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« ある満州引揚げ者の手記(六)祖国へ | トップページ | 自衛隊の中国派遣に反対する »

2008/05/28

ある満州引揚げ者の手記(七・最終回)帰国と兄の死

亡くなった母の実家にたどりついた。次々といとこ達親戚の者も朝鮮などから引き揚げて来ていた。父は母を連れて帰って来れなかった事を伯父に手をついてあやまっていた。伯父の家は昔は船を出した漁民の頭だったが、その時は網の修理や浮きなどをけずって作り、細々とした生活であった。従兄一家も広島より原爆を逃れて帰ってきていた。
漁村農村は物がないとお米も魚も分けてくれないように、外地へ出てた者はいい思いしたのだから仕方ないと見下げ、なり上がっている時代となった。
父は初めて愚痴をこぼし、母と代って自分が死んでいた方が、お前達の苦労は半分だったろうと男泣きした姿も見た。兄も私も、右も左も人も初めての人たちの中で言葉になれるのも馴染めなかったが、生きてゆく為にその日から何かしなければ食べていけない現実だったが、一月ばかりは伯父の家で休んだ。父の友人が倉庫半分にして私たち住む部屋にしてくれた。

次男の兄は寝込んだままだった。結核というとみんな伝染するので寄りつかない。だが食糧というとただタンメン、芋、コーリャンの粉、病んだ兄はほうれん草が食べたいなー、リンゴも食べたいなーと言った。どこをさがしてもない物ばかりで、農家へ買いに行っても、品物を持って行かないと出してくれない。買えない。お金はなく売るものもない引揚者の惨めな生活は、同じ日本人でもその頃の漁民や農民の人の冷たさは本当に鬼の様に思えた。
漁村と農村は敗戦で豊かになった。そして人間も日本人同士なのにと何度か思わされた時代だった。日本国中が何の治安もなく、女は身を売ってパンパンという長崎佐世保福岡とはなやかな夜に舞い込んでいくものも多かった。
自転車を求め、父は兄に地図を書いて地元で取れるアミ漬を売りにいくよう指導した。仕事を探す所もなく行商より他ないのである。人と話すことも下手な兄は父に言われるとおりハカリを持って、初めはリュックに担いで売ってきていた。

私も進学できればまだ女学校卒業していないことを、どうしていいのかわからなかったが、誰も何もいってくれなかった。妹だけが小学二年生に入った。「学校はどうするの」と熊本の伯母が来て初めて言ってくれたが、私は「行かれない」と初めて泣いた。母がいないし次兄は病で寝込んでいるし、父も感染していて肋膜炎となっていた。
病人ばかりの我が家は従姉が医者と結婚して近くにいたため何かと助けてくれたが、次兄は二十三歳で缶詰の空き缶に血を吐きながら息絶えた。今でも命日が来るとリンゴとほうれん草を仏壇はないが、私の心の仏壇にかざる。いっぱいいっぱい今はあるし、いっぱい食べさせたかった。栄養失調で妹も感染、私も足がむくみ歩けなくなった。

山を手に入れた父は食糧になるイモを少しでも作ろうと、荒れた山を毎日毎日登って畑にした。木の根を掘り起こしたので、一年は薪を買わずに済んだ。イモを作り麦を作り何もかも初めてだ。出来たものを持って帰る楽しさと言うような、甘い農業ではなかった。十代の私にはとてもつらい仕事だった。
父は母のない年頃の女の私たちを見て、つらい思いを手の届かない思いを、酒の力を借りて当り散らすこともあった。病で身体はだるい、仕事は出来ない。それでも町の仕事や区の仕事を少しずつでもさせてもらっていた。

従姉になる小柳の姉は男の子一人をかかえ、足の不自由な親戚になる軍医と結婚して、三人で東京より引き揚げて来ていた。
伯父の家の庭にささやかな診療室を建て開業していたが、その頃の医者と言っても保険も無く、田舎の人たちは米や魚を持ってくるだけで、現金はなかなか入らない。義足の技術も未だ不十分な品で、苦しそうな従兄の顔を何回と無く見る度に、胸の痛くなる思いだった。亡くなった兄を注射を打ち、また手を取り見送ってくれた医者であった。

後に私が商売に農村を歩き始めたのも従姉のさそいだった。桃子という女の子が生まれその子をおぶって私を連れて、イモで作ったアメを売りに歩き始めたのである。私は兄が残してきた佃煮や削り節などをもって一緒に歩いた。
朝六時すぎの列車に乗って行き白石平野を歩き始める。背中におんぶされてる桃子はおとなしくしていても、やはり疲れるのであろう。早くおさつを数えるよう両手をたたいたようにする。「おっぱいおっぱい」とお腹が空くとぐずってくる。
お寺のような所やお地蔵石のある所で一休みして汗をふきながらの夏、冬は寒くて一軒一軒でよくお茶を頂いた。
あれから、行商に来る人に対してのあつかいも体験した。相手も立派な人間なのだとして言葉態度を思い知らされた。

