられて夜店へ出ていた。ネオンのはなやかな春日通りや奉天神社の境内の様子、短い期間では有ったが強く記憶に残っている。
あの神社なども日本人が入って中国人を使って作り上げたものであったろう。仏教しかない又、それぞれの土地の伝説だけしかない満州に神の国が入って押しつけ、神様をつくり軍隊もまた教育も神であった。天皇は神の子孫であり神の国日本と神のためには死とたたえ、服従教育と云うかこの頃の日本政治の動きは昭和十二年二・二六事件などで想像する。

支那事変勃発の時妹が生まれた。私たちの一番大切な成長期は戦争で始まっている。戦争の勝ち進む事など見てはいなくても、父はその頃満鉄に入社していて、軍隊が進んでいく中国(支那)の方へ後ろに線路を引いていく慰安列車に乗っていた。残酷な日本軍が中国人家を焼き払った後や、分別なき虐殺などのあった後を行ったのかと思うと目をつぶりたくなる現在である。南京陥落など次々と勝ち進む度に、チョウチン行列でおまつりがあった。
父も十二年の暮には奉天満鉄社宅へ帰り本社へ勤めていた。そろそろ佐賀の田舎からも人が渡満してきて佐賀県人会などが出来て、なつかしく寄り合って会食するのが楽しみな母の顔も思い出す。

白菊町と云って、満鉄が土地を買い取って建てたのかとり上げて建てたのか、日本人街に作られた奉天市は広かった。満人たちはその頃、外へ外へと押し出され長屋バラックに貧しく暮す人々ばかりであった。日本人の満人への扱いは人によって違うであろうが、人間扱いではなかった事はたしかだろう。盗人が多かった。満鉄社宅へもよくどろぼうが入った。盗人市場(ショウトル)と言って城外の方で露店があり、そこに行けば盗まれた片方の靴まで売っていたと言う様なありさまであった。品物が安いのでみんな盗られたものをさがし買いに行くのだ。

一度父たちについて行き迷子になったのを経験している。迷子になるとさらわれて殺されるとよく話を聞いていたので、親戚の男の子が大声で泣くのを引っぱって、大声をあげて父をよぶのもこわくて、九才の小さな頭でどうしていいか必死で考えた事も強く残っている。
日本人が一人になると殺されるという恐怖が吹聴されていたが、それも日本人自身だったかもしれない。あまりにも日本軍のやる事がひどいので反日運動があちこちで起こっていたのだろう。
私は奉天葵小学校へ進学、我が家の幸せは3DKの門のある社宅に住んでいたこの頃が、絶頂の時ではなかったろうか。妹の出生は祝福につつまれベビー服やお人形にうまり、母は一番幸せな時ではなかったろうか。

父は世話好きで良く人を家につれてきて下宿させたり入社させたり、何時も誰か家族のほかに他人が一人か二人いた。
ただ今でも生きていてくれればと思う石田という学生がいた。父を満鉄に入社させてくれた人の甥御さんを預かったのだ。その人は北海道の人で父親は肺病で倒れ、母親は病の夫と子どもを残して出て行き祖母に育てられた。そのお祖母さんが亡くなり父親も亡くなり、叔父さんが引き取って満州へ来ていたのだが、その叔父さんが北支の方へ転勤となった。学校がもうすぐ卒業、高等二年(十四歳)というのにつれていかれなかったのか「叔母さんは自分の子供三人は連れて行ったのに、やっぱり自分は迷惑だったのだ」と言っていたのを私の両親は涙を流して聞いていた。母は一緒にお弁当を作り父・兄・私・その子四・五人分のお弁当を丸いお膳の上に並べて、朝は忙しく作っていた風景も一つの思い出である。

卒業してその子は軍属へ就職した。頭が良く私の家庭教師の様に勉強も教えてくれた。試験で九十点以上を取れば講談社の本を買ってくれた。よく読む時で、一冊一冊深く本の内容や絵を思い出す。
転勤となり我が家を出て行く事になった。「自分の家だと思って何時でも帰って来るんだぞ」と言う父や母に、両手をついて「御恩は一生忘れません」と挨拶したあの十五・六歳の男の子、今想像してもその時私には大人に見えていた。「今度来る時は長い剣をさして来ます」と休暇間に遊びに来た時は、父を喜ばせた言葉だった。その後父が面会に行っても会えず行方不明となった。軍属といっても内容は私にはわからなかった。

