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2008/11/30

「円楽一門落語会」@国立演芸場

落語からの引退を表明して以来初めて、三遊亭圓楽が高座に戻ってきた国立演芸場での「円楽一門落語会」。11月27日から3日間の興行で、楽日の29日に出向く。
満員の観客の恐らく半分は、圓楽の顔を見に来たのではなかろうか。
一門は普段の寄席(定席)には出演しないため、初見の噺家も多く、その分楽しみでもあった。

・三遊亭橘也「強情灸」
開演前に高座に上がり開口一番、しっかりしていると思ったら二ツ目だ。前半は快調だったが、兄いが灸を熱がる肝心の場面で薄味。
・三遊亭王楽「つる」
NHK新人演芸大賞を受賞し、来年は真打になる王楽だが、巡り合わせからか未だ感心する高座に出会ったことがない。それと、マクラがいつ聴いても同じというのも、芸が無い気がする。
・好二郎改メ三遊亭兼好「饅頭こわい」
圓楽一門で一番の期待の星である。口調が爽やかで聴き易いのが先ず良い。真打昇進の高座でネタが「まん・こわ」では寂しい気がしたが、噺はしっかりしていた。
・ミスター梅介「法律漫談」
ただつまらない。こういう芸人に限って「今日の客は・・・」などと言い出すので不快。
・三遊亭小円朝「家見舞い」
良く言えば渋いのだが、年の割に老成した印象を受ける。甕を買いに行く二人の演じ分けが足りないので平板な出来となった。
・三遊亭楽之介「佐々木政談」
子どもが喋る場面では、子どもの喋りかたをして欲しい。大師匠、圓生の高座をもっと勉強して見習って欲しいところだ。

―仲入り―
・三遊亭円楽「隋談」
スーツ姿で、椅子と机の高座。想像していたより血色も良く、元気そうだった。弟子達の活躍ぶりを紹介する一方、いくつか小咄も演じ、相変わらず芸の確かさを見せてくれた。
師匠、圓生が昭和天皇皇后の前で落語を演じた時のエピソード、
“笑点”を知っていたこと
実に良く笑っておられたこと
天皇が感謝の言葉を一言述べる時もメモを読んでいたこと
など、初めて聴いたが楽しかった。
圓楽の芸風は大らかで明るいのが特長だが、この芸風を誰が継承していけるのだろう。
・三遊亭竜楽「金明竹」
金明竹の口上を早口で一気には見事。
・丸一仙翁社中「江戸太神楽」
久々に下手な太神楽を見た。
・三遊亭円橘「雁風呂」
珍しいネタで、最近はあまり高座に掛かっていない。このネタは水戸黄門の風格と、かつての上方の大商人・淀屋の品が出るかどうかが眼目だが、円橘は見事に演じ分けて確かな芸を見せた。
楽日のトリに相応しい高座だったと思う。

圓楽の元気な姿を見られた以外は、全体としてはやや不満の残る一門の高座だった。
来年楽太郎の圓楽襲名というお目出度いニュースはあるものの、人気と実力を兼ね備えた弟子が少なく、当代の圓楽引退後、興行面を含めた一門の結束は大きな課題となるだろう。

当日の一部の観客に一言。出演者の誰かれとなく掛け声を掛けていた無粋な客がいたが、こういうのは贔屓の引き倒しであり、却って雰囲気を損ねる。

2008/11/28

「みのもんた症候群」の方々に

「みのもんた症候群」という言葉をどこかで聞かれたことがあるでしょう。これはみのもんたが司会を務めていた「午後は○○おもいッきりテレビ」や、現在司会を務める「おもいッきりイイ!!テレビ」などの番組を見た視聴者がその内容を信用して実行し体調を崩して医者にかかる人が増えたため、医療機関の間で生まれ言葉です。
時には救急車で運ばれてくる重症患者もいるそうですから、注意が肝要です。
私は頻繁にスーパーを利用していますが、ある日店頭から特定の商品が消えるという経験があり、確かにこういう人々がいるのは事実でしょう。

