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2008/10/31

立川談春「源氏物語・柏木」他@博品館劇場

Danshun5「源氏物語」が生まれて今年で1000年を迎え、現在千年紀にちなむイベントが行われていますが、そのひとつとして落語版「源氏物語」が制作され、博品館劇場で上演されています。
源氏と落語、およそ水と油であり、どう料理するのか興味をそそられました。
10月30日より日替わりで5人の落語家が高座をつとめるのですが、その皮切りとして30日は立川談春が「柏木」を演じました。この日と31日の喬太郎(本人の自作)の両方リクエストしていたのですが、談春の昼の部だけゲットできたというわけです。

立川談春「柏木」
「源氏物語」第二部のうち「若菜 上・下」と「柏木」を下敷きに、本田久作が脚色したものです。
談春はマクラで小朝と泰葉騒動に触れ、泰葉の言動は怨念の表出であり、まるで「六条御息所」だ。そう考えると落語と源氏も縁があると解説。だけど、あんな女を女房に選んだ小朝に見る目がなかったとは言わないとのこと。

原作の方は、39歳の光源氏に女三の宮が降嫁するが、あまりの幼さに源氏はがっかりします。その一方中納言の柏木は、その女三の宮に猛烈に思いを寄せ、源氏の留守に忍び込み関係を結んでしまいます。女三の宮は懐妊しますが、源氏は自分の子かどうか疑いを持ちます。ある日女三の宮から柏木に宛てた文を見てしまい、二人の関係が源氏にばれてしまいます。

落語のストーリーは、平安朝→江戸時代、宮中→太棹三味線の家元世界と、舞台を落語向けに翻案しました。
検校で家元の源氏、紫の上が元吉原の花魁で今は源氏の妾・紫という女がいながら、源氏は伝説の三味線弾きの娘・三の宮を嫁にします。源氏は弟子の中で柏木の芸を認め、予てより自分の跡取りにしようと心に決めていましたが、その柏木と三の宮が不義密通し懐妊してしまいます。そのことに気付いた源氏は・・・。

源氏物語を落語の世界にそっくり入れたという筋立てで、談春はとても良くできた台本だと誉めていましたが、どうでしょうか。台本は相当に苦労したのでしょうが、芸人の家で御簾越しに言葉を交わすなどの設定は、やはり無理がありました。
人情噺仕立てでしたが、内容がやや陰々滅々としていて、もう少し手を入れないと落語の演目としては不適だと感じました。
それでも、それなりに聴かせたのは、談春の芸の力です。

立川談春「厩火事」
もう一席は、古典落語で明るいネタを選んだとのこと。マクラで12/25の大阪フェスティバルホールでの初の独演会をPRして本題へ。
「厩火事」は名人・八代目文楽が十八番にしていたネタで、以後の落語家は全て文楽の形を継承して演じています。
談春の演出は文楽のオリジナルにかなり手を入れていました。

オリジナルでは仲人が八五郎の家を訪れるのが昼間になっていたが、談春はこれを夕暮れにしました。女房の帰りを待ちきれなくて、先に刺身を肴に酒を呑んでいたという設定。こちらの方が、女房のおさきが亭主をかばうのに説得力があります。

一番大きな違いは、おさきが年上なので、自分が年をとった頃に亭主が若い女と浮気をするのが心配だという場面です。談春の演出は、仲人に、八五郎のような稼ぎも金も地位も無い人間が、若い女にもてるわけが無いと指摘させます。
これにおさきは反論します。ああいう男ほど、女の母性愛本能をくすぐり、却って女にもてるのだ。自分が一緒になっているのが、その何よりの証明だと主張します。
亭主をけなされるのは、おさきにとってアイデンティティを否定されるも同然なのです。
このヤリトリが、このネタに深みを与えました。

今の談春、本人が認めているように絶好調です。

2008/10/29

【寄席な人々】弾き出されるオールドファン

柳家権太楼のCDで1999年のライブ録音のものがあり、そのマクラで寄席の客が年寄りばかりで若い人はさっぱり来ないと嘆いていた。
確かに10年ほど前まではその通りだった。若い客が少なく、このままだと寄席の将来はどうなっていくのかと、ひそかに心配していた。
古今亭志ん朝ファンだったので、土日に東京周辺で行われる志ん朝の独演会は出来るかぎり出向いた。当時はサラリーマン現役だったので、いつも発売日から数日経ってから手配していたが、それでもチケットが取れないということは先ず無かった。
志ん朝以外の落語家なら当日に入れたし、前売り完売などというのは、談志の独演会ぐらいなものだった。
振り返れば、幸せな時代だったといえる。

ファン層の変化を感じ始めたのは、2000年の喬太郎とたい平の真打同時昇進の頃からだ。鈴本演芸場の披露公演では前列の2列が若い女性ファンで占められていて、驚いた。
その後、民放TVの連ドラや、NHKテレビ小説などで落語家を主人公にしたドラマが話題となり、今日の落語ブーム、寄席ブームといわれる隆盛に至ったというわけだ。
落語好きな人が増える、寄席に行っても沢山の人、特に若い人(と言っても30~40代位)が来場するようになったということは、古くからの落語ファンにとっても嬉しいことだ。このまま衰退していくのではと心配していたのが嘘のようだ。

しかし落語人気の高まりは、入場チケットの入手に大きな変化をもたらした。私が利用している劇場でもここ数年変化が起きた。
①国立演芸場では通常興行も全席指定となり、全ての番組で前月より前売りが行われるようになった。また名人会や花形演芸会ではインターネットと電話予約が優先され、完売した時は劇場窓口での前売りが無くなった。全ての番組はプレイガイドで購入できる。
②横浜にぎわい座では志の輔の独演会のみプレイガイドだけの前売りとなった。つまり直接劇場に出向いても前売りは購入できない。11月は喬太郎勉強会もプレイガイドのみの前売りとなった。この分では談春の独演会が同じ扱いになるのは、時間の問題だろう。
③鈴本演芸場の特別興行の前売りでは、以前は劇場窓口とプレイガイドの二本立てだったが、今年からは全席プレイガイドのみの扱いとなった。
要するに、人気のある番組は前売りを買うしかなく、それも多くは大手プレイガイドで購入するしか選択肢が無くなってきている。

プレイガイドを利用された方はご存知のとおり、人気の番組になると発売日の午前10時に電話をするとなかなか繋がらない。リダイヤルボタンを押し続け、30分後位にようやく繋がると完売ということになる。
インターネットではこのブログでも再三書いている通り、接続が10秒20秒遅れただけで既に完売ということも珍しくない。にぎわい座の志の輔の独演会だと、時報と共に接続しても既に完売となっていたりして、一体どういうことだと嘆くしかない。
つまり秒速で売り切れてしまうわけで、これでは購入できる人は限られてしまう。
年配者の中にはインターネットでの購入など不得手の方も多いと思われ、そういう人々は次第に寄席や落語会から弾き出されてしまう。
近ごろは人気番組ともなると、若い人たちが多数を占めていて、年寄りは少数派になることもある。

費用の問題もある。
プレイガイドで購入すると、通常の入場料の他に、次のような費用が発生する。
・システム利用料: 210円/枚 
・店頭引取利用料: 105円/枚
(自宅に送って貰う場合は、配送+システム利用料:600円/件)
この他に、人気の番組では先行抽選販売「プレリザーブ」という制度があり、前売り発売日前に申し込み、抽選であたると前売りが買えるという仕組みだ。この場合、次の費用が別途かかる。
・特別販売利用料: 240円/枚
寄席の入場料は通常2000~3000円程度なので、これらの加算は利用者にとっては負担である。

こうなるとオールドファンにとっては、若い人が増えて、寄席ファンが増えて、良かった良かったと単純に喜んでばかりいられない。
グループでチケットを購入したり、座席を確保したりする人が増えたのも、こうした傾向に拍車をかけているようだ。
ルールに従って入場券を買い、観に来ているわけだから何ら文句のつけようが無いのだが、オールドファンの一人としては、何かシックリこない気持ちを抱いているのも事実である。
お互いがハッピーになるような、上手い手立てが無いものだろうか。
ないでしょうねえ。