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2008/05/20

ボクはなんだか分らない

世の中には何回聞いても分らない事というのがあるが、これなどもその典型だ。
2002年に神奈川県の横須賀市で、在日米兵がオーストラリア人の女性を暴行する事件があった。刑事事件としては不起訴になったが、民事訴訟では被害女性の主張が認められ、300万円の賠償金の支払いが命じられた。処がその米兵は金を払わぬままアメリカに帰ってしまい、アメリカ政府も支払わない。そこで日本の防衛省が代りに300万円を、そのオーストラリア人女性に支払うことを決めた。ね、分らないでしょ。
一体どういう支出項目になるんだろう。「思いやり予算」かねぇ。米兵から見れば「やり逃げ予算」になるだろうか。
こんな大盤振る舞いをしてりゃあ、予算がいくらあっても足らないわけだ。

政府が基礎年金の全額税方式化に関する財政試算をまとめたが、財源確保のためには消費税を3.5~8.5%引き上げることが必要なのだそうだ。
一つの考え方ではあるだろうが、何せ現在の消費税5%にする時も謳い文句は福祉の充実だった。処が蓋を開けたら、全額が企業減税分に充てられ、福祉には回っていなかった。
政府のそういう前科があるから、この度の消費税増税ウンヌンも全く信用できませんね。

鮮魚販売会社「魚きん」が、消費期限の切れた刺身を、翌日の「刺し盛」に使い回ししていたそうだ。
以前から「刺し盛」の刺身は鮮度が悪く、売れ残りの品物を使っていたんじゃないかと疑って、絶対に「刺し盛」は買わないことにしていたが、正解だった。
しかし、それで誰も中毒を起こしていないのだとすれば、見方によっては水産資源の保護、地球環境保護に寄与しているわけだ。
「反捕鯨」をスローガンにして船を爆破したり、宅配便の荷物を盗んだりする連中と比べりゃ、未だ罪が軽いのかも知れない。

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「ある満州引揚げ者の手記」掲載にあたり

次回より数回に分けて、「ある満州引揚げ者の手記」と題する記事を掲載しますが、その掲載にいたる経緯を説明したいと思います。
ご近所に佐藤浜さん(仮名・女性)という方が住んでおられますが、幼い頃父親の仕事の関係から一家揃って満州に渡り少女期を過ごしました。日本の敗戦の混乱の中でようやく祖国に帰還しますが、その前後に母親と兄を病気で失うという不幸に見舞われます。
佐藤さんは、いつか妹や子どものために読んで貰おうと思って、メモ用紙や広告の裏紙に手記を書いていました。しかし整理のつかぬまま高齢になり、このままだと手記も散逸してしまうということで、知り合いである私の妻に整理の依頼がありました。
妻がこれをワープロに打ち直したのですが、たまたま私がこの原稿を読んで、これを是非多くの方に見て欲しいと思い立ちました。
公表を前提としたものではないので、文意の取りづらい所分かりにくい所もありますが、戦前満州という地に渡り、終戦時の地獄のような混乱を生き抜いた一人の女性の記録として、大変貴重な資料だと考えます。何の飾りもない文章だけに、私はより感動しました。
佐藤浜さんご本人の了解が得られましたので、手記に書かれたままを掲載したいと思います。

掲載にあたり、留意した点は次の通りです。
(1)明らかな誤字、及び旧カナづかいを直した以外は、原文そのままを掲載する。
(2)差別的な用語や表現が含まれているが、そのままとする。
(3)個人が特定できる固有名詞については仮名とする。
(4)掲載にあたり整理の都合で表題と小見出し、段落は当方でつけた。

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2008/05/18

第4回ワザオギ落語会in国立演芸場

Gontaroミックス寄席が年1回開催しているワザオギ落語会、第4回は5月17日国立演芸場で行われた。当日の公演はライブ録画され、後日そのままDVDとして発売されるとあって、演者としては余計なプレッシャーがかかるだろう。若手ベテラン織り交ぜて実力派を取り揃えた今回の、出来やいかに。

三遊亭好二郎「宗論」
三遊亭好楽の弟子なので圓楽一門、普段は寄席ではお目に掛かれない。風貌がどこか師匠に似ている。芸風が明るく口調も明快で好感が持てる。緊張のせいか固さも見られたが、独自のクスグリも適度に織り込み、良い「宗論」に仕上がっていた。
今秋真打に昇進するそうだが、期待が持てる。

桃月庵白酒「転宅」
得意のネタだったが、やや精彩を欠いていた。「二階に用心棒を置いて」の「二階」を抜かすなど、大事な所でミスが出た。着実に進歩している期待の若手だけに、一層の精進が望まれる。
それと、体質なのだろうか汗をかき過ぎる。高座で頻繁に汗を拭く姿は、あまり感心できない。

