« ある満州引き揚げ者の手記(二)吉林 | トップページ | 劇団K助「ステージ」 »

2008/05/23

ある満州引き揚げ者の手記(三)終戦

戦争はますますひどくなりほとんど若き青年は少なくなり、出征出来ない兄はまわりから非国民とささやかれ、同年の青年達は次々と戦死、あまり外にも出ずハーモニカをふいていたさびしい姿が残っている。
昭和二十年夏、私たち三年生は陸軍に依頼され学校を陸軍病院(兵站病院)扱いとして、衛生兵従軍看護婦数人で私たち学生の看護教育が始まった。大量にインスタント看護婦を作り上げるのだ。授業は救急、止血、人体の構造から始まった。
軍医の講義も学校の講堂で若い二十五・六歳の将校だったが力んで講義する軍医、私たち女学生を何か悲しみに物思いするかの様に教える、軍医様様だった。
八月六日広島へ原爆が落ちても、遠く日本本土へ空襲くらいとしか想像してなく、長崎の原爆も又、まだまだ神の国だから大丈夫と、お互い励ましあっての毎日の訓練に、日々をおしげなく張り切っていた。

ソ連の宣戦で満州は一変した。関東軍は軍備うすく南方へまわされていて、残る兵は壕作りくらいで無防備に近かったと言える。
関東軍の姿は五味川純平さんの「戦争と人間」で知られている。なだれの如く広い北満一体の日本人は、打ち出される波の如く南へ南へと逃げ始めた。
逃げるといっても、今まで地べたへ頭を押し付けていたものが手がはずれた如く、満人達は日本人をおそい家の床板まで剥いで持っていく。子どもの着ているものまで剥いで持っていかれた人もいるという。

吉林も緊張状態になり私たちは看護婦隊を解散となった。それまで学校は、北満より送られてくる傷病兵二千人位収容したと記憶する。毎日担架で下ろしたり運んだりする事、又講義を受けていた講堂にいっぱい兵隊をねかせ、教室もいっぱいとなった。
炊き出し配給、そして苦しむ兵隊さんの「もう日本はおしまいだよ」というのを「何言うんですか、しっかりして」と励ましながら、今まわりの四・五人の語り合った兵隊さんを思い出すと、悲しい気持ちでいっぱいである。若い二十二・三才の人もいるし、四十歳過ぎの小父さんもいた。お国のためと勇んで出征した人たちなのだろうが、この敗戦後退しながらどこかで死んでしまう人たちが多かったろう。何人の人が日本までたどりついたろうか。

八月十五日終戦の日は、学校にいた傷兵たちはみんな南へむけて送り出した後だった。
学級にもどって学年で必勝祈願に吉林神社へ朝から参拝して解散となり、正午の報道は満鉄病院で聞いた。今日は特別放送があるらしいから聞いてみなければ、私たちは歩いて三十分かかるし間に合わず、四・五人の友人と天皇の敗戦御朗が流れるラジオの前で、ただ何か雑音まじりにこれが天皇のお声なのかと神の声として聞いた。戦いがただ終わった事だけはわかった。
「たえがたきをたえしのびがたきをしのび」悲しく重苦しく伝わるこの言葉で「終わった」という、体中から何かホッとした力がぬけた一つの感じがあった事はたしかだった。
家に帰ると父が会社から帰ってきていて、イライラとした表情で二時の放送を待った。

その頃は長兄は父の仕事と一緒の満鉄に入り家にいて、次兄も学校より動員され、軍服を作る工場で労働に倒れて帰されて寝ていた。軍服の布地もほこりの出るもので、裁断から縫いボタン付けまでオートメーション式に一日何十着と、大変な仕事だった話を聞いた。
今思えば何もかも命令で、野麦峠のあの織姫たちの悲しい結核で倒れて死んで行く姿を、男に変えた一つの物語と重なってくる。引揚げ後次兄の二十三歳の人生も悲しいものであった。

|

« ある満州引き揚げ者の手記(二)吉林 | トップページ | 劇団K助「ステージ」 »

ある満州引揚げ者の手記」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/82117/41292940

この記事へのトラックバック一覧です: ある満州引き揚げ者の手記(三)終戦:

« ある満州引き揚げ者の手記(二)吉林 | トップページ | 劇団K助「ステージ」 »