―終り―

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ある満州引揚げ者の手記」カテゴリの記事

コメント

ご無沙汰しております。
「ある満州引揚げ者の手記」全て拝読しました。
私は昭和28年生まれで戦争体験は勿論していませんが、貧乏暮らしだったこと。それで、母が闇米の売買に手を染めていたことなどを聞いています。
またJR蒲田の東西をつなぐ地下道では義足や義手をつけた傷痍軍人が物乞いしてた光景を小さいながらも可哀想にと見た記憶が鮮明に残っています。
ところが、この中には偽の傷痍軍人が混ざっていたという噂もありました。それだけ、食べるのに困窮していたのでしょう。

この手記を読んで戦争の惨たらしさという現実味のあるものを終戦から60年たった今再認識させられたわけですが、このパニック状態にも似た現象が、今現在中国の四川省の地震で起きてるのではないでしょうか?
戦争とは違うものの、物資の争奪は戦争以上に激しいかもしれません。そう思うのは、人間楽をしてきたというか、あまりにも文明の利器が発達しすぎて便利になっていたところ、それらの全てを地震によって奪われたのですから、想像を絶する悲惨な状態に陥っているでしょう。
中国政府による死者は6万人ほどということですが、行方不明者など入れれば倍増するのではないかと思われます。
仕事帰りの今日、蒲田駅東口では中国人たちによる地震の募金をしていました。
私は心が狭いせいか、これには募金しませんでした。
というのは、これより10年ほど前、中国人ホステスのいるパブなどで散々湯水のごとく金を使っていましたからね。
郷に入らば郷に従えという諺など、彼らには関係なく、中国流の商売を押し通す彼らのやり方には辟易させられ、いくら友人との付き合いで行っていたとはいえ、さすがに怒り心頭でそういった店から足が遠のいてしまいました。
ということで寄付はしていませんが、被害者の心情は察するに有り余るところです。
手記を書かれたご婦人の今が幸せになられてるようで、それが何よりです。
脈絡のない感想で申し訳ございません。

初回から読ませていただきました。文章自体は前後の関係、状況説明がわからないところがありますが、大変な状況を潜り抜けてきたという臨場感があります。
戦争の不条理さは十分感じさせられる手記だと思います。
わたしも家内の叔父2人が満州義勇隊で死んでいます。友達の叔父も満州で死んでいます。いずれも農民としていったものです。
満州についてのカテゴリーのブログも書いております。
リライトしてブログで発表されたこと大変に意義があることだと思います。

dorunkon様
コメント有難うございます。又長文のエントリーご愛読頂き感謝いたします。
私も戦中生まれですが、戦争の記憶は全く無く、専ら家族から聞いたり、本で読んだ知識だけです。
今回の「手記」は、戦前から戦争直後という、ちょうど私が体験していない時代を記録したものです。
実際の手記は、ノートの端や広告の裏に走り書きされたもので、まとまったものではありませんが、その分生々しい内容です。
私はこのエントリーを書き写す段階で、何度も涙を流しました。
想像を絶する体験をしながら、この方は戦後の激動期を生き、家庭を築いてこられたその精神力にも驚かされます。恐らくはPTSDにもなっていられない程の厳しい人生だったと思われます。
どんな状況になっても決して挫けない、この方の生き方には大変学ぶべき事が多いと感じました。
中国の地震被害には、天災の部分と人災の部分があり、中国政府が人災の部分をどれだけ真剣に受け止めるかが今後の課題となるでしょう。

ヒキノ様
コメント有難うございます。
又、長文で難解なエントリーを完読して頂き、感謝いたします。
元々が公表を前提としないご本人のメモ書きでしたので、分かりづらい箇所も多かったと思います。
満州については色々な本を読んでいますが、一人称で書かれた手記を読んだのは、初めての経験でとても感動しました。
手記を書いた方が今回公表を承諾された背景には、戦争の惨禍を一人でも多くの方に、特に戦争体験をしていない方々に知って貰い、二度とこうした不幸な時代がくることが無いようにという願いからです。
その点で、多少お手伝いが出来たとしたら、これに勝る喜びはありません。
ヒキノさんの満州に関するエントリーも、近々拝見したいと思います。

