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2008/08/20

松尾和子さんのこと

Matsuo_kazuko_3松尾和子が亡くなって間もなく満16年が経とうとしている。時々TVの歌番組などで彼女の映像が流されるし、ヒット曲の一つ「東京ナイト・クラブ」は今でもカラオケデュエット曲の定番だ。「再会」が好きで、持ち歌にしている人も多いだろう。未だに根強い人気に支えられている。
松尾和子が無名のクラブ歌手だった時期からレコードデビューするまで、家が隣同士だった関係で、彼女には特別の感慨がある。

松尾家は祖母と母親と和子本人という女系家族だった。彼女の年譜には東京・蒲田生まれ箱根育ちとあるが、和子の母から聞いた話では、終戦は満州で迎え、日本へ引揚げてきたということであった。
一家が、中野にあった我が家の隣に越してきたのは、1957年頃だった。
父親は戦死したようで、自宅の仏間には軍服を着た(将校だったように記憶している)遺影が飾られていた。
生活に困っていた一家は、たまたま和子がジャズが好きだったということもあって、中学を出ると直ぐにジャズ歌手となり、進駐軍やクラブまわりをしていたようだ。15歳の少女が、一家の家計を支えていたわけだ。

松尾和子が20歳を過ぎた年齢の時、私は中学生で、そりゃ隣に綺麗なお姉さんが越した来たのだから、胸がトキメクのも無理は無い。
彼女は深夜の仕事なので、普段はメッタに顔を合わせることはないが、休日はしばしば姿を見かけた。
その頃の彼女は華奢で、美人で、色が抜けるように白く、当時珍しかった短パン姿を見かけると、クラクラっとしたものだ。性格は気さくでサッパリとしており、会うとニコニコしながら私の名前をチャン付けで呼んでくれた。少年だった私は、それだけでもう舞い上がってしまった。
後年、TV番組などで悪女のようなイメージで売られていたが、その当時の姿からは想像もつかない。

松尾和子はやがて実力が認められ、赤坂のクラブ・リキ(力道山が経営していた)の専属歌手となったということは、母親から聞いた。当時のクラブ・リキには多くの芸能人が集まっていたようで、母親から常連だった石原裕次郎などスターの裏話を聞かされた。少年としては、こういう話題は興味津々なのだ。早速学校に行くと、「本当はこうなんだぜ」とか言いながら、級友に自慢していたことを覚えている。

彼女の伴奏をしていた楽団のバンドマスターが大野という人で、二人は結婚し、自宅を建て増しして彼女の家族と同居するようになる。
私の幼少期に、東京・中野で両親が喫茶店を経営していた。戦後間もないころだったせいか、客の大半はヤクザかミュージシャン(当時はバンドボーイと呼んでいた)だった。上から下まで白ずくめの格好で、全員が店でヒロポンを打っていた。だから私の中のミュージシャンというのは、ヤクザと同類だった。
ところが大野という人は全く印象が異なり、真面目で誠実な性格だったと記憶している。近所の評判も良く、「和チャンさんは良い人と結婚したね」と祝福されていた。

松尾和子の周辺が慌しくなったのは、1958年ごろだったと思う。先ず帰宅時間が、深夜だったのが時に早朝近くになり、既に結婚していた和子の実姉が家の手伝いに通って来るようになった。
クラブ・リキに来店していたフランク永井に認められスカウトされて、ビクターレコードに入社したと知らされた。
早速地元商店街が中心となって後援会が結成されるなど、周囲も慌しくなっていく。
ただ当時の新進女性歌手が全てそうであったように、既婚と言う事実は隠され、世間には独身ということで通すことになる。

そしてレコードデビューが決まり、1959年「グッド・ナイト/東京ナイト・クラブ」が発売される。何しろ作曲が吉田正、「グッド・ナイト」は和田弘とマヒナスターズ、「東京ナイト・クラブ」はフランク永井との共演というのだから、当時のビクターがいかに松尾和子の売り出しに力を入れていたか分かる。
哀愁を帯びた甘いハスキーボイスという彼女の歌唱は、従来の日本人歌手にはないもので、翌年には「誰よりも君を愛す」でレコード大賞を獲得する。

レコードデビューして間もなく、私の隣にあった家は姉一家に譲り、松尾和子夫妻と母、祖母の4人は大きな家を買い、引っ越して行く。しばらくすると、夫妻だけで更に別の家に移ったと聞いて、流行歌手になるとすごいお金が入るもんだなと感心した記憶がある。
転居してからは、隣に住むことになった彼女の実姉を通して、たまに噂を聞く程度となり、以後の消息は新聞やTV、週刊誌などで知るところとなる。

ヒットが途絶えた後の松尾和子は、主にバラエティ番組などに出演したり、TVドラマや映画に出たりしていたが、1966年の離婚に続き、1991年には長男が覚せい剤法違反で実刑判決を受けるなど、個人的に不幸が重なる。同時に芸能界からも姿を消すことになり、1992年に自宅の2階階段から転落し死亡した。享年57歳であった。
仮定の話をしても致し方ないが、もし松尾和子がレコードデビューなどせず、クラブ歌手のままでいたら、もっと幸せな人生を送れたのではないだろうかと、思うことがある。

歌手としての松尾和子だが、主なヒット曲はデビューとその翌年に集中し、しかも「再会」を除くと、フランク永井やマヒナスターズとの共唱である。そういう意味では、大歌手になれずに終わったといえる。
ちょうど、ビクターレコードのムード歌謡路線が終焉する時期とも重なっていた。

多くの視聴者にとり松尾和子の姿は、TV録画で見る「熟女」のイメージであろうが、私の脳裏には若い頃の、あの輝けんばかりの美しい彼女の姿が、いつまでも脳裏に焼きついている。
(文中敬称略)

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コメント

8月17日の中国と20日のパキスタンの記事はいつものhome-9さんと違い、オヤッと思いましたが、この松尾和子さんのは如何にもっていう感じですね。
隣に住んでたとあれば、ネットで拾ったいい加減な情報ではなく確実性がありますからね。

この松尾和子さんとデュエットしていたフランク永井さんの自宅近くで仕事をしたことがあります。
例の首吊り事件も世間から忘れ去られようとしていた頃ですが、古くはなっているものの洒落た邸宅はシンとしてました。
好きな歌手だっただけに、この事件がなければどんな歌を歌っていたのだろうかと、残念でなりません。

また、ピーターこと池端新之助さんの実家も直接仕事をしました。
当人は既に湯河原だかに住み、両親しかいませんでしたが、さすがに芸人です。
地唄舞だかのお師匠さんの父上は腰の低い方でした。
母上はわりとにぎやかな方で、私ども出入りの職人に気遣う女性でした。
今じゃ、出入り業者にお茶も出さない礼儀を弁えない者が多いんですが、さすがに稽古事を生業にしてる人というのは違うものだと感心させられたものです。

こうした芸人の方たちも過去になりつつあり、私ども昭和に生きてきた人間がどんどん隅に追いやられてるような気がしてなりません。
昭和は遠くになりけり、と実感してる次第です。

dorunkon様
コメント有難うございます。
ブログをはじめて3年半、チョット飽きてきましたので、たまには目先を変えて見ようかという趣向です。
松尾和子さんについては、ごく最近でも雑誌の記事で採り上げられていて、ご本人の事を多少知っている者として、前から一度書いておきたかった記事です。
家族もご主人だった人も、皆良い人に囲まれていたにも拘らず、なぜあのような悲劇的結末を迎えてしまったのか、何かとても哀れな気持ちになります。

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