当ブログでも過去何回かとりあげてきましたが、TVや新聞などのメディアでは、特に「健康」や「環境」に関しては、ニセ情報が氾濫しています。「血液型」だの「マイナスイオン」だの「水からの伝言」だの、繰り返し科学的根拠がないことを指摘されているにもかかわらず、依然として信じる人がいます。
この辺りは、「振り込め詐欺」の被害と共通性があるのでしょう。
もしかしたら、人間には騙されたいという願望が心の中にあるかも知れません。

「メディア・バイアス」(松永和紀著、光文社親書)には、こうしたニセ情報が繰り返される構図について、興味深い指摘がされています。
先ず、マスコミなどのメディアというのは、視聴率を上げたい、発行部数を稼ぎたいという思惑から、どうしても特異な記事をとりあげるという習性があります。
例えば「ダイエット」ですが、やせるためにはカロリーの摂取を減らすか、運動などでカロリーを沢山消費するか、いずれかの方法しかありません。こんなことは子どもでも分かります。
処が、こうした事実を放送しても誰も視てくれない。それより「〇〇を食べると痩せられる」という番組の方がインパストがあり、視聴率が稼げるのです。
1000人のうち999人が主張することより、一人だけが主張している学説が採りあげられるのは、こうした理由からです。

次に、科学記事を提供するフリーの科学ライターの原稿料というのが、およそ原稿1枚あたり1-3万円だそうです。厳密な記事を書こうとすると多額な調査費用がかかってしまう。その結果書いたものにインパストがなければ、次の原稿依頼が来なくなります。
それに対して、「〇〇が危ない」という原稿を書く場合には大した調査を必要とせず、一方記事にインパクトがあれば次々と原稿依頼がくるという仕組みです。
つまり生活のためには、ヨタ記事を書く科学ライターの方が収入が多いという結果になる。これがもう一つの要因です。
この場合、「XXが危ない」と書くと、後でXXに危険性が無いことが判明した場合、虚偽を書いたことになります。そこでライターは、「A大学のB教授がXXが危ないと言っている。」と書くことになります。これなら後で事実に反していても、責任を問われることがないわけです。

そこで登場するのが、珍説を主張したり、トンデモ理論を発表したりする「科学者」の存在です。
大学教授だのOO博士だのという肩書きで登場して、もっともらしい「学説」を紹介するわけです。
良く観察すると、こうした「学者」は特定の人物であり、あちらの番組こちらの番組に出ては、トンデモ理論を繰り返しているそうですから要注意ですね。
それなら別の科学者が、その誤りを指摘すれば良いのでしょうが、そんな事をしても何の得にもならないし、第一そうした反論をメディアが採りあげてくれない。
もう一つには、あまりに荒唐無稽な理論だと、まともに反論することさえバカバカしいという事情もあるようです。
かくしてメディアの世界では、エセ科学者がノサバルという事態が起こるのです。

勿論、こうしたニセ情報を流して儲けている企業の存在も無視できません。
有名な所では、「バイオ燃料」が地球温暖化防止に寄与すると大宣伝されましたが、結果はどうだったでしょうか。世界的な食糧危機を招く一方、特定の農産物を生産している国や企業を始め、商品先物取引などで多大な利益が得る人たちを生み出してしまいました。
彼らは、時に消費者団体や環境保護のNGOなども利用するので、注意が必要です。

先にあげた書籍「メディア・バイアス」では、ニセ情報を見破るための注意事項がいくつか書かれています。
例えば、
・先ず疑ってみる。
・「〇〇を食べれば」というような単純な情報を排除する。
・「危険」「効く」などの断定的な情報はまず警戒する。
・その情報によって誰が得するかを考える。
・体験談は冷静に判断する。
・その情報がどこから発信されたのか注目する。
・他の情報と比較する。
などなどです。

