カラオケは「擬似コミュニケーション」のツール
会合や宴席の二次会=カラオケ、という風になったのはいつ頃からだろうか。
カラオケの発達史を見ると、
1971年 カラオケの発明
1980年代半ば カラオケボックスの出現
1992年 通信カラオケの登場
となっているので、もうかれこれ20年は経つと考えて良いだろう。
二次会の目的というのはメインの会合や宴席が終わった後、いわゆるショバを変えて、あるいは参加者のメンバーを絞って、更にコミュニケーションを深めるということにある。会合が商談や交渉の場合は、飲食を伴って本音の議論や腹を割った会話が行われる場であった。
ホステス(「女の子」)がいる店が好まれたのも、男同士のコミュニケーションでは女性がいた方が話が弾むからだ。
しかしカラオケの登場で状況は一変する。カラオケスナックなるものに入っても、席に座るやいなや、いきなり分厚い歌の索引が配られマイクが回される。客はひたすら自分が歌う曲の選曲に没頭し、次々と曲の番号をリクエストする。その後は時間を惜しむかのようにひたすら歌い続ける。一応他人の歌を聞く振りはして、歌唱が終わると「ヨーヨー」と声をかけて拍手したりするが、関心は次の自分の選曲や順番待ちの確認に向かっている。
ホステスなど一応存在はしていても、要はカラオケのオペレーターであり、接客の技も能力もそこには無い。
ホステスに外国人が多数を占めるようになったのは、接客の必要が無くなったからだ。会話が要らなければ、日本語が喋れなくても問題がない。
これを局限化したのがカラオケボックス(ルーム)であり、ここでは密室の中で歌いまくるという機能しかない。しぶしぶ付き合わされて人にとっては、まるで強制収容所である。
カラオケで楽しんでいるグループは外見上は和気藹々と映るが、実際には何もコミュニケーションはしていない。
第一、あの狭い空間の中の大音量では、会話が成り立たない。せっかく二次会に行ったのに、一言も言葉を交わさずに終わることになる。
そこにあるのは双方向の意志の伝達ではなく、歌い手と聞き手という一方的関係が交互に繰り返されるだけだ。
そうしてみるとカラオケというのは、実際はコミュニケーションせずに外形上コミュニケーションしているように錯覚させる、「擬似コミュニケーション」ツールなのかも知れない。
当たり障りなく付き合い、相手の心には絶対に踏み込まない今の時代の対人関係の反映だと言えよう。
そう考えれば、カラオケの出現は時代の要請なのだろう。
以前のエントリーで、“ブログは書くカラオケ”としたが、ブログにもそういう面はある。
希薄な人間関係を、もっともらしく覆い隠す「擬似コミュニケーション」という点では、共通性がある。
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