手記を拝見し、10年前に亡くなった父の体験と重なるところあります。私は昭和38年生まれで、父が生前に満州での体験を話してくれていました。父は昭和10年生まれ、
祖父が学校の先生をしていたそうで、当時の中国の方に良くしていたことから、ソ連兵が来た時も逃がしてくれ、5人兄弟と夫婦して全員帰国できたそうです。
どの方の満州での体験記を読んでも、開拓団として渡満・敗戦・引き揚げ・帰国してからの生活・・・
何のための戦争だったのでしょうか、亡くなっていったたくさんの命の、そして辛い体験の代償はあまりに大きすぎます。

耳にたこができるほど父から聞いてきたように感じていた満州での出来事は、私自身が4人の子どもの母となり、我が子にも伝えていかねばと思いながらも、父の記憶の中の満州を正確には伝えられません。

住まいは吉林、読ませていただいた手記には水の都とありました。父の年齢から察するに、遊び盛りの年頃の少年にとっての思い出は・・・小学校の校庭に水をまくとスケートリンクに早代わりしたこと、
家に雉の間があり、寒い冬もおいしく料理を食べたこと、敗戦した後祖父が良くしていた中国の方たちが逃がしてくれたこと、末の弟が引き揚げ船の検便を非常にいやがったこと、帰国してからの祖父の実家での生活・結核で療養などなど・・・
小学生だった私が解る範囲での思い出話をしてくれました。
もっと過酷で残忍な思い出もあったでしょう。祖父・祖母・父より3学年上の伯母の記憶はまた違うかもしれません。
私が父の思い出を通して、また満州の手記を拝見して
思うことは、混乱の中、我が子を全員帰国の途につかせることが自分だったらできたか・・・過酷な運命を呪い、気が狂ってしまったでしょう。祖父母の強靭な精神と愛情に感謝しています。残留孤児も他人事でなく、父の兄弟の誰一人欠けない保障などなかったのです。
中国の養父母の方々の思いに胸が熱くなります。
苦い経験は語るにも、手記をまとめるのも大変な作業であると思います。でも戦争を知らない私どもの世代・孫の世代は、生き証人である方々から聞き、事実から目をそらさずに、次世代へと語り継いでいく義務があると思います。これからも経験された方々が私どもに伝えてくださること、特に文章に残してくださることを願ってやみません。世界中の家族が、兄弟が悲惨な体験をしないためにも。

サイアサさま
長文のコメント有難うございます。
この手記は近所の老婦人が、いずれ家族に残しておこうと少しづつ書き溜めたもので、広告の裏やメモ用紙などに書かれていました。
ご好意で借りて、初めて原稿を読んだとき、何度も涙を流しました。
引き揚げ者の記録というのは過去に何回か読んだことがありますが、出版されたものというのは必ず編集者の手が入っています。こうしたナマの手記に接するとまた感動は違ってきます。
既に80才を越え、健康状態も決して良好とはいえないその婦人ですが、二度とこうした悲劇を繰り返えさせてはいけないという思いから、憲法9条を守る運動をしています。
せっかくの貴重な記録なので何らかの形で広く知ってもらいたいという気持ちから、私のブログに掲載することを提案し了承を得て、手記をそのまま記事におこしたものです。
幸いなことに、毎日必ず数名の方がこの記事にアクセスして下さっています。
引揚げの体験を持っている方が少なくなっている今、一人でも多くの人に読んで頂きたいと願っています。

父の家族が旅順で終戦をむかえ、引き上げてきました。父は終戦の時、20歳でした。父は多分召集されたかどうかの瀬戸際の年齢で、家族とは別に帰国したようです。2005年に他界してしまったのですが、もっと話しを聞いておけばよかったと後悔しています。
相続にあたり、戸籍を取り寄せたところ、父の家族が大連や旅順で暮らしていたことがわかり、いろいろな話を読んでいるところです。父は生前、母親家族(父の父親は旅順で死亡昭和18年)は引き揚げが大変だったと言っていました。
今回読ませていただき、本当に大変だった。口では言い表せないほど大変だったことがわかります。
それでも強く生きてきたんだなと思います。

芳子様
コメント有難うございます。
満州からの引き揚げ体験はあまりに壮絶だったためでしょうか、当時を語る方が少ないのだと思います。
この手記を書いたご婦人も、家族のために書き残しておきたいということで、ノートの橋やチラシの裏に書き綴っていたものです。
了解を得てワープロに原稿をおこしましたが、途中何回も涙を流しました。
二度とこうした悲劇を起こすことのない世の中をという、この老婦人の願いを受け継がねばならないと感じています。

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