これらの注意事項は環境や健康情報だけではなく、政治経済を含むあらゆる情報にも適用できそうです。

2008/11/27

宰相呆け易く字読み難し

麻生詩
    宋 出朱可
宰相易呆字難読
一寸放言不可輕
未覺酒店雪茄夢
弧城落月已秋風

宰相 呆け易く  字 読み難し,
一寸の放言  輕んず可(べ)からず。
未だ覺(さ)めず 酒店(ホテル)雪茄(シガー)の夢,
弧城落月  已(すで)に 秋風。

*********************
(オリジナル)
偶成詩
     宋 朱熹
少年易老學難成
一寸光陰不可輕
未覺池塘春草夢
階前梧葉已秋聲

少年 老い易く  學 成り難し,
一寸の 光陰  輕んず 可からず。
未だ覺めず 池塘  春草の夢,
階前の 梧葉は  已に 秋聲。


猪口山人さんの顰に倣い、時々パロディにトライしていますが、なかなか師匠のように上手に出来ません。

2008/11/26

メディアは推理ゲームを止めよ

元厚生事務次官とその家族に対する連続殺傷事件は、小泉毅容疑者の犯行との見方が固まったが、マスメディアは今度は犯行動機について、相変わらず専門家だの評論家だのという人物を招いて、推論を披瀝させている。
ついこの間まで、そうした人々が犯人像をあれこれ推測していたが、蓋を開けてみれば正答率は1割にも達していなかったと思われる。その同じ人間に訊いたところで、何の意味もない。
井戸端会議レベルのことを、メディアがやっていては困るのだ。

過去にもこうした重大犯罪が起きると、必ず犯行動機が問題とされ、その犯人の心理分析が行われていた。
しかし人間の心の中ほど不可解なものは無い。夫婦、親子といえでも相手の心が分かるわけではない。まして赤の他人の心理など、分かる筈が無いのだ。
時には「オレ、何であんな事したんだろう」と、自分の行動でさえ説明つかないことだってある。
話は飛躍するが、以前の「忠臣蔵の謎と真実」というエントリーでも書いたが、殿中で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた事件について、浅野内匠頭の犯行動機は今もって分からないのだ。分からないからこそ後世の人々は色々な推理をめぐらし、物語が書ける。
小泉毅容疑者に統合失調症の疑いも指摘されているが、少なくともノーマルとはいえまい。いずれにしろ容疑者の精神鑑定が行われるだろうから、その結論を待つしかない。
幼女連続殺人事件の宮崎勤や、池田小学校の児童殺傷事件の宅間守の心理や犯行動機を、「オレはよーく分かるよ」という人がいたら、そっちの方が変だろう。
動機がうまく説明つかないと「心の闇」で片付けるのだから、実にいい気なものだ。

メディアの一部に、容疑者がアパート住まいだったことから、無職なのに家賃を払っていたのがおかしいという指摘がある。無職だろうと何だろうと、借家に住んでいれば家賃を払うのは当然で、払わない方がおかしいのだ。
「無職」とは無職業の略称であり、「職業が定まっていない状態」を指す。従って、必ずしも無職=無収入ということではない。
小泉容疑者には多額の借金があったと伝えられているが、世の中には無職で借家住まいの人も沢山おられる。一方的な推論は、そうした人たちに対して失礼ではないか。

捜査当局としては今後、共犯者や背後関係の有無について調べることになる。現在の所、私たちは当局の厳正な捜査を見守るしかない。
メディアの報道は事実を公正かつ正確に伝えれば良いのであって、推理ゲームは電波の無駄使いになるだけだ。

なおこの事件を未だに連続テロと称しているメディア(例えば"YOMIURI ON LINE")があるが、どういう神経だろうか。
「小泉毅がテロリストならば蝶々蜻蛉も鳥のうち」。