2008/10/28

「石原銀行」不正融資は組織犯罪

都民の財産1400億円を食いものにした石原銀行こと新銀行東京の乱脈経営と不正融資については、当ブログでも再三にわたり採りあげてきたが、今回ようやく司直の手が入った。
10月27日警視庁は、新銀行東京の元行員・青木千代美容疑者と、大阪市中央区のコンピューターソフトウエア販売会社「アシストプラン」会長で元暴力団組員大丸正志容疑者、東京都中野区の給排水設備工事業「リフレックス」諸隈寛容疑者ら計7人を逮捕した。

手口は下図の通りで極めて単純なもので、営業実態の無かった「リフレックス」社に5000万円が融資され、そのうち約1750万円が暴力団員の大丸正志容疑者へ、2700万円が大丸容疑者が経営する「アシストプラン」社へ、残りは関係したブローカーやら、融資した行員らが山分けしたという構図だ。
Photo
(asahi.comより)

勿論、こんなことは氷山の一角で、こうした例は数え切れないほどあるのだろう。今回逮捕されて新銀行東京の元行員は社内でもやり手だったそうで、次々と大口融資を獲得して「救世主」として持ち上げられていた。
石原銀行は、石原慎太郎知事の息のかかった取り巻き、いわゆる石原ファミリーだの、都議会の与党議員や都選出の国会議員やその関係者だのが、寄って集ってお手盛りの融資を受けたり紹介したりして、資金を食いつぶしてきた。青木容疑者らはそのコマの一つに過ぎなかった。
つまり不正融資は、組織犯罪だったということだ。
問われるべきは石原知事を始めとする都の幹部や議員連中の責任である。

今回の事件について石原慎太郎知事は、「今回の事件については銀行は捜査当局に協力し、厳正に対処すべきだ。銀行業務でこのようなことが起きたことは許されない。元行員の個人的行為ということで、銀行は被害者でもあるが、こうした事態を招いた旧経営陣の責任は重い」とのコメントを出した。
この期に及んで未だに他人事のような発言を繰り返している石原慎太郎という人間は、一体どういう精神構造をしているのだろう。

このままでは、甘い汁を吸った人間の逃げ得になりかねない。
新銀行東京の不正融資については、末端行員のシッポ切りに終わらせることなく、事件の全容解明と石原知事を含めた経営責任に追求の手が及ぶよう、捜査当局に期待したい。

2008/10/27

「非公式ブログ」

よく使われる言葉だが、深く考えると意味が分からない用語がある。近ごろ目にする「公式ブログ」もその一つだ。「公式」と断る以上は「非公式」もあるだろうし、世の中のブログはこの二つに分類されるのだろうか。それなら当方のブログは一体どちらに所属するのか、いささか気になって「公式ブログ」という言葉の定義を捜してみたが、これがどこにも載っていない。

それなら先ずは「公式」とはどういう意味なのか、辞書を調べてみたら、次のように定義されていた。
(1)おおやけに決められている方式や形式。またそれにのっとって物事を行うこと。
⇔非公式
「―の報告書」「―に認める」「―的な見解」
(2)計算の方法や法則を示すために文字を用いて表した式。
(大辞林)

公に定められた方式で作られているブログなど存在しないだろうから、これは違う。
そこで英語ではどうなっているかと、和英辞典を見てみると、次のようだった。
《数学の》a formula; 《儀式》formality.
・~の[に] formal [formally]; official [officially].
(EXCEED 和英辞典)

この中の「official」が語感が近いと思い、今度は英和辞典で日本語を調べた。結果は次の通り。
━ a. 職務[公務]上の; 公[政府]の; 公式[公認]の; お役所風の.
━ n. 公務員, 役人; 職員; (会社などの)役職者; 【スポーツ】審判員.
(EXCEED 英和辞典)

この「公」「公認」のであれば、意味が通じてきた気がする。そうか「公式ブログ」は「公認ブログ」の意味なのかと少し納得した。
それなら官公庁や団体、法人などでは成り立つとしても、個人が運営しているブログをどこが「公認」するのだろうかという疑問が残る。

そこでよく似た用語に「公式サイト」というのがあるのを思い出し、こちらは「IT用語辞典」(e-words)で調べてきたところ、次のように定義されていた。
<企業や有名人が自ら公開しているWebサイト。有名人の場合は、ある特定のファンが運営するサイトに「お墨付き」を与え、そこをオフィシャルサイトとする例(公認サイト)もある。>
どうやら「公式ブログ」というのは、「公式サイト」から派生した用語のようだということが分かった。

つまり「公式ブログ」というのは、企業や有名人が自身で公開するか、または第三者が公開したものを自らお墨付きを与えたブログだけに限られるのだ。「公式」だの「公認」というよりは、本当は「自認ブログ」とした方が正確なのだ。
もう一つ、「有名人」という言葉も辞書にはない。
では「有名」はどう定義されているだろうか。
(1)広く知られていること。名高いこと。また、そのさま。
⇔無名
「―作家」「―な人物」「庭園で―な寺」
(2)名を有すること。
(大辞林)

だいぶ以前のことになるが、ある小学校で児童に「将来何になりたいか」と問うたら、「有名人」というのが最も多かったという記事を読んだことがある。
いま日本で一番有名なのは、もしかしたら「三浦和義」かも知れない。子どもたちが皆「三浦和義」を目標にするようなら、これは大いに考え物である。

いろいろ回り道をしたが、結論としては当ブログは無名の人物が運営しているので、「公式ブログ」には成り得ないということが判明したわけだ。とりあえず「非公式ブログ」とでも呼んでおこう。
あなたは「公式ブログ」? それとも「非公式ブログ」?

2008/10/26

前進座「解脱衣楓累」千秋楽

Kunitaro10月25日は浅草公会堂での前進座「解脱衣楓累」(げだつのきぬもみじがさね)を観劇。この演目は「東海道四谷怪談」などで知られる鶴屋南北の幻の未上演台本で、前進座が実に172年ぶりに1984年初演したもので、怪談話。
本来は文化九年(1812)に、江戸・市村座で幕を開ける予定だったちょうですが、主役を演じる役者が急病となり、その後亡くなるという因縁じみた逸話が残されている。
オリジナルは8時間ちかいものだったようですが、初演の台本(小池章太郎)でおよそ3時間の芝居に仕立て直した。今回が3度目の上演となる。

主な配役は次の通り。
空月=嵐圭史
お吉/累(二役)=河原崎國太郎
与右衛門=藤川矢之輔
金谷金五郎=瀬川菊之丞
羽生屋助七=嵐広也
丸藤の磯兵衛=津田恵一
小夜風=山崎辰三郎
庄屋作郎左衛門=姉川新之輔
定使い長太=松涛喜八郎
若党甲斐次=中嶋宏幸
おとら=亀井栄克
やたら勘次=渡会元之
小三=生島喜五郎

ストーリーは、
かつては武家であった僧・空月はお吉と情を交わし懐胎させてしまう。別れを決意し旅立つ空月の後を追ってきたお吉、短刀で自害を図るが止めようとした空月が誤ってお吉を刺してしまう。 お吉の生首と短刀を持って江戸の出てきた空月は、お吉そっくりの累(かさね、実はお吉の妹)に出会い、言い寄る。
ここから登場人物がそれぞれ兄弟姉妹、かつての上役や恩人など因縁の糸で結ばれていて、正にあざなえる縄のごとし。
最後は凄惨な殺し合いで幕をとじる。

鶴屋南北の作品としては登場人物もそう複雑ではなく、物語は分かり易いが、「四谷怪談」と比べるとやや単調で薄味だ。この辺りが永らく上演されずにいた理由なのかも知れない。
大詰めの舞台で、雨を降らせた中での与右衛門と累の立ち回りシーンが迫力十分。この場面が全てと思わせるほどの、見ごたえがあるシーンだった。
数ある歌舞伎の演目の中でも、立ち回りでは出色の出来ではなかろうか。

