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2008/05/21

ある満州引き揚げ者の手記(一)奉天

昭和九年、一家五人田舎の駅で(佐賀県藤津郡)親戚知人何人かの見送りを受けて、満州国奉天市へと日本をはなれた。四歳の私と兄二人を連れて両親はどんな夢を見ていたのだろう。今では大陸への侵略であったと言うが、当時は開拓進出と日本人が支配しなくては前進のない中国として支那へ支那へと送り込んだ。日本人は満人は下等な人間として見て扱ったことは、子供の私でも身をもって感じている。父は先に渡満していた奉天駅前果物店をだしている兄になる伯父を頼って居候した。

近所に住む久山さんという金物屋さんの協力で色々な夜店やまつりの有る所をめぐって色々売り、リヤカーで店を出しに行っていた。長男は中学生で友達に会うのがいやだと言いながら、夜は一生懸命親に手伝って車を引っぱったり押したりしていたのをおぼえている。次男と私は留守番が多かったが、時々夜は車の商品の下に入れられて夜店へ出ていた。ネオンのはなやかな春日通りや奉天神社の境内の様子、短い期間では有ったが強く記憶に残っている。
あの神社なども日本人が入って中国人を使って作り上げたものであったろう。仏教しかない又、それぞれの土地の伝説だけしかない満州に神の国が入って押しつけ、神様をつくり軍隊もまた教育も神であった。天皇は神の子孫であり神の国日本と神のためには死とたたえ、服従教育と云うかこの頃の日本政治の動きは昭和十二年二・二六事件などで想像する。

支那事変勃発の時妹が生まれた。私たちの一番大切な成長期は戦争で始まっている。戦争の勝ち進む事など見てはいなくても、父はその頃満鉄に入社していて、軍隊が進んでいく中国(支那)の方へ後ろに線路を引いていく慰安列車に乗っていた。残酷な日本軍が中国人家を焼き払った後や、分別なき虐殺などのあった後を行ったのかと思うと目をつぶりたくなる現在である。南京陥落など次々と勝ち進む度に、チョウチン行列でおまつりがあった。
父も十二年の暮には奉天満鉄社宅へ帰り本社へ勤めていた。そろそろ佐賀の田舎からも人が渡満してきて佐賀県人会などが出来て、なつかしく寄り合って会食するのが楽しみな母の顔も思い出す。

白菊町と云って、満鉄が土地を買い取って建てたのかとり上げて建てたのか、日本人街に作られた奉天市は広かった。満人たちはその頃、外へ外へと押し出され長屋バラックに貧しく暮す人々ばかりであった。日本人の満人への扱いは人によって違うであろうが、人間扱いではなかった事はたしかだろう。盗人が多かった。満鉄社宅へもよくどろぼうが入った。盗人市場(ショウトル)と言って城外の方で露店があり、そこに行けば盗まれた片方の靴まで売っていたと言う様なありさまであった。品物が安いのでみんな盗られたものをさがし買いに行くのだ。

一度父たちについて行き迷子になったのを経験している。迷子になるとさらわれて殺されるとよく話を聞いていたので、親戚の男の子が大声で泣くのを引っぱって、大声をあげて父をよぶのもこわくて、九才の小さな頭でどうしていいか必死で考えた事も強く残っている。
日本人が一人になると殺されるという恐怖が吹聴されていたが、それも日本人自身だったかもしれない。あまりにも日本軍のやる事がひどいので反日運動があちこちで起こっていたのだろう。
私は奉天葵小学校へ進学、我が家の幸せは3DKの門のある社宅に住んでいたこの頃が、絶頂の時ではなかったろうか。妹の出生は祝福につつまれベビー服やお人形にうまり、母は一番幸せな時ではなかったろうか。

父は世話好きで良く人を家につれてきて下宿させたり入社させたり、何時も誰か家族のほかに他人が一人か二人いた。
ただ今でも生きていてくれればと思う石田という学生がいた。父を満鉄に入社させてくれた人の甥御さんを預かったのだ。その人は北海道の人で父親は肺病で倒れ、母親は病の夫と子どもを残して出て行き祖母に育てられた。そのお祖母さんが亡くなり父親も亡くなり、叔父さんが引き取って満州へ来ていたのだが、その叔父さんが北支の方へ転勤となった。学校がもうすぐ卒業、高等二年(十四歳)というのにつれていかれなかったのか「叔母さんは自分の子供三人は連れて行ったのに、やっぱり自分は迷惑だったのだ」と言っていたのを私の両親は涙を流して聞いていた。母は一緒にお弁当を作り父・兄・私・その子四・五人分のお弁当を丸いお膳の上に並べて、朝は忙しく作っていた風景も一つの思い出である。

卒業してその子は軍属へ就職した。頭が良く私の家庭教師の様に勉強も教えてくれた。試験で九十点以上を取れば講談社の本を買ってくれた。よく読む時で、一冊一冊深く本の内容や絵を思い出す。
転勤となり我が家を出て行く事になった。「自分の家だと思って何時でも帰って来るんだぞ」と言う父や母に、両手をついて「御恩は一生忘れません」と挨拶したあの十五・六歳の男の子、今想像してもその時私には大人に見えていた。「今度来る時は長い剣をさして来ます」と休暇間に遊びに来た時は、父を喜ばせた言葉だった。その後父が面会に行っても会えず行方不明となった。軍属といっても内容は私にはわからなかった。

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