2008/11/25

最高だった「イアン・ボストリッジ」@トッパンホール

Photo11月24日トッパンホールで行われたイアン・ボストリッジのコンサートは、シリーズ「歌曲(リート)の森」~詩と音楽第二編~として、主にハイリッヒ・ハイネの詩に、シューマンとブラームスが曲を付けたものを中心に選曲されていた。
ボストリッジというとつい数年前までは「新鋭」という肩書きがついていたが、今や世界的なテノールの声楽家として名声を博している。

CDの録音を聴いて、身長の高いスリムな人を想像していたが、その通りだった。風貌は歌手というよりは学者、研究者に近い。それもその筈ボストリッジは、オックスフォード大学で歴史学と哲学を学び、博士号を取得して後に、本格的に歌手としてのキャリアをスタートさせた。
当日のプログラムの前書きで磯山雅という人が面白いことを書いている。それは声楽を学ぶ学生は歌曲とオペラに専攻が分かれる。歌曲を選ぶ人は、声量はもうひとつだが繊細な感受性に秀でた人が多く、その結果博士課程は歌曲の人によって占められるのだそうだ。オペラ専攻に人に叱られそうだが、適正ということからすれば、そういう面があるのだろう。

当日のプログラムは次の通り。

イアン・ボストリッジ(テノール)
ジュリアス・ドレイク(ピアノ)

シューマン:きみの顔 Op.127-2
シューマン:きみの頬を寄せたまえ Op.142-2
シューマン:ぼくの愛はかがやき渡る Op.127-3
シューマン:ぼくの馬車はゆっくりと行く Op.142-4
シューマン:《リーダークライス》 Op.24
(休憩)
ブラームス:夏の夕べ Op.85-1
ブラームス:月の光 Op.85-2
ブラームス:海をゆく Op.96-4
ブラームス:死、それは冷たい夜 Op.96-1
ブラームス:《プラーテンとダウマーの詩による 9つのリートと歌》 Op.32(*)
註)詩はいずれもハイリッヒ・ハイネで、*印の作品のみブラーテンとダウマー

ハイネの詩は詩集「歌の本」から選ばれているようで、従妹に失恋した心の悲しみを詠ったものが多い。
解説によれば、シューマンの作品はクララとの恋の悩みを重ねたものとある。
そういえば私も若かりし頃、毎夜ハイネの詩集を開き、恋の悩みに浸ったことがあったっけ。本当ですよ。
ブラーテンは「憂愁の詩人」と呼ばれ、一方ダウマーは翻訳家で今回の作品はペルシャの詩人ハーフィズの訳詩とのこと。

リートの歌手の多くは一ヶ所に立ってあまり動かないが、ボストリッジは常に身体を動かしながら歌う。舞台を前後左右に、ある時はピアノに寄りかかり、ある時は両手をポケットに入れたり胸の前で組んだり、顔も右に左に前に、それも上を向いたり下を向いたり、ジッとしていることは殆んどない。

さてコンサートの感想だが、これが実に良かった。どう良かったは言葉に表せないほどだ。例えて言えば、とても美味しい料理を食べた時「美味い!」としか言えない、それと同じである。
ボストリッジの特長は先ずは声だ、リリックなテノールで素晴らしい美声の持ち主である。どの曲も表情豊かに歌い上げるのだが、それでいて爽やかなのだ。ビールでいえば、コクがあるのにキレがあるという所だろうか。
それにドイツ語の美しさだ。人間というものは、かくも美しい言葉を紡ぐものかと感心させられる。
加えて伴奏のジュリアス・ドレイクのピアノが又実に良い。胸に染み入るような音は、時に胸が締め付けられるような切なさを覚えた。

この日の観客のマナーも良かった。歌が終わりピアノの終音が完全に消え、静寂の時を経て後に拍手が起きた。コンサートの中には、曲が終わるや否や拍手を送る野暮な客も多い昨今である。
観客も演奏会の一員であることを改めて認識した。
私が聴いたクラシックコンサートの中でも、今回がベストだったと思う。