出演者では、お目当ての河原崎國太郎の演技が群を抜いていた。匂い立つような色気と、雨中での乱闘シーンでの凄惨な美しさ、共に申し分ない。欲をいえば、累にもう少し儚さがあったらさらに良かった。
嵐圭史は口跡が良く、こうした悪役をやらせても凄味がある。
嵐広也が颯爽とした若者ぶりと、渡会元之の軽妙な悪役ぶりが目を引いた。
生島喜五郎の女形は柔らかさに欠け、未だ女になりきっていない。
他に、津田恵一のコミカルな演技が客席を沸かしていた。

前進座はここのところ完全に國太郎が中心に座ってきた。
反面、中村梅之助ら第二世代の高齢化や、人気役者だった中村梅雀の退団で、立役のコマ不足の感が否めない。
前進座は曲がり角にかかってきている。

2008/10/24

新手のスパムコメントが

ブログやHPを開設している人を悩ますものに、スパムコメント(又はトラックバック)がある。当ブログにも平均して毎日1通くらいの割合で送られてきて、これを削除する作業がバカにならない。大半がアダルト系の宣伝だが、最近こんな内容の匿名のスパムコメントが届いた。

***********************
『椿事件』

1993年9月21日、民間放送連盟の「放送番組調査会」の会合の中で、
テレビ朝日報道局長の椿貞良が、選挙時の局の報道姿勢に関して

「小沢一郎氏のけじめをことさらに追及する必要はない。
今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、
なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる
手助けになるような報道をしようではないか」

との方針で局内をまとめた、という趣旨の発言を行う。

(ウィキペディア「椿事件」)
***********************

調べてみると、全く同一の文面であちこちのサイトに送信している。目に付いたところでは、いわゆる「麻生総理の豪遊」をテーマにしたエントリーを狙い撃ちしているようだ。
果たして個人なのか、あるいは組織的なものかは分からないが、恐らくは連立与党の関係者又は支持者なのだろう。
これを送信している「犯人」に告げる。
こんな事をしても何の意味もないし、逆効果になるだけだ。止めたほうが良い。

スパムメール、スパムコメント、スパムトラックバックのいずれも、サイト運営者に対して迷惑を及ぼすのみならず、結果としてインターネットそのものを貶めていることを、「犯人」たちは自覚すべきだろう。

2008/10/23

何を今さらの「麻生首相の豪遊」批判

Aso_taro2麻生首相が毎日のように高級料亭や一流ホテルで飲食をしていることがヤリ玉に上がっている。いわく「庶民感覚とずれている」というのだ。当たり前ではないか、元々麻生太郎は財界人であり、庶民の生活などとは無縁の人間だ。
麻生総理に庶民感覚を求めるのは、「木に魚を求める」ようなものだ。

九州以外の地域の方には馴染みがうすいかも知れないが、福岡で麻生財閥といえば泣く子も黙る存在だ。
創業130年以上の歴史を持ち、現在もセメント、不動産、教育、商社、病院など幅広く事業展開を行っていて、グループの中核企業である「株式会社麻生」を始めとして約40社をその傘下におさめている。
また吉田茂元首相の政治資金を面倒見ていたことでも知られている。吉田茂とは金縁関係である。
麻生首相はそのトップにいた人物であり、元来が大金持ちのボンボンだ。
詳しく調べたわけではないが、日本の総理大臣で財閥のトップ出身というのは、麻生太郎が初めてではなかろうか。
自民党の総裁選では、やれ庶民派だのオタクだのと宣伝していたが、あれは財界人であることを意識して、ことさら庶民性を強調したものだ。それを真に受けて麻生太郎を支持していたとしたら、余りに思慮が足りない。

今回の豪遊批判のきっかけは、麻生総理大臣が10月19日に、東京都内のスーパーマーケットを視察したことだ。誰のアイディアだか知らないが、よせば良いのにと言いたくなるほどの、あざとい演出だった。
あの姿を見て、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際に、マリー・アントワネットが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったとされるエピソード(事実ではないらしいが)を思い出してしまった。
普段、庶民の生活に認識も関心を持たない人間に対して、急に品物が足りないの物価がどうのと説明したところで、本人も困るだろうし、第一なんの意味も無い。

料亭や高級レストラン通いも、麻生首相にとっては昔から続けてきたことであり、生活習慣なのだ。もしそれが悪いというなら、そういう人物を総理に選んだ方にだって責任がある。
この「豪遊」批判は政治の本質的問題ではない。
それより、麻生政権が国民の生活に全く目を向けていないことの方が、政治の本質に係わるのだ。

2008/10/22

カラオケは「擬似コミュニケーション」のツール

会合や宴席の二次会=カラオケ、という風になったのはいつ頃からだろうか。
カラオケの発達史を見ると、
1971年  カラオケの発明
1980年代半ば カラオケボックスの出現
1992年  通信カラオケの登場
となっているので、もうかれこれ20年は経つと考えて良いだろう。

二次会の目的というのはメインの会合や宴席が終わった後、いわゆるショバを変えて、あるいは参加者のメンバーを絞って、更にコミュニケーションを深めるということにある。会合が商談や交渉の場合は、飲食を伴って本音の議論や腹を割った会話が行われる場であった。
ホステス(「女の子」)がいる店が好まれたのも、男同士のコミュニケーションでは女性がいた方が話が弾むからだ。

しかしカラオケの登場で状況は一変する。カラオケスナックなるものに入っても、席に座るやいなや、いきなり分厚い歌の索引が配られマイクが回される。客はひたすら自分が歌う曲の選曲に没頭し、次々と曲の番号をリクエストする。その後は時間を惜しむかのようにひたすら歌い続ける。一応他人の歌を聞く振りはして、歌唱が終わると「ヨーヨー」と声をかけて拍手したりするが、関心は次の自分の選曲や順番待ちの確認に向かっている。
ホステスなど一応存在はしていても、要はカラオケのオペレーターであり、接客の技も能力もそこには無い。
ホステスに外国人が多数を占めるようになったのは、接客の必要が無くなったからだ。会話が要らなければ、日本語が喋れなくても問題がない。
これを局限化したのがカラオケボックス(ルーム)であり、ここでは密室の中で歌いまくるという機能しかない。しぶしぶ付き合わされて人にとっては、まるで強制収容所である。

カラオケで楽しんでいるグループは外見上は和気藹々と映るが、実際には何もコミュニケーションはしていない。
第一、あの狭い空間の中の大音量では、会話が成り立たない。せっかく二次会に行ったのに、一言も言葉を交わさずに終わることになる。
そこにあるのは双方向の意志の伝達ではなく、歌い手と聞き手という一方的関係が交互に繰り返されるだけだ。
そうしてみるとカラオケというのは、実際はコミュニケーションせずに外形上コミュニケーションしているように錯覚させる、「擬似コミュニケーション」ツールなのかも知れない。
当たり障りなく付き合い、相手の心には絶対に踏み込まない今の時代の対人関係の反映だと言えよう。
そう考えれば、カラオケの出現は時代の要請なのだろう。

以前のエントリーで、“ブログは書くカラオケ”としたが、ブログにもそういう面はある。
希薄な人間関係を、もっともらしく覆い隠す「擬似コミュニケーション」という点では、共通性がある。

2008/10/20

「目クソ鼻クソ」の橋下知事発言

Hasimoto_tooru219日に大阪府の橋下徹知事は、兵庫県伊丹市で開かれた陸上自衛隊の記念式典の祝辞の中で、「人の悪口ばかり言ってる朝日新聞のような大人が増えれば、日本はだめになる」と発言しました。
橋下知事は発言の真意について記者団に、10月3日付の朝日朝刊に掲載された「弁護士資格を返上しては」と題する社説への批判だと説明し、「僕は権力者だから徹底批判してもらって構わないが、一線を越えたからかい半分の批判は批判ではない。僕が資格を返上したら、(事務所の)従業員はどうなるのかというイマジネーションはあるのか」と述べました。

