ある満州引揚げ者の手記(六)祖国へ
戦争の惨めさを味わい始めたのは吉林を離れる頃からだった。九月ようやく最後の病人ばかりの家族の引揚げの日が来た。ごはんをいっぱい炊きおにぎりをつくった。
また王さんが焼酎や保存食などを持って馬車に乗って来て、私たちのリュックを今のふとん袋位の大きさに、重さどれくらいあったろう。とにかく今は抱える事も動かす事も出来ない位の重さだった。馬車に積んで出発する列車の近くまで運んでくれた。私たちが歩いて着いた時には、小高い所にわかる様にまとめておいて去っていた。
日本人に良くすると、他の反日感情の満人たちから冷たくされる事はわかっている王さんの親切は、深く深く私たちに教えてくれた。
屋根の無い無蓋車、お皿だけの上に乗せられた人たちもいた。新京を通って奉天の方へ向かって走る。
途中止まった所で小用をすませたり死んだ人を下ろして捨てたり、駅でない所でたまたま止まったのを覚えている。雨になるとみんなで幌のように厚い布地で少しでもしのいだ。奉天の駅では通化の方よりの日本人の引揚者が一夜雨の中張るものも無く、お皿の貨物列車に乗せられていた。お互い哀れな目で見つめ合いはげまし合った。
コロ島に着いたのは何日目だったか忘れているが、二・三日はすごしたと思う。
病人の兄は痔ろうでおしりに穴が開いていた。父は毎日化膿したガーゼを取り替えてやっていた。兄と妹と私は、その回りを人に見せない様に背を向けて囲んだ。ガーゼや消毒液など何日分持って歩いたのか覚えていないが、両足をあげて汗を流し、我慢していた兄の顔が悲しく残る。手当てする父、痛さを歯を食いしばっていた兄、何時も自分の名前はいいと言っていた猛の字の自慢の顔、結核が痔ろうにまでなると、おしまいである。だが兄は頑張ってリュックも担いであるいた。
八才の妹は頑張り屋で、小さい身体に大きなリュックを担いで薄いふとんを上に乗せ、父と兄と私の荷物は大変なものだったが、父と兄は棒を妹のリュックにさして両側を支えて歩いた。日本へたどり着かなければとただそれだけ祖国への一歩一歩であった。
リュックの中まで出して地べたで広げ調べられた。水筒の中の水の中にお金を入れて帰ろうとした人がいて、団体全部引揚げ中止になった人たちがいたと聞いた。みんな捨てた人も多かったようだが、船に乗船する時お金は一人一千円と決まっていた。
父は見知らぬ女の人と子どもだけの人たちに残ったお金を渡した。拝むようにして見送ってくれたあの人たち、その後日本へ帰れただろうか。
病人ばかりなので、船の上でも毎日のように死ぬ人が出た。でも船の上は日の丸の旗がひるがえり、船員さん達も日本人で黄海を日本へ日本へと二週間、海征かばの曲が流れ、死んだ人はカーキ色のコモに包まれ船の上から海へ投げ込まれ、三回その周りをまわり進む。
食糧は朝夕二回、間引きした大根葉が味噌汁のようなものに入っていると、大喜びしたものだった。コーリャンのような、本当におさじ何杯かのわりあてであった。
コレラ患者が出たという事で佐世保の沖に日本の山が見えるのに、又、二週間上陸できなかった。やっと上陸しもとの兵舎に集まり、その夜おじやが出た。初めておいしく食べるものを食べられたと思ったが、リュックの中を全部出して消毒が始まる。その間注射など色々あったが、苦労して持って帰ってきた父のリュックの中のラクダの下着が全部(一人三着分)なくなっていた。日本も食糧難と衣類も無く敗戦国だったのだ。
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