2008/11/24

やっぱり「テロのから騒ぎ」

Koizumi_tsuyoshi元厚生省事務次官らに対する殺傷事件は、犯人を自称する男が警視庁に出頭して急展開した。今のところ警察は小泉毅容疑者が真犯人かどうか詰めの捜査を進めているが、状況から見て犯人である可能性が高い。動機も今後解明されるだろうが、出頭直前に報道機関に送ったメールなどによれば、子どもの頃に飼っていた犬を保健所で処分された恨みを口にしているようだ。

私にも子どもの時に同じ経験がある。飼い犬がやたら吠えるので近所から苦情が絶えず、保健所へ犬を連れて行って処分して貰った。ただこれは私自身の意志で行った点が、小泉容疑者のケースとは異なる。人間の都合で飼ったペットは、人間の都合で処分せざるを得ない。そう思ったから、以後いっさいペットを飼わないことを誓い、実行している。
ペットの処分は保健所の責任ではなく、飼い主が負わなくてはならない。
小泉容疑者のペット云々というのは自分の犯行に対する口実であって、社会への恨みといういわれ無き犯行動機が基底にあるのではなかろうか。

事件が明らかになった翌日のTVニュースと新聞各紙は、「テロ」の文字で踊っていた。マスコミ各社が一斉に「テロ」の想定に走ったのは、捜査当局の情報に拠るものだったことは疑いない。
ニュース番組やワイドショーなどにはいつもの通り、専門家と称する人物が次々と登場し、テロの可能性やらテロリストの人物像やらを解説していた。私がみた範囲では、一人だけ池田小学校や秋葉原の殺人事件と犯人像を重ねて指摘していたが、この人を除き全ては的外れだったことになる。
当ブログではこうした報道姿勢に疑問を呈し、21日付けのエントリー「テロのから騒ぎ」を掲載している。
殺人事件も恐ろしいが、こうした付和雷同型のマスコミの報道姿勢も恐い。

「テロのから騒ぎ」の背景には、捜査当局には、この事件がテロであって欲しいという一種の願望があったのではなかろうか。そこに騒ぎを大きくして視聴率を稼ぎたいマスコミが飛びついたという構図だ。
19日に麻生首相は「単なる傷害、殺人事件なのか、そうではないのか。それ以上のことは分からない段階でコメントはできない」と述べたことに対し、「政治的目的を持った暴力への感覚が鈍感過ぎる」との批判がなされたが、これは首相が正しい。珍しく麻生総理の鈍感力がまさった恰好となった。

テロであろうとなかろうと、このような事件は到底許しがたい。
今回の容疑者の動機についてある厚労省元幹部が、「こんな理由では被害者の無念が募るだろう」と述べていたが、どんな理由にせよ被害者の方々とその家族の無念に変わりはない筈だ。
社会への不満を募らせ、やがてそれが特定又は不特定の人間に対する殺意につながり暴発していくといった犯罪は、これからますます増えていくだろう。それに対する有効な手立てが無いのが、実に憂鬱だ。

2008/11/23

アルメニア・フィルハーモニー管弦楽団@東京OC

Manoukian先年エルサレムを訪問した際に、アルメニア正教の立派な教会があり驚いたことがある。その時アルメニアが世界で最初にキリスト教を承認した国であることを知った。だから今でもアルメニア正教は権威があるのだ。
アルメニアは又、ハチャトリアンを生んだ国としても知られている。
ソ連時代はソ連邦に組み込まれていたが、現在は独立して独立国家共同体(CIS)の一員となっている。
その国からアルメニア・フィルハーモニー管絃楽団が初来日しての公演、11月22日は東京オペラシティでの演奏会があった。楽団の設立当時からロシアとの関係が深く、現在も演奏曲目の多くはロシアの作曲家の作品が多いようだ。
いつものクラシックコンサートに比べ若い観客が多かったようだが、演奏曲目がポピュラーな選曲のせいだろうか。