朝日の社説も品性に欠けますが、こうした私怨を晴らすような発言を式典の祝辞の場で行う橋下徹も、相も変わらぬ常識ハズレというところです。
こういうのを目クソ鼻クソを笑うと言います。
特に自分に対する批判によって「(事務所の)従業員はどうなるのかというイマジネーションはあるのか」との発言は噴飯ものです。それなら橋下が懲戒請求を呼びかけた相手弁護士やその事務所職員だのに対して、彼はどのようなイマジネーションを持っていたのか、是非訊きたいものです。

タレント時代から大阪府知事に至る橋下徹の発言は、ほぼ一貫して自分がどう考えるかが中心であり、その結果がどのような影響を及ぼし、相手をどれだけ傷つけるのかなどお構いなしです。恐らくこの人は、一人称でしかものを考えられないのでしょう。
光市の母子殺害事件弁護団の弁護活動に対しては、私も批判を持っています。私がもし弁護士だったら、ああした弁護方針は採りません。しかしそれはあくまで方法論であって、懲戒請求を求めるような性質のものではない。
橋下徹は弁護士ですから、もしそれ程に母子殺害事件に対して熱意と確固たる主張を持っていたなら、彼が弁護活動を志願しても良かったのではないでしょうか。
懲戒請求にしても自分は何も行動を起こさず、TV視聴者をけしかけるだけでした。
広島地裁が判決文で「主張は弁護士の使命・職責を理解していない失当なもの」と断じたのは、当然のことと言えます。

今回の判決を受けて、橋下知事は「私の法解釈が誤っていた。表現の自由の範囲を逸脱していた」と謝罪しましたが、あれは一体誰に対して謝ったのでしょう。
弁護士資格の返上はともかく、公人としての一定のケジメは必要でしょうね。

こういう身勝手な性格の人間は、「人の上」に立つべきではありません。ではどこが良いでしょう。
名は体を現すで、「橋の下」かな。

2008/10/18

【思い出の落語家11】「あやつり踊り」八代目雷門助六

Kaminarimon_sukeroku落語家にとって踊りは必須科目で、得手不得手はあっても踊れない噺家はいない。最近の寄席では少なくなったが、かつては一日に一人は一席終えたあと踊りを披露していた。高座でしばしば踊りを見せてくれたのは八代目春風亭柳枝だ。
私の兄は、寄席で志ん生が踊るのを見たと自慢していたが、確かに珍しかったのだろう。意外のようだが、彦六の先代林家正蔵が時々踊りを披露していた。一度何かの機会に、正蔵一門が全員で「かっぽれ」を踊るのを見たことがある。
最近の落語家の中では志ん朝が上手かった。毎年恒例の「住吉踊り」で、志ん朝の踊りを見るのが楽しみだった。先代の三木助や馬生、圓生も名手だったそうだが、残念ながら見るチャンスが無かった。
現役では当代の金原亭馬生が上手いし、度々高座で踊る姿を見ている。
上手い踊りを見たければ、歌舞伎や舞踊家の舞台を見に行けばよい。落語家の踊りというのは、上手いだけでは駄目で、粋で色気と愛嬌がなくっちゃいけない。それさえ備わっていれば、多少下手でも構わないのだ。

噺を聞くより、どちらかというと踊りの方を楽しみにしていた落語家がいた。八代目雷門助六である。この人は一席終わると必ずといって良いほど、踊っていた。ご覧になった方もあるだろうが、「あやつり踊り」だ。糸あやつりの人形振りで、つまり操り人形と同じ動きで踊るのである。
人形振りといえば、歌舞伎の世界では「伊達娘恋緋鹿子」の櫓のお七が有名だが、あちらは文楽の人形振りで、助六のものは全く違う。

あまりお馴染がないかと思うが、日本の伝統的な芸能に「江戸糸操り人形」というのがある。現在も「結城座」という劇団が伝統を守っていると思う。
約370年の伝統も持つ芸能で、私が寄席に通い始めたころには、色物としてしばしば高座にかかっていた。歌舞伎の名場面などをあやつり人形で見せるという芸で、舞台の袖には美太夫語りと三味線弾きまで配置されていて、時々大きな茶碗でお湯を飲む仕種が実に可愛かった。舞台で瞬時に衣装が変わる「引き抜き」の芸などは極めて高度で、恐らく世界的にも最高の水準ではなかろうか。私は大好きだったが、高座で目にすることが無くなったのは残念だ。

先代の雷門助六は、この糸あやつりの人形振りを高座で見せてくれたが、これが実に見事なのだ。特に両足を大きく開いたまま、すっと足を閉じながら上半身が伸びてゆく場面では、いつも場内は拍手喝さいだった。子どものころ家に帰って真似してみたが、全く上手くいかなかった。当たり前だが、難しいのだ。
ちょっと目が奥に引っ込んでいて、垂れ目で、愛嬌のある芸人だった。
5才で高座に上がり、16才で真打になったというのだから、今では想像もつかない。一時期寄席を離れて、当時の芸名だった「雷門五郎一座」を率いて、軽演劇で全国を回っていた。一度「妾馬」を芝居にしたものを観たことがある。
その後高座に復帰し、「長短」や「虱茶屋」など所作の入ったネタを得意としていた。踊りは何をやらせても上手かったが、何といってもやはり助六は「あやつり踊り」につきる。
現在は、当代の助六が芸を継承している。

2008/10/17

中山成彬センセイの奇行

日教組批判などの発言問題をめぐり国土交通相を引責辞任した自民党の中山成彬衆院議員(65)が、次期衆院選宮崎1区への不出馬表明を撤回し、7選を目指し出馬する意向を党宮崎県連幹部に伝えたことが16日、分かった。
県連幹部によると、中山氏は同日午後に電話で「周囲から出馬しろと言われて、意思を固めた。党本部に公認をもらう。17日に会見する」などと述べたという。
これに対し、同県連の緒嶋雅晃会長は「中山氏が次は出ないと言ったから急いで公募を実施したのに、こんなことはわれわれに対する裏切りだ」と反発している。
(共同通信)

ひょっとしたら、中山成彬議員は本気で自民党をぶっ潰すつもりかも知れない。
そうであれば中山センセイ頑張ってと、応援せねばなるまい。
ただ気になるのは、何らかの病気か・・・。
いずれにしろ一度専門医に診てもらうことを、中山恭子夫人にお勧めしたい。

2008/10/16

お父さんたちの永遠のアイドル「アグネス・ラム」

毎日株の暴落だの世界恐慌だのという暗いニュースが多いので、ここは一番イロモノの話題で。
日本の男性の好みというには、大方があどけない顔に成熟した身体という組み合わせだ。その理想形だったのが1970年代に登場したアグネス・ラムである。ハワイ出身の中国系アメリカ人だったアグネス・ラムは、
初代クラリオンガールに選ばれ、主に男性向け雑誌のグラビアで活躍したが、ある意味その後の日本文化に影響を及ぼしたと言える。

彼女の功績は次のとおりである。
第一は、元祖グラビアアイドルだった。歌手でもない(人気が出てからレコードは出したが)、女優でもない、雑誌のグラビアだけに出るアイドルというのは、アグネスが最初だ。その後に雨後の筍のように出現するグラドルのさきがけとなった。
第二は、ビキニの形を変えたこと。彼女のファッションによってビキニのボトムが垂直方向に圧縮された。少し難しい表現をすれば、万有引力の法則に従って小さくなったということ。これを別名“乳トンの法則”という。早くいえば・・・、まあ写真を見てください。
第三は、男性の関心がバストの大きさに移った。以前のアイドルというのは、それほど胸の大きさを問題にされていなかったが、アグネス・ラムの出現によってバストが命となり、現在の巨乳ブームへと発展していく。

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   (クリックにより画像が拡大)

もう一つ付け加えたいのが、彼女には品があるということだ。これがあまたの他のアイドルとは明確に一線を画している。
例えば「黒船」ともてはやされたリア・ディゾンなど、品ということから見ればアグネスの足元にも及ばない。もっと言えば下品である。そんなことだから、鉄砲を一発打ち込まれただけで撃チンされるのだ。
アグネス・ラムにはグラドルとして品格がある。30年経った今も人気を保っているのは、そのためだ。

かくしてアグネスは、お父さんたちの永遠のアイドルとなったのであります。

2008/10/15

「ボッタクリ」医療保険にご注意!

