ある満州引き揚げ者の手記(二)吉林
陽転して、私が胸を(肺浸潤)患って小学校三年生の終わりから四年生の秋まで安静療養のため、父はバター、ミルク、ドリンクと色々手に入らぬ食料を統制の中買い求めてきて、私に食べろ飲めと大変だった。
奉天は工業都市で空気は悪いからと希望転勤、水の都吉林へ行った。その頃兄は奉天鉄西酒造工場勤務、父は自分より給料がいいと我が子の就職を自慢していたし、次男は大連の学校に行っていたので二人の男の子と別居で、私と妹と四人で吉林に行ったのが昭和十五年十一月、冬を迎えての北満行きだった。紀元二千六百年と日本中が湧いていた時であった。
吉林はスキー場もあり、それまで学校の体育はスピードのスケートだけだったのが、初めて未だ滑った事の無いスキーがあった。一年近くもの休学は大変な重荷となって私はつらかった。特に少数分数代数とわけのわからない勉強に追われ、進学に追いつくのに担任の若い教師は放課後残して教えてくれた。一つ一つ個人で解いてくれた言葉は忘れない。
先生は文学青年でおとなしいあまり喜怒表現の薄い人に見えたが、とても忍耐強い人でもあった。クラス四十二・三人づつ朝日小学校学年男女別々で一クラスづつだった。
クラスメートの中には今作家として活躍しているSさんもいた。私と反対に彼女は健康優良児で幼い時から文学には進んでいたし担任を追い込んでいた。くいしばってがんばる人間は性格であったが、終戦後彼女はあらゆる生活の中で、そのがんばりが体をこわしてしまったのではないだろうか。心臓の二度の手術にむちうってがんばっている彼女の今の姿に、自分の事の様に嬉しくもあり心配でもある。
一緒に吉林高女へ進学した頃は大東亜戦争もたけなわ、南の島々へ日本軍は進んでいた。
ラジオの報道「敵の戦艦の撃沈、我が方の損害少なり」がとても気になり毎日耳を傾ける不安な世であった。
女と云えども銃を持てと教練の時間もあった。中学生は今考えて見れば一人一人敵は素手で攻めてくるはずないのに、藁で作った人形を一突きづつ、大声かけてさしころす練習ばかりであった。
二年三年と進学、軍需工場へ動員、開拓団では農業を手伝った。学校は運動場をつぶし畑をつくり、松花江の江岸へスコップかついで土を掘り起こしヒマやそばを作ったのがどう製造流れたのか、お国のためお国のためで飛行機のガソリンになるのだと、ヒマは多くまた張り切って作った。
十五歳の学生時代は髪は両方に分けくくり、ちぢれた髪やうすい人は苦労した。セーラー服はイギリス服と廃止され国民服となった。国防色といってベージュの濃いいやな色で、ズボンのズダ袋の様な姿の女学生であった。
軍歌軍歌の中にも音楽の先生は、クラシック行進曲(マーチ)を毎朝の朝礼集まりに私たちに聴かせてくれたので、今聞くとベートーベン・シューベルトの曲かわからなくとも、音楽リズムだけは身体の中になつかしく思い出す事が出来る。英語もだめで、あの時英語を教えておいてくれてたらこんな苦労は今ないだろう。横文字をみるとまるでめくらと同じでわからない。
戦争も敗戦になり始めた時はもう何もかも統制され、食料も着るものも日本人でさえ配給配給で並ぶこともあった。
満人には配給などあるはずなかった。学校へ行く途中、よく行き倒れというか冬は道べたに死んで凍った満人をよく見た。飢えて死んだのか寒さで死んだのか、今の中国では華麗な姿も見かけないが、その様なみじめな飢えもないという事だ。
男という男二十歳前後は勿論招集された。十五歳の男子から予科練生として、勉強をたち切って戦場へとかり出され始め、あれが教育されて特攻隊として一人一たま体あたりの教育があった。
我が家は兄は目が悪く徴兵乙となり甲種合格から落ちた。男に生まれ年頃の男の子として、こんなみじめな思いはなかったそうだ。二十一歳の徴兵検査の三ヶ月は明るく楽しく父や母に話していた顔、甘党数人で外出した時お汁粉やに入り、七杯八杯食べたとあの時の親子満足そのもの。親は目の悪い兄を心身ともに身に付けさせようと柔道を習わせ、青年学校で初段になったりした賞を部屋の上に額を並べていた。
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