指揮者:エドゥアルド・トプチャン
ヴァイオリン:カトリーヌ・マヌーキアン(写真)
管弦楽:アルメニア・フィルハーモニー管弦楽団
(コンサートマスター:セルゲー・アジジアン)
マヌーキアンはカナダ人だがアルメニアの血をひいているとのこと。

当日のプログラムは次の通り。
ハチャトゥリアン 「バレエ組曲「ガイーヌ」より 剣の舞、レスギンカ舞曲 ほか」
チャイコフスキー 「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」
リムスキー=コルサコフ 「交響組曲『シェヘラザード』」

一曲目のハチャトリアン「ガイーヌ」よりの演奏が始まる。生き生きとした楽しそうな演奏ぶりで、自国の偉大な作曲家への誇りを感じる。
二曲目のチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」だが、実はライブでこの曲を聴くのは初めてだった。ヴァイオリニストの高度な技巧が要求される、難曲中の難曲だということが良く分かった。
マヌーキアンに一言、舞台ではもっと優雅に歩いて欲しい。私が見たところでは、一流の演者は揃って立ち振る舞いが優雅である。
隣席の若い男性は演奏開始後すぐに熟睡状態に入り、演奏終了直前に目を覚ましていたが、終わると盛大な拍手を送り続けていた。演奏者は拍手に騙されぬよう気を付けねばなるまい。
三曲目のリムスキー=コルサコフ「シェヘラザード」は、スマートさよりエネルギッシュで泥臭さが強い演奏だったと思う。こういう演奏もアリだろうが、ただ全体にやや粗い印象を受けた。
アンコール曲はボロディンの「ダッタン人の踊り」を、これも楽しそうに。

こういう肩の凝らないコンサートも良い。

2008/11/21

「テロ」のから騒ぎ

11月18日に、さいたま市で山口剛彦さん(66)とその妻美知子さん(61)の遺体が発見され、東京中野区では吉原健二さん(76)の妻靖子さん(72)が重傷を負うという痛ましい事件が起きた。現場の状況から山口さん夫妻は前日の17日に殺害されてと見られている。
現在までに判明しているのは、3人とも刃物で刺されたという事実と、意識が回復した吉原靖子さんの証言で、犯人が年齢30-40歳位で、身長が165cm程度だったということ、宅配便を装って玄関を開けさせいきなり刺したということだけだ。
警察はテロの可能性も視野に入れた捜査をしているとの報道である。
分かっていることはこれだけだ。

TVや新聞は連日このニュースを大きく伝えているが、先ず気になるのは「連続殺傷事件」という名称だ。確かに二つの事件は同日に発生が確認され、殺人の被害者と傷害の被害者の夫が共に元厚生省事務次官だったという共通項がある。
しかし犯行場所も日にちも異なる二つの事件を、「連続」と断定する根拠はなんだろう。現時点ではそれぞれが単独で起きた事件であるとの可能性も否定できない。
同一犯人(グループ)との確証がない時点で、こうした断定をするのは早計ではなかろうか。

政府の声明や各党の談話の中で、決まって「もしこれが年金問題や厚労省を狙ったテロなら、絶対に許すことができない」としているが、これはおかしい。
テロであろうとなかろうと、今回の犯罪は到底許されるものではない。

吉原さんと山口さんの接点は次の通りである。
①吉原さんが39年に三重県に出向しているが、山口さんも48年に同じく三重県に出向した。
②吉原さんが59年に旧厚生省の年金局長だった時に、山口さんは同局課長で上司と部下の関係だった。その後二人とも事務次官に昇進している。
報道では専ら年金問題に不満を抱いた人物による連続テロという推測が行われているようだが、お二人の接点は遠い昔のことである。共同して年金改革の実務を行っていたとされるが、一般に広く知られていたわけではない。