三遊亭圓丈「強情灸」
最近の圓丈は古典を手がけることが多いが、この人の古典では並の真打レベルになってしまう。せっかく圓丈を観にきた客はがっかりするだろう。
この「強情灸」というネタは意外に難しく、絶品の古今亭志ん生を除くとその他では先代の柳家小さんの名前が上がる程度である。
当初予定のネタを変更したようだが、演目の選定を誤ったのではなかろうか。
―仲入り―
柳家喬太郎「ちりとてちん」
マクラでネタが「ちりとてちん」と分ると、会場から「エッエー」という小さな反応があり、「圓丈師匠が『強情灸』だったんだから、『ちん』でいいでしょう。」と喬太郎のエクスキューズがあった。
こういう軽目のネタでも、喬太郎が演じると十分楽しめた。
この「ちりとてちん」というネタだが、元々は「酢豆腐」を改作したもので、上方落語である。以前は東京の噺家は専ら「酢豆腐」を演じていた。やはりオリジナルの方が江戸っ子らしい洒落っ気があって、私は好きだ。
仲入り前のダレ気味の空気を締めて、トリにつなぐ。

柳家権太楼「文七元結」
高座に上がってきた権太楼の表情が見るからに気合が入っており、これは大ネタだなと予感したが、果たして「文七」だった。
非常に良い出来だった。始めから終わりまで間然とするところがなく、緊張感を維持したまま最後まで客席を引き付けた。
この噺は、大きく3度のヤマ場がある。長兵衛が佐野槌の女将に意見される場面、吾妻橋の上で文七の身投げを助ける場面、長兵衛夫婦の喧嘩から大団円の至る場面である。
演者により、どの場面に力点を置くかが別れる。例えば古今亭志ん朝なら吾妻橋上、三遊亭圓楽なら夫婦喧嘩、立川談春なら女将に意見される場面となる。
権太楼のものは、志ん朝の演出に近いが、時間の関係からか、だるま横丁の前で酒の切手を買う場面などが省略されていた。
欲を言えば、このネタは泣かせる場面とカラッと明るい場面が混在しているが、権太楼の演出はやや湿っぽい方に重心が行き過ぎたように思う。

帰りに周囲の客から「今日の文七良かったね」という声が聞こえた。
終わり良ければ全て良し、権太楼の熱演に尽きる会となった。

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2008/05/17

失政が招いた中国大地震の被害拡大

4sensho2006年10月に中国四川省をツアーで訪れた際に、バスでほぼ中央付近を南北に縦断しました。その時の車窓から見た印象を、当時の旅行記で次のように書いています。
「北の岷山に源を発する岷江は、四川省のほぼ中央付近を南北に縦断するように流れています。
今回の私達のツアーは、この岷江に沿ってバスで移動します。
(中略)
バスの車窓から見る風景は、岷江の急流と両側の切り立った山、その間に挟まれた僅かな土地で生活する人々です。
土地が狭いから農業をするのは難しいのでしょう、成都より北部は牛や山羊の放牧が目に付きます。そして猫の額ほどの土地に畑を作り、恐らくは自家用の野菜を栽培しているのでしょう。
見るからに貧しい家が多く、この地方で生計をたてる大変さが想像されます。
中国の農村部は総じて貧しいのですが、その中にも格差があります。
以前訪問した雲南省の農村は、全体として豊かな印象を受けました。
最も貧しいと感じたのは、北京から西安に向かう列車の車窓から見た農村です。平らな土地が少ないのでしょうか、小さな段々畑が目立ちました。横穴式住居も数多く見られ、ショックを受けた記憶があります。」

5月12日午後2時28分に中国南西部・四川省を震源とする大規模な地震が発生しました。地震の規模を示すマグニチュード(M)は7.8で、内陸部としては最大級の規模です。実態が明らかになるにつれ被害は日を追って増しており、今のところ犠牲者の数は数万人に達するとみられていますが、最終的には更に拡大する可能性があるでしょう。
また5月初めに起きたミャンマーのサイクロン被害は、犠牲者の数が8万人に迫る大惨事になりました。
いずれもかつて旅行した地であり、被害の大きさには胸が痛みます。
僅かですが両方の被害に対して寄付を行いました。

震源に近い地域で建物の大半が倒壊したということで、中国の建築基準がどうの、耐震性がどうのという議論があるようですが、私の見た印象からすれば、それ以前の問題です。
農家の多くは老朽化し、建っているのがやっとという建物が目に付きました。加えて中国の家は石造りなので、大きな地震がくればひとたまりもありません(反面火災被害は起き難い)。

