ある満州引揚げ者の手記(五)母の死
北満の人々の中に、牡丹江にいた母の親友田中さんは息子6歳を連れて我が家にたどりついた。他にお腹の大きな三十歳に満たない女の方も我が家でひと時落ち着いた。この女の人の名はおぼえていないが、明るいきれいな人だった。ご主人は出征していた。お腹の赤ちゃんを守りながら一人で何週間家にいたか、よく夕食を作ってくれた。お料理の上手な方だった。無事日本へたどりついたか、その後はわからない。
田中さん親子は一緒だった。田舎も一緒の佐賀だったし、父も一緒に引き揚げる様引き受けしたのだろう。だが我が家は病人二人寝込んでいて収入はなく、持っているものをみんな売り食いが始まっていた。病人へ飲ませるくすりもなく、同じ佐賀という知人の先生が毎日母の注射に来て下さった。
不安な毎日の中、零下二十度と下がるお正月を迎え、学校などに集団でいた人々は次々と飢えと寒さその上伝染病等で死んでいった。
女学校の担任だった新田先生のご主人は警護隊の隊長だったため、すぐ裏山の砲台山で銃殺された。当日私はその下で山を見上げ胸をつまらせ、役目だったとはいえ子供さんもない先生がどんな気持ちかと胸つまり涙が出た。戦争ってこんなものだとは知りつつも、敗けて初めて何のために?何がどうなるを感じ味わう三十二歳の未亡人となられた。
前から父は母がお医者様からがんと云われていたのだろう。おもちの好きな母に何も食べられなくなったのに、ストーブの上でグツグツとやわらかく飲める様に、凍ったおもちをとかして口へ入れてやり、「おいしいー」と母がニッコリした日は二月に入ってからだった。
それまで色々あった父がみんなにやさしいのはいいが、一緒に居る田中の小母さんも父にしがみついた毎日だった。母は寝込んでいるので女の感情と云うか嫉妬であったろう。子どもの私たちはその小母さんの存在を母に同情して食事を別にした。
そして母は亡くなった。どれだけ日本へ帰りたかったろう。日本人の渦巻きの死と生の中にまぎれこんでいった姿のようだった。
隣り近所、父の会社の知人寄りあってどう連絡されたのか、多くの人に見送られ雪の中ソリに乗せて、又砲台山で寒い夜木炭をつかってトタンの上で焼き、骨にする事が出来ただけでも幸せだった。
母のお骨も日本へ持って帰りたかったが、自分の身ひとつ帰れるか未だわからない日々の中、この山の端に南も北も東も見える所へ埋め石をおき、ここなら日本まできっと見えるよねと死んだ母へ語った。
第一戦で侵入してきたソ連兵は物あさりと言うか、日本人の家へドタドタ来て銃剣をつきつけ、時計、シューバーあらゆる貴重品があるものは取り上げていった。言葉は通せず身振り手振りで病人だ胸が悪いと父が云うのがわかったのか、口に手をあてて出て行った。あちこちの家も荒らされ、女の人たちもどれだけ犠牲になっていったかと後で知らされた。
集団の中での一日一日はソ連兵が去って八路が入って来た。それは中国軍との戦いのため、どちらの軍隊も日本兵の捕虜がつかわれていた。兄は若い二十代なのですぐ使役にどちらの軍からも引っ張り出され、トーチカ作り鉄橋作りこわしなど毎日毎日、収入などあるはずない、ただあの年で日本兵として日本の国のためと血をおどらし命をささげて往った若者の方が幸せだったと思う。
私たちの引き揚げは日本人最後となった。仲良くしていた友を見送りに出発の所まで行って別れたのに、後、逃げ出してその後中国兵と一緒に暮した人もいる。
八路軍はどんどん後退した。日本人の引揚げがすめば又進むと言い残していった人がいた。
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