児童買春の「深層」
私が生まれて8才まで育ったのは東京中野の新井薬師の近くで、当時まだあの辺りには花柳界というのが存在していた。小学校1,2年で一番親しかった同級生の家に遊びに行って驚いた。お化粧をしてきれいな着物を着ている若い女がズラリと部屋に座っていたのだ。彼の家は芸者置屋をやっていたのである。ああして女性に囲まれて暮している友人の姿は、子どもの私でさえチョッピリ羨ましかったものだ。
そんな子どもの頃の情景を思い出せる文章にぶつかった。雑誌「図書」6月号の掲載されている、作家・色川大吉の「フー老のヰタ・セクスアリス」である。
時代は戦前の満州事変から日中戦争に至る間の時期。著者の祖父というのが大変な道楽者で、芸者置屋の主であり、「検番(見番)」の社長をしていた。家が近かったもので著者は学校帰りなどの、ちょくちょく置屋や検番寄っていた。私同様に、男の子にとって若い女性が沢山いる所というのは、興味津々なのだ。
置屋には芸者以外に半玉といわれる見習いの少女たちがいた。地方から売られてきた子たちである。そうした少女たちが13、14才になると「水揚げ」されてと聞いて、著者は衝撃を受ける。「水揚げ」の意味が分からず兄に訊くと、「ほら、魚屋で見たろ。生きている魚を水から揚げて、まな板の上で包丁を入れるアレさ。カヨ(少女の名前)もそうされたのさ。」と教えられる。
お座敷の出る前に、一本になるご祝儀だといって特別の水揚げ料金を取って、売春を強いたのだ。その客たちというのは、町会議員や医者だったと著者は記している。
泣く泣く「水揚げ」を強いられた少女は歩くのも困難になり、2,3日は這って便所に行っていたという。
少年だった著者はそれを聞いて、客になった男達を嫌悪し、祖父もいっぺんに嫌いになる。このことがきっかけになって、彼は祖父の家に寄り付かなくなる。
戦前に13、14才というのは数えだから、今でいえば12、13才ということになり、小学6年生から中学1年位の幼い少女たちである。こういう少女たちが「水揚げ」という名の下に客に提供され、名士や金持ちの男らが法外な金を払って買春をしていたわけだ。
この風習は恐らく、1958年に売春防止法が施行されるまで公然と続けられていたのだろう。
こうした記録を見ていくと、外国ではこの様な風習があったかどうか分からないが、少なくとも日本の男性の一部に、少女買春への根強い要求があったのは確かだ。
ネットのニュースなどで、毎日のように児童買春事件が報じられ、いい歳をした社会的地位も名誉もあるような立場の人間が捕まっている。
大きなリスクを負うことが分かっているのに、少女買春が止められないという背景は、この「強い欲求」にあるのだろう。
法律だけでは人間の欲望というのは、なかなか制御しづらい。児童買春を根絶する取り組みの難しさは、この辺りにある。
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