私たちがバスで通った道路は四川省の中でも主要な幹線道路でしたが、それでも片側は岩が迫り、もう片側は大きな川ですから、随所に崖崩れが起き易い地形です。
日本を始め海外からの救助隊が現地に向かっていますが、道路が寸断されている中を、瓦礫を取り除きながらの救援活動は困難を極めるものと思われます。

災害は天災だが被害は人災という言葉がありますが、今回の大地震の被害につぃても、低所得者層ほど大きいという傾向になるでしょう。現地の住民の声として「政府の建物は壊れないのに、なぜ学校が壊れたのか。」という指摘がありましたが、その通りです。
中国の教育現場では、中央政府からの補助金が僅か2%(2006年当時)しかなく、義務教育といっても名ばかりです。農村に行けば片道2時間かけて通学する小学生も珍しくなく、更には学校に通えない子どもも大勢います。校舎が崩壊し、沢山の生徒が生き埋めになるという悲惨な結果を招いたのも、政治の責任です。
沿岸都市部の経済発展だけが最優先され、教育や住宅、医療などといった庶民の生活に必需の分野をなおざりにしてきたツケが今回ってきています。

サイクロン被害にみまわれているミャンマーもまた、失政による人災です。ミャンマーは資源が豊富で、温暖な気候は農業にも適しています。本来は豊かな国になる筈ですが、長期にわたる軍事政権が国民の生活をメチャメチャにしています。仏教の僧侶が尊敬を集めているお国柄なので、その僧侶を弾圧する政権はやがて大きなしっぺ返しを食うでしょう。

庶民を無視した政治は、最後は必ず国を滅ぼします。
我が国も、もって「他山の石」とすべきです。

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2008/05/02

ブッシュと金正日の「手打ち」が近い?

Bush14月初め頃から。北朝鮮が核施設の廃棄と、同時にシリアに核兵器開発の技術を供与したことを「自白」して、その見返りにアメリカは北朝鮮をテロ支援国家のリストから外し、経済制裁も解き晴れて経済支援を受けられるようになるというウワサが流れていたが、どうやらその方向に向かいつつあるようだ。
この件で米国のブッシュ大統領は4月29日の記者会見で、北朝鮮によるシリアの核施設建設への協力を明らかにした理由として、中東への核拡散を防ぎ、イランにウラン濃縮活動の停止を迫るのが目的だったと語っている。
つまり、北朝鮮の核技術が、シリア経由でイランに流されたというシナリオを描きたいのだ。これにより、
(1)イスラエルのシリアへの空爆を正当化し
(2)イランの核開発を停止させるという口実で、イランへの先制攻撃を準備する
という戦略であろう。

肥大化した軍需産業を抱えるアメリカは、常にどこかで戦争をしないといけない。戦争はアメリカにとり、最大の公共事業であるといえる。ちょうど日本で、常に道路を造り続けなくてはいけないのと同じ理由だ。
泥沼に陥ったイラク戦争を早く収拾に向かわせ、イランへの攻撃に備えるという点では、共和党と民主党との基本的政策に違いはない。
現に民主党の大統領候補であるヒラリー・クリントンは先日、「私が大統領になったら、イランがイスラエルに核攻撃した場合、米国がイランを攻撃して全滅(totally obliterate)させる」と語った。「核攻撃」を「核開発」に置き換えれば、いつでもイランへの先制攻撃が正当化されるわけだ。ブッシュがイラク戦争なら、ヒラリーは(もし大統領になればの話だが)イラン戦争に手を染めるのだろうか。
米国の軍需産業は、共和・民主どちらの陣営にも巨額の選挙資金を出しており、従ってどの候補が勝とうと、スポンサーの意向には逆らえない仕組みになっている。

イランはアメリカと事を構える気は全くない。資源大国であるイランは米国と紛争を起こしても、何もよい事がないからだ。金持ちケンカせずだ。
反米感情はあるが、それはイランーイラク戦争の時、アメリカがフセイン大統領に味方し、イラクに大規模の軍事支援を行った。その結果、イラクからイランに飛ばされたミサイルの殆んどが、米国製だったからだ。

「次」に備えるために、アメリカとしては対北朝鮮外交で早く結論を出したいだろうし、北朝鮮側は早く経済支援を受けたい。アメリカが金正日体制の維持さえ約束すれば、北は米国の提案をのむ可能性が高い。両者の思惑が一致すれば、「手打ち」が現実味を帯びてくる。
どうする、日本の外交。

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