午前から昼過ぎにかけて、TVのワイドショーの宣伝で目立つのが医療保険と女性用カツラのコマーシャルだ。どちらも同じ「脅迫産業」で、かたや怪我や病気で入院したら家計が大変になりますよという脅しであり、こなたは髪が薄くなったらみっともなくて表を歩けませんよという脅しだ。考えてみればあれだけ大量のCMを流せるのだから、あの業界はよほど儲かっているのだろう。

かく言う私も医療保険に入っている。20代から加入していて、当時は日本団体生命という会社だったが、2000年に経営危機になってアクサ生命に吸収された。従って今はアクサ生命の医療保険に入っていることになる。長い間大きな病気にかかることもなく、保険料だけ払っていたのだが、保険金などというものは貰わないのが一番幸せなんだからと鷹揚に構えていた。
数年前に恥ずかしながら「痔」の手術をして、7日間入院した。退院後、早速アクサ生命に電話して保険金の申請書を送るよう依頼したところ、次のような答が返ってきた。
(1)この医療保険は入院が8日間以上となっており、7日間では入院給付の対象にならない。
(2)手術の内容が保険の対象外なので、手術保険金は支払えない。
つまりゼロ回答というわけだ。

入院日数の件は改めて契約書を確認したら確かに8日間以上となっていた。なにせ保険に入ったのが数十年前のことだから、すっかり忘れていた。迂闊と言われりゃその通りで、これは諦めるしかない。
しかし手術保険金の方は納得がいかない。殆んどの手術はカバーされているという認識だったので電話で食い下がったが、対象外の一点ばりで、こちらも諦めるしかなかった。
その当時、住友生命の一時払い養老保険に入っていたが、そちらに特約で入院保険を付保していたことを思い出した。契約期限ギリギリだったが電話をして確認したところ、
(1)入院日数が2日間以上なので、5千円/日x6日間分の入院保険を支払う。
(2)手術内容も対象に含まれるので、保険金5万円を支払う。
との答で、手続きをとって保険金を受け取った。

住友生命の特約は、主契約の養老保険に僅かな追加金額で医療保険を付保したものだ。
一方アクサ生命の方は医療保険として加入し、毎月高額の保険料を支払っている。それがイザという時にサッパリ役に立たないということは、一体どういうことなのだろうか。
こういうのを世間では「ヤラズ、ブッタクリ」と言う。これなら儲かるはずだ。

最近は医療技術が進歩したのと、入院を短縮化させるという厚生労働省の方針で、大きな手術や慢性疾患でも無ければ入院は1週間程度に抑えられている。入院日数が8日間以上などいう医療保険は元々が役に立たないのだ。
私の場合、年間73560円の保険料を支払っているが、そうなると毎年15日間以上入院し続けないと元が取れない計算になる。よく考えれば、そんなに毎年大病を患っていたら、保険金を受け取る前に死んでしまう。
ここに至って医療保険のバカバカしさに目が醒め、ちょうど契約期限が近付いていたので更新せず、ここで打ち切ることにした。

全ての医療保険が「ボッタクリ」とは言わないが、加入する場合は契約内容をしっかり確認した方が良い。私のササヤカナ失敗がお役に立てれば幸いである。

2008/10/13

「拉致」問題で米国に何を期待していたのか

Yokota_shigeru民主党の鳩山由紀夫幹事長は12日夜の街頭演説で、米国による北朝鮮のテロ支援国指定解除について「1年に2度も首相が代わるから、日米同盟を命のように思っていても米国から袖にされる。政権がだらしないからだ」と述べた。この主張は見当違いだ。
当ブログでも以前からとりあげたように、北の核施設解体作業と引き換えに、アメリカがテロ指定解除するというのは、今年の4月に両国間で基本的に合意されたもので、今回の措置もその既定方針に沿って行われたものだ。日本の首相交代とは何ら関係がない。

また、民主党の直嶋正行政調会長が、指定解除について「国民として失望を禁じ得ない」との談話を発表したが、同様の発言は拉致被害者家族会のメンバーからも行われている。
11日の札幌での講演会で増元照明事務局長は、「自国の国益のため、同盟国の日本人の命を顧みない裏切り行為だと思う。(指定解除を)軽々しくやってほしくないというメッセージを、政府は米国に伝えてほしい」と訴えている。
拉致問題の解決のために、米国に対していったい何を期待していたのだろう。

自国の利益のために他国の人間を拉致・監禁したり、時には闇から闇に葬るは、むしろアメリカCIAのお家芸だ。むかしむかしの話ではない、現在進行形である。
例えば、2003年12月にレバノン系ドイツ人のハリド・マスリ氏が、旅先のマケドニアでCIAに拉致され、アフガニスタンに移送された後、拷問などの虐待を受けた。人違いだったことが分かり5ヶ月後にアルバニアで解放された。消されなかったのがせめてもの幸いだった。この件でドイツ検察当局は、2007年1月に監禁容疑でCIA職員13人の逮捕状を取ったことを明らかにした。
同じ2003年にはイタリアのミラノでも同様の事件がおきて、こちらもイタリア当局がCIA要員ら26人の逮捕状を取っている。
アメリカが「拉致はいかん」などと言っても、「アンタにだけは言われたくない」と言い返されるのがオチだ。
元々が頼りにならない相手だったということではなかろうか。

アメリカへの期待=北朝鮮への先制攻撃、口には出さぬとしてもこうした期待感も持つ人もいただろう。イラクみたいに一気に叩いて金正日政権を倒し、拉致被害者を救出するという図式だ。しかし武力攻撃は国益、つまりソロバン勘定次第である。北朝鮮を攻撃しても、米国には大した利益にならない。それより、ロシアや中国との関係が決定的に悪化すれば、マイナス面の方が大きくなる。
ましてイラクやアフガニスタンが泥沼化している現状では、とてもじゃないが手が回らない。だからテンから先制攻撃など有り得ない。

それより拉致問題の解決のために、日本の政治家は何をしてきたのか。特に「対話と圧力」の「圧力派」議員たちは、この数年間、具体的にどういう成果を上げてきたのだろうか。
この問題で自分から動き、ともかくも金正日に拉致を認めさせ、被害者の一部を帰国させたのは小泉元総理だけだ。私は小泉純一郎が嫌いだが、この一点に限っては評価している。
拉致問題の解決を最も期待されていた安倍内閣は、結局何の進展も得ることなく瓦解してしまった。
してみるとアメリカ待望論は、日本の政治家たちの無為無策を覆い隠す「隠れ蓑」として使われたと言える。それが外されたので、彼らは失望や落胆をしている。

今回の件で家族会前代表の横田滋さんは、「日本としては8月の合意(拉致問題再調査)の実行を強く求め、それでも応じないなら独自の制裁をすべきだ。この(指定解除)問題と拉致問題はあまり結びつける必要がないと思う」と述べた。
横田滋さんの指摘が正しいのだ。この方のいつもながらの冷静な分析と判断には、頭が下がる。

