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2008/09/15

「甘粕正彦」に見るリーダーの責任の取り方

Amakasu甘粕正彦といえば、大正時代に起きたいわゆる「甘粕事件」を思い起こす人が多いと思う。現代史に必ず登場する事件である。
少し詳しい人なら彼が後に中国に渡り、満州事変で謀略工作を行うなど、満州建国の陰の立役者になったことを知っているだろう。

先ず「甘粕事件」とは一体どんな事件だったか。私が教科書で習ったころに比べ、新たな証拠や関係者の証言により、新しい事実も判明しているので、簡単に振り返ってみたい。
1923年9月1日の関東大震災の被害と混乱の真っ最中の16日、陸軍の麹町憲兵分隊長だった甘粕正隊大尉らが、アナキスト大杉栄とその愛人伊藤野枝(妻と書かれている文献もあるが誤り)、大杉の甥・橘宗一(6歳)を連行し、その日のうちに3名とも殺害された。遺体は畳表で巻かれ、井戸に投げ捨てられた。
陸軍としては闇から闇へ葬るつもりだったのだろうが、殺された橘宗一少年が米国の市民権を持っていたため、米国大使館の抗議を受けて事件が発覚してしまった。今も昔も外圧に弱いのが我が国政府の常である。

関東大震災を巡っては、他にも多数の朝鮮人や左翼の人たちが虐殺されるのだが、この事件だけは6歳の子どもが殺されたとあって、がぜん世間から非難の的となる。
この事件で甘粕大尉は大杉と伊藤二人を殺害し、宗一少年の殺害を命じた罪で、軍法会議において懲役10年の罪に処せられた。

しかしその後に発見された死因鑑定書によれば、甘粕の裁判での証言とは大きく食い違っており、また3名を殺害した実行犯に対して、甘粕が指揮命令できる立場でなかったことが明らかになった。
陸軍上層部の意向によって、甘粕一人が全ての罪を負ったというのが真相らしい。ではなぜ彼は一人で罪を被ったのだろうか。それは甘粕が、当時の国や軍の体制に従わざるを得なかったとものと推測される。
そのためか懲役10年どころか僅か3年で釈放され、その後渡仏して2年間フランスで生活するのである。勿論、資金は陸軍から支給された。テイの良い口止めだ。
以上が「甘粕事件」の概要とその結末である。

甘粕は1927年満州に渡り、翌年の満州事変で謀略工作に参加。満州国建国の際、陰の立て役者の一人と目されるようになる。満州建国後は、初代民生部警務司長、満州協和会総務部長、大東協会会長を歴任。満州の昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配したと言われるほど、満州の闇の世界に君臨する。
1939年には、経営が傾いていた国策会社、満州映画協会(満映)の理事長に就任して経営を立て直し、終戦を迎える。
この間のいきさつは、最近出版された佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」に詳しい。

ここまでが前書きで、私がこのエントリーで書きたかったことはこのあとの、終戦直後の甘粕の最期の姿だ。1945年8月20日、甘粕は満映の理事長室で青酸カリをあおって自決する。
やや長くなるが、その時の甘粕の言動を同書より引用し、紹介したい。
敗戦が決まった翌日、甘粕は全従業員を講堂に集め、次のように挨拶する。
「私は元軍人でしたから武士らしく切腹すべきですが、不忠不尽の者ですから日本刀で死ぬには値しないのです。別の方法で死ぬことにしました。人間は弱いものですから死ぬ決心をしても、なかなか死ねませんが、ここで申し上げた以上必ず死にます。
今後、この会社が中国共産党のものになるにせよ、国民党のものになるにせよ、これまでここで働いていた中国人社員が中心となるべきです。そのためにも機材を大切に保管してください。皆さんのなかには前途春秋に富む方が大勢います。永く祖国のために働いていただきたい。今日まで皆さんにお世話になったことを深く厚く御礼申し上げます。」

甘粕は従業員全員に退職金が渡るように、満州興業銀行から預金600万円を引き出す手続きをとる。
関東軍と交渉して、社員とその家族が新京から脱出するための列車を確保した。
「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」。甘粕が理事長室の黒板に書いた戯れ歌であり、辞世の句でもあった。言うまでもなく、満州建国とその失敗を指している。

甘粕は自死にあたって数通の遺書を書いている。うち1通は宛名が無かった。
【理事長としての任略終われるを感じ自ら去る。民族の再起に努力せざるの卑怯を慙づるも感情の死を延すを許さざるものありて決す、然れども極めて冷静なりき、不忠不尽の者日本刀にちぬるを愧ぢ自らをやく】

経理部長に宛てた遺書は、生前全職員の退職金を銀行から引き出すのに、銀行側が渋っていたことから、こう書かれていた。
【二百万円貸してください。貸さないと化けて出ます】
経理部長に、この遺書を持って銀行総裁と掛け合うように指示している。ユーモアの中に、残されて従業員の生活を思いやる心情がこめられている。

そして最後の遺書は、青酸カリをあおってから絶命寸前に書かれたもので、走り書きでこう書かれていた。
【みなんしつかりやつてくれ 左様なら】

甘粕の陸士同期に澄田睞四郎中将がいる。澄田は終戦後も部下に武装解除命令を出さず、国民党と密約してその後3年半もの間共産党軍と戦わせ、おびただしい戦死者を出した。澄田は部下を戦場に棄民したたまま自分だけ帰国し、89歳の大往生を遂げている。
満州参スケとして満州支配に辣腕をふるった岸信介は、戦後A級戦犯として逮捕されるが、米国に取り入って起訴を免れ、その後総理になったのはご存知の通り。
その澄田睞四郎の長男・智は日銀総裁になり、岸信介の孫・安倍晋三は首相についた。
要領良く立ち回った者やそのDNAを受け継ぐ者が、戦後の日本を支配していく。

甘粕正彦の行動について決して賞賛できないし、私はむしろ批判的だ。しかし自らの責任を放り出すがごとき為政者が続く昨今、指導者の責任の取り方については考えさせられる。
一方、「悪い奴ほどよく眠る」という現実が我が国に存在するのは事実である。

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