2008/10/12

ソフィア国立歌劇場「仮面舞踏会」

10月11日、東京文化会館でのソフィア国立歌劇場のオペラ「仮面舞踏会」を観劇。1週間にクラシック公演に3回も行く結果となったが、別に寄席ファンからクラシックファンに転向したわけではない。主役級は全てWキャストだが、11日の公演では前回「トゥーランドット」の時と主な出演者がガラリと入れ替わっていたので、互いの比較が出来た。
当日の主な配役は次の通り。
リッカルド:エミール・イヴァノフ
レナート:キリル・マノロフ
アメーリア:佐藤しのぶ
ウルリカ:エレーナ・チャブダロヴァ=イサ
オスカル:テオドラ・チュクルスカ

「仮面舞踏会」はヴェルディの中期の傑作で、原作の国王暗殺という筋が検閲に引っ掛かり上演が許可されず、背景を植民地時代の17世紀のボストンに設定し直して、ようやく許可が下りたといういきさつがある。
ストーリーは、
総督リッカルドが親友レナートの妻アメリアをと相愛の仲になってしまう。女占い師ウルリカはリッカルドに「今日最初に握手する友人から殺される」と告げる。その握手の相手はレナートだった。
真夜中、リッカルドとアメリアが会っている所へレナートがやって来て、二人の関係がバレてしまう。激高したレナートは仮面舞踏会のさなか、リッカルドを銃殺する。死ぬ間際にリッカルドはレナート夫妻を気遣い、「アメリアは潔白。レナートも許す」と言って、息絶える。 二人の男女関係もプラトニックなものだし、殺害も誤解に基くもので、だからリッカルドも罪を許してしまう。
ドロドロした人間関係はなく、悪人のいないオペラだ。

全体を通して、ヴェルディの作り方の上手さが際立つ。単調に傾きかねない劇に異様な占い師ウルリカや舞台を明るくするズボン役オスカルを配している。音楽も効果的で、例えば暗殺の陰謀を弦のスタッカートで暗示したり、盛り上げるシーンでの管楽器の使い方が巧みだ。楽団の音も良かった。
出演者では、主役のエミール・イヴァノフは第1幕では声が出し切れていなかったが、2幕以降は伸びのあるテノールを聴かせていた。
友人役のキリル・マノロフは立派な体格をいかした見事なバリトンを聴かせ、この劇全体を締めていた。
ソプラノの佐藤しのぶは美声で情感たっぷりに歌い上げていたが、いかんせん線が細い。声が硬質で、合唱シーンになると他の共演者の声に押されてしまう。

ソフィア国立歌劇場は日本での知名度はあまり高いとはいえない、管弦楽団や合唱団、バレー団とのアンサンブルが良く、水準の高い舞台を見せてくれたと思う。
公演は26日まで全国各地で。

2008/10/10

マーク・パドモア「冬の旅」@トッパンホール

Photoここの所めっきりとゲイジュツづいてしまって、昨日10月9日はトッパンホール主催公演であるシリーズ【歌曲(リート)の森~詩と音楽~】第1篇という香しい会に行ってきました。実は11月の行われる、イアン・ボストリッジのコンサートのチケットを申し込んだら既に完売で、3回シリーズのセット券なら残っていますという答えでした。止むを得ずセット券を購入して昨日の公演を聴きに行ったとうわけです。
トッパンホールは初めてですが、400席の小じんまりとしたホールで、声楽や室内楽用の劇場なのでしょう。内装は木質仕上げでとてもおちついた雰囲気で、音響も大変宜しい。

当日のプログラムは次の通りです。
歌曲集「冬の旅」D911 全曲
曲:シューベルト
詩:ヴィルヘルム・ミュラー
マーク・パドモア(テノール)
イモジェン・クーパー(ピアノ)

シューベルトの「冬の旅」はドイツ・リートを代表する曲で、クラシックに馴染みの薄い方でも、第5曲「菩提樹」はご存知でしょう。
私たちが習った中学の教科書では
“泉にそいて繁る菩提樹 ・・・”
の歌詞でした。親友の父親はドイツ語が得意で、気分がのると
“Am Brunen vor dem Tore ・・・”
と原語で歌っていました。

「冬の旅」はシューベルトが1827年に作曲し、翌年に彼は亡くなっています。そのせいか、この曲には「死」の影がつきまとっているという印象を受けます。第二次大戦の末期、応召されたドイツの学生たちが、前夜「冬の旅」のレコードを聴き、翌日に出征して戦火に散っていったというエピソードが残されていますが、確かに頷けます。
特に第1曲の「おやすみ Gute Nacht」は名曲中の名曲で、ピアノの前奏が聞えてくると、そこはもう失意の青年が街を出てさまよい歩くという「冬の旅」の世界です。スタートの曲ですが全曲を暗示していて、御用とお急ぎの方は、是非この「おやすみ」だけでも聴いてみてください。

さてテノールのマーク・パドモアですが、写真ではもっと大男を想像していましたが、意外に小柄でスリムな方でした。
歌いはじめると、どこからあんな良い声が出るのだろうと溜息が出るほどの美声で、やっぱりナマで聴くと違うなと舌を巻きました。1曲ごとに曲想が変わるのですが、それを休憩無しに一気に歌い上げました。
突き抜けるような明るい歌声は、深く抑制された歌手の録音を聴きなれているとやや異質な感じを受けますが、この歌の主人公は青年ですから、こういう解釈もあるのでしょう。
ただフィッシャー=ディースカウ盤と比べると、胸に迫ってくるものが弱いのかなというのが、私の印象です。
それと座席のせいかも知れませんが、ピアノの音が大きく、一部に歌声が聞き取り難い部分がありました。一考を要すると思います。

なお入場時に配られる公演パンフレットがとても良く出来ていました。全24ページで曲目や演奏者の解説、全曲の歌詞と日本語の対訳がついていて、大変親切です。
他のコンサートでも、これ位のプログラムが配られると良いのですが。

話はガラっと変わりますが、先ほど立川志の輔の11月に行われる独演会、今日10時に発売され、時報と同時に申し込みボタンを押したら既に売り切れでした。これってどういうことでしょうね。
どなたか「裏技」を知っていたら、ご伝授ください。お願いします。

2008/10/09

ノーベル賞

「ねえねえアナタ、日本人が4人もノーベル賞を取ったんだって、スゴイわぁ。アナタなんか、賞なんて取ったこと無いでしょう?」
「バカ言え。オレだって今年の春、天皇賞取ったぞ。」
「競馬の話してんじゃないのよ。あのね、下村脩さんという方は、”光るクラゲ”を研究して、”ノーベル化学賞”なのよ。」
「そんならオレだって、若いころ”逆さクラゲ”を熱心に研究してな。」
「それで、どうなったのよ?」
「今じゃ、”脳減る痴呆症”だ。」

註)
”逆さクラゲ”は温泉マークのことで、転じて”連れ込み旅館(今のラブホテル)”を指していた俗語。解説するようじゃ面白くない。

2008/10/08

株のことは株にきけ

世界同時株安で、前日の米国市場の大幅下落を受け、今日の東京の株式市場も大きく続落している。ニュースでも連日この話題がトップになっているが、報道によると投資家から証券会社への問い合わせが、毎日殺到しているとのこと。これがどうも良く分からない。株式市場の今後の見通しをきいているのだろうが、そんなこと誰も知らないし、もし知っていたら他人は教えず、自分で売買して大儲けするだけだ。
そういう人々は株式について、基本的な認識が出来ていないのではないだろうか。

株式の売買というのは取引関係など特別の例外を除けば、目的はただ一つ利益を得ること、つまり金を儲けることだ。株を買うというのは値上がりを期待する時であり、売るときは値下がりが見込める時だ。売買が成り立つというのは、買う人と売る人の株数が同じだということであり、その値段で強気と弱気が交差しているわけだ。だから取引が成り立つ。
もし投資家全員が、これから株が上がると予測したら、あるいは下がると予測したら、その瞬間から市場は成り立たなくなる。上がると思う人と同じだけ下がると思う人がいなくちゃいけない。
だから株価が正確に予測できたら、株式市場は成立しないのだ。
証券会社に電話で相談するよう人は、株など買わないことだ。
世の中、金儲けをしようと思ったら必ずリスクも付いてくる、それだけのこと。

こういう時は株の格言でも読んで、頭を冷やすしかないだろう。
「石が浮かんで、木の葉が沈む」
かくのごとく、株価は理屈通りにいきません。
「山、高ければ谷深し 谷、深ければ山高し」
上がったものはいつかは下がり、下がったものはいつかは上がるそうですよ。
「天井3日、底100日」
すると年内いっぱいはムリですか。
「万人があきれ果てた値が高下の界なり」
もしかして今が買い時かも。
「今日の高値は明日の安値、今日の安値は明日の高値」
明日は明日の風が吹く。希望を持ちましょう。

でも自分で投資して損した人はまだいい。
問題は株式になぞ全く縁がない人が迷惑を被るということだ。
例えば年金基金の株式やファンドの運用損、こちらは万人に影響するわけで、こっちの方が大問題だ。

2008/10/06

「私生活」@シアタークリエ

Terajima_shinobu東宝本社ビルに昨年オープンしたシアタークリエ、今月の公演は「私生活 PRIVETE LIVES」です。この劇場は初めてですが、600席の小ぢんまりとした小屋で、芝居にはちょうど良い大きさです。ロビーやトイレのスペースが小さく落ち着かないのが欠点ですが、日比谷という場所柄仕方がないでしょう。
観客の8割以上が女性、それも“アラ40”(40歳凸凹)辺りが中心です。10月5日に出向いたのですが他にも年配者がいて、辛うじて最長老でなくて良かった。
主なスタッフとキャストは次の通りです。

[スタッフ]
作: ノエル・カワード
演出:ジョン・ケアード
翻訳:松岡和子
美術:二村周作
[キャスト]
内野聖陽 =エリオット(シビルの夫、アマンダの元夫)
寺島しのぶ=アマンダ(ヴィクターの妻、エリオットの元妻)
中嶋朋子 =シビル  (エリオットの新婦)
橋本じゅん=ヴィクター(アマンダの新郎)
中澤聖子 =ルイーズ(アパートのメイド)

作品は1930年に書かれたものだそうですが、物語は時代の古さを感じさせません。ソーシャル・コメディとなっていますが、それほど社会的な背景が描かれているわけではなく、いわゆるラブ・コメディの範疇に入ると思います。男と女の話ですから色あせない。結構きわどいシーンやセリフも多く、今から80年ほど前に上演された時は衝撃的だったでしょうね。

ストーリーは、再婚同士の2組のカップルが、ハネムーンで部屋が隣どうしになります。バルコニーでばったり顔を合わせてしまったエリオットとアマンダの元カップル、焼けボックイに火が付いてそのまま駆け落ち、パリのアマンダのアパートでよりを戻します。しかし元々が気性の激しい二人、「人の気持ちが読めない」「気持ちを読む。あなたには思いやりがない」と口論が始まり、果ては掴み合いの大喧嘩に。そこにヴィクターとシビルの二人がやってきて・・・。

20世紀初めのころのイギリス上流階級の生活、セリフにウィットやユーモアが詰め込まれ、日本語訳もよくこなれていて肩の凝らない楽しい舞台に仕上っていました。
エリオットのセリフ「協定は、結ぶのはたやすく守るのは難しい」、正にその通りで、それだから男と女はくっ付いたり離れたりする。
日本の歌舞伎の世界もそうですが、昔の方が男女関係は奔放だったようです。今の時代の方が倫理観が強くなっている、そんな気がします。
アマンダが言っていました、「私がこんなに奔放じゃないのは、生まれて初めて」と。

個性的で芸達者な俳優を揃えての舞台。
寺島しのぶがフェロモンをムンムンさせて好演、こんな勝気な女とは到底一緒に暮せないと思わせる迫力十分の演技でした。
中嶋朋子は演技は上手いのですが、女優として色気が足りない。
同じ事は主役の内野聖陽にも言えます。演技力には文句のつけようがありませんし、セリフも良く通る。でも洒落っ気が足りないんです。こういう役はもっと「粋」でなくちゃいけない。内野聖陽に限らず、この手の芝居に適した男優が日本に少ないのが悩みですね。例えば往年の名優ジャック・レモンみたいな。これは無いものネダリかな。
橋本じゅんが手堅い演技を見せていましたが、それより脇役の中澤聖子に存在感がありました。カーテンコールで舞台を片付けながら客席にお辞儀する姿が実にカワイイ。

公演は今月31日まで。

2008/10/05

ソフィア国立歌劇場「トゥーランドット」

Turandot“入場料今なら1万円引き”につられてチケットを購入。何のことはない、安売りのチラシ片手にスーパーに駆けつける主婦みたいなモンです。これだから貧乏人はイヤだね。とまあ、動機はともかく久々のオペラです。10月4日、東京文化会館で行われたソフィア国立歌劇場の来日公演はプッチニーの名作歌劇「」トゥーランドット」。

「トゥーランドット」はプッチニーの遺作で、終幕は彼の死後、フランコ・アルフィーノによって補作されました。
ストーリーは、舞台は北京。美しきトゥーランドット姫と結婚するには3つの謎を解かねばならない。しかも失敗すれば首を切られる、という昔からよくあるお伽噺の世界です。
そこにダッタンの前国王ティムールと女奴隷リュー、そして王子カラフが現れ、姫にひと目惚れした王子カラフが姫の謎解きに挑戦します。
その後色々あって、最後に二人は結ばれてゆくというハッピーエンドで終わります。

他愛ない物語ですが、この芝居、歌劇には珍しく台本がしっかりと出来ていて、最も特徴的なのは、群集の描き方です。
幕開けでペルシャ王子が処刑に向かうシーンでは興奮し、いざ王子の顔を見ると同情し、姫の謎解きではカラフを応援し、王子の名を暴く時は彼を責め立て、奴隷のリューが死をもって王子の秘密を守ると一転して王子の味方になり、二人が結ばれると祝福する。実に民衆というものは気まぐれなものだと主張しているわけです。
このオペラは、群集シーンと合唱(ソフィア国立歌劇団合唱団)がもう一つの見所となります。
音楽はエミール・タバコフ指揮、ソフィア国立歌劇団管絃楽団、演出はプラーメン・カルターロフ。

感想ですが、とても良かったですよ。先ず主役の3人の声が良い。
第2幕でトゥーランドット役のマリアナ・ツヴェトコヴァが歌うアリア「この宮殿の中で」、堂々としたドラマティック・ソプラノで歌いあげます。
第3幕では幕開けのシーンで、荒川静香の金メダルですっかり有名になったアリア「誰も寝てはならぬ」が歌われますが、この王子カラフ役のカメン・チャネフのテノールが実に素晴らしい。突き上げるような澄んだ若々しい声で、観衆を魅了していました。
奴隷リュー役のツヴェテリーナ・ヴァシレヴァですが、この役柄は悲劇のヒロインで、自殺シーンで歌う「氷のような姫君の心も」では、甘く切ないリリック・ソプラノで泣かせます。まさに「泣かせのプッチニー」の面目躍如。
「声の王国ブルガリア」の宣伝文句に恥じない、見事な歌唱でした。

オペラは一にも二にも声次第です。
シャープなデザインでエキゾティズムを演出した美術(ミルドラグ・タバキ)が、舞台を引き締めていました。

2008/10/04

【年金記録改ざん】舛添さんはどうしてそう嬉しそうなの?

Masuzoe_yoichi_2「敗軍の将兵を語らず」という諺があるが、企業で不祥事が起きたとき社長が「あれは社員が悪い」とか、業績が悪い時に「従業員が怠けているから」などと語る経営者を見たことがない。全ては経営責任である。そういう民間の常識が通用しないのが省庁の世界らしい。
いつも思うのだが、社会保険庁で新たな不正がみつかると、舛添厚生労働大臣はどうして嬉しそうに喋るのだろう。「又見つかりました」ってな調子で、まるで鬼の首でもとったように語っているが、あの神経が分からない。改ざんの可能性が143万9000件になりそうなのが、それほど嬉しいことなのか。
確かに不正の多くは彼の在任中に起きたわけではないが、歴代の大臣の大半が自民党の議員だったことを考えれば、もう少し自責の念があって良い。

改ざんを始め年金記録にかかわる不正が社保庁に原因していることは明白だ。
しかし、そうした不正を助長し見逃してきたのは、政府と厚労省の方針ではなかったのか。政府の基本的スタンスは、「保険料は漏れなく徴収し、保険金は出来るだけ払わない」だったのは疑いない。
だから保険料を納められない事業主がいると、記録を改ざんさせて徴収率を上げていた。おまけに政府の年金支払いは少なくて済むし、まさに一石二鳥だった。むしろ記録改ざんは奨励されていたと推測される。もちろん、厚労大臣(かつての厚生大臣)も知っていながら黙認していた。担当者の不正を追求するなら、不正が行われた時代の歴代担当大臣の責任も明らかにせねばなるまい。
社保庁の経営責任を棚上げにして、従業員だけを槍玉に上げているのは筋違いではなかろうか。
舛添要一大臣に正義の味方ヅラされても、国民は困るのだ。

女性はなぜ長生きするか

私が住む集合住宅も築30年を越え、当初に入居した人たちが高齢になって亡くなるケースが目立つ。それもご夫婦の場合、例外なくご主人が先に亡くなっている。日本人女性の平均寿命が世界一だということを、日々実感している。
日本人が長生きする理由として、一つには永いあいだ戦乱が無かったことがあげられるだろう。世界を旅してつくづく感じることは、第二次大戦後一度も戦争もなければ内乱もないということが、どれほど幸せかということだ。それから平均所得が比較的高いということも理由の一つだ。長寿の国というのは例外なく経済先進国だ。医療制度が進んでいるというのも、大きな理由だろう。
こうして長生きの理由を並べていくと、これからの日本人の平均寿命には異変が起きてくるかも知れないという予感がする。
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それにしても日本人の平均寿命だが、女性の方が男性に比べおよそ7歳も上回っているのはなぜだろう。勿論、世界的に見ても女は長生きなのだが、男女で7歳も差があるのはざっと見て日本とフランスぐらいだ。この理由は一体なぜなんだろう。

外国の事情は良く分からないが、日本人の夫婦の場合、妻に先立たれると夫も後を追いように亡くなるケースが多いが、夫に先に死なれた妻はかえって長生きするようだ。つまり男の側は依存心が強く、女は自立心が強いという事だろう。自立心=生命力と考えれば納得がいく。

老年になって、女性の方がアクティブになるというのも理由の一つかも知れない。私が定年退職した直後、女房から「あなたは引きこもり」と散々言われた。自分では同年輩の男と比べても活動的だと思っているが、妻から見ればこれでも「引きこもり」と映るらしい。ということは、女がいかにアクティブかという逆の証明でもある。確かに毎日どこかに出掛けていて、感心する。

亭主を早死にさせる方法で最も有効なのは、毎日嫌なことを亭主に吹き込むことだそうだ。それで思い当たるのは母親が更年期の頃から毎日毎日父に、ここが悪いあっちが痛いとと訴えていたことだ。嫌な顔をして聞いていた父は60代で亡くなったが、病苦を訴えていた母は90代まで生きた。
男は勤め先であった嫌なことを家庭に持ち帰らない傾向があるが、奥さん方は概してその逆だ。
ちょうど母の年齢に達したあたりから、妻も日々身体の不調を訴えるようになった。一日として気分爽快という日はないようで、常に苦痛を抱えている。さぞかし辛いだろうと同情していると、これが朝から晩まで外へ出歩いているの。この辺がどうも良く分からない。

ある程度年をとってくると、確かに身体はガタが来ていて、どことなく具合が悪いと感じるものだ。でも男は家人に対してあまり口外しない。よほど悪ければ医者に行くし、それ程でなければ我慢する。それがいけないのかも知れない。知らず知らずの内にストレスがたまるのだ。
女性の方はといえば、夫に話すことによりストレスを発散、それを受け止める夫の方は、更に妻のストレスの分まで抱え込んで早く死んで行く。
かくして落語のオチではないが、「アア、俺は短命だ」という結末になるのだ。

2008/10/02

大見得切るなら自民は公明と手を切れ

麻生首相は昨日の民主党の代表質問に対して、「政権担当能力を持ち、日本の未来に責任を持てるのは自民党だ」と大見得を切った。その言や良しと云いたい所だが、チョット待てよ、今の政権は自民・公明の連立政権では無かったのか。
自民党の国会議員の大半は、各小選挙区ごとに2万票とも3万票ともいわれる創価学会の組織票で当選させて貰っているのが実態だ。公明党というつっかえ棒が外されれば、今すぐコロリと横倒しになるのが現在の自民党の実情ではないか。
公明という点滴を受けなければ生きていけない状況について、麻生太郎は自民党総裁として情無いと思わないのだろうか。

麻生総理よ、それほど自民党の力に自信があるのなら、直ちに公明党と手を切ったらどうか。一切の選挙支援を断り、自民単独で選挙を戦ったらどうか。それで多数を取ったなら、大見得でもなんでも切ってくれ。
そうした覚悟も決断力も無いのに、カッコだけ付けるのは滑稽なだけだ。

2008/10/01

【米金融法案】アリはキリギリスを助けない

近ごろ久しぶりに痛快だったのは、アメリカ政府が提案していた金融機関からの不良資産を買い取ることを柱とした緊急経済安定化法案を、下院が否決したことですね。このニュースをきいたとき、一番はじめに頭に浮かんだのがイソップ童話の「アリとキリギリス」の話です。
本当は「セミとアリ」だそうで、原作はこうなっています。

冬のある日のこと、アリたちは、ためてあった穀物を家の外でかわかしていました。
そこへ、おなかをすかしたセミがやってきて、「なにか、食べ物を下さい」と、たのみました。
アリたちは、「どうして夏のあいだにあなたも、穀物をたくわえておかなかったの?」とたずねると、セミは「ひまがなかったのです。きれいな歌を歌うのに、いそがしくて」と答えました。
アリたちは、せせら笑っていいました。
「いや、夏のあいだ歌を歌っていたのなら、冬はおどりでもおどりなさい」。
おしまい。

米国の金融機関の人たちというのは、私たちからすると想像もつかない給料を貰っています。例えば破綻したゴールドマン・サックスのトップは、ボーナスだけで年間55億円を受け取っていました。まさにキリギリスは贅沢な暮らしを謳歌していた、つまりずっと歌を歌っていたというわけです。
それが金儲けに目がくらみ、ついついサブプライムローンなどというバクチに手を出してスッテンテンになったというわけです。
すっかり一文無しになると、アリに泣きついてきました。アリが働いてコツコツと貯めた税金に目を付けたわけです。
アリはこう答えました。「今度は踊りでも踊っていたら」。
税金による金融機関の救済へのアメリカ国民の反発は強く、その結果が議会に反映して法案が否決されたのなら、こっちの方がマトモじゃないですか。

さて、日本ではこのイソップ童話はどうなっているでしょうか。
たとえば波多野勤子監修・小学館版の『イソップ物語』では、「さあ、遠慮なく食べてください。元気になって、ことしの夏も楽しい歌を聞かせてもらいたいね・・・・キリギリスは、うれし涙をポロポロこぼしました。」で終わっています。

なんという寛大な心でしょうか。
でも次の年になると、キリギリスは恩をすっかり忘れ、再び毎日歌を歌うようになります。
今の日本の金融機関、まさにそうです。

ギャンブルで勝ったときは羽振りの良い生活をしていて、負けた時は誰かが何とかしてくれる、こんなウマイ話はありません。この連中は永久に生活態度を改めようとはしないでしょう。
人間、一度は痛い目にあわないと、なかなか変わらないものです。
金融機関には、お灸をすえることも大事です。

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