テロリストの犯行であれば世間へのアピールを狙って、通常はもっと分かり易いターゲットを設定するのではなかろうか。20-30年前のしかも実務者を狙って、どういう得があるのだろう。
年金問題は実務者を責めても仕方がない。官僚は決められた政策を実行に移すだけで、それ以上の権限はない。
年金問題の本質は、政府の社会保障費抑制政策の結果であり、保険料はしっかり取るが保険金は出来るだけ払いたくないという方針によって引き起された。社会保険庁のサボタージュもこうした文脈の上で起きており、当時はむしろサボタージュが奨励されていたのではなかろうか。
責められるべきは歴代の政権であり、厚生大臣や厚生族議員たちだ。
もしこれがテロなら、犯人たちは実に見当違いな行動をしていることになる。

こうして見ていくと、今の時点で予断を持つことは禁物だ。怨恨や物盗りの線だって、完全に否定はできない。あるいは明確な動機のない犯行かも分からない。
それに流行かも知れないが、近ごろやたらに「テロ」という言葉を簡単に使い過ぎる。単なる火付け強盗の類まで「テロ」呼ばわりされていて、余りに安売りされ過ぎている観がある。
相変わらず各ニュース番組に専門家なる者がゲストに呼ばれ、犯人像だの背景だのを推理しているが、過去の例からしても当たったためしがない。
ニュース番組は推理ゲームの場ではない。あくまで事実を正確に伝えることが本分だ。
誤った予見は捜査を遅らせる原因ともなるので、節度をもった報道を望みたい。

2008/11/20

劇団大阪「流星に捧げる」

大阪で活動する劇団大阪の第65回本公演は山田太一作「流星に捧げる」で、友人の齋藤誠が主演ということで、11月16日谷町劇場での公演に出掛けた。
山田太一の世界というのは、山田洋次監督の世界と共通するところがある。作中の人物に悪人が出てこない、全て善意の人々で構成されている。現実の社会では有り得ないメルヘンの世界。社会の現実を直視するというよりは、この世の中の精神安定剤的な役割を果たしているのと思われる。
山田洋次の「寅さん」シリーズが、実は自民党政治を陰で支えているとの悪口が聞かれるが、こうした傾向を指摘しているのだろう。

主なスタッフと、公演日のキャストは次の通り。
<スタッフ>
作/山田太一
演出/和田幸子   
舞台美術/石野 実
<キャスト>
ユニフォーム会社経営者=上田啓輔
車椅子の老人=齋藤 誠
保険外交員=中村みどり
老人の家政婦=梁 礼子
“善意”の女性=名取由美子
出社拒否症の女性=伊藤節子
工務店営業マン=伊原遼太
30代フリーター=熊谷志朗

物語は、
あるインターネットのサイトに「動かない風見鶏 車椅子の老人 ひとり」という書き込みがあった。書き込みの主は、大きな屋敷にひとりで住んでいる車椅子の老人で、他には家政婦が通ってくるだけだ。その書き込みを見て、思惑を持った人や他人との触れ合いを求めてきた人など、様々な事情を抱えた人々が集まってくる。最初はバラバラだった人たちがやがて主人を中心とした擬似家族を演じるようになるが・・・。

典型的な山田太一ワールドであり、人間賛歌であり、観ていてホノボノとした気分に浸れる。しかし各自が抱えていた問題は何ひとつ解決されないし、その見通しもない。メルヘンと書いた所以はその辺りだ。
気持ち良さに浸っていられるか、一歩ひいてシラケルかで芝居の評価は分かれよう。

出演者では上田啓輔が安定した演技で、齋藤誠が痴呆老人を真に迫った演技で見せ、中村みどりが舞台をシメテいた。他では名取由美子がつかみ所の無い役を好演していた。
固定された舞台セットは良く工夫されていて、最後に風見鶏がアップされるシーンは感動的だった。

アマチュア劇団というのは大変なのだろう。仕事を持っての公演は週末に限られるし、稽古時間も十分取れるわけではない。
役者は時には照明や大道具小道具の係りをやったり、会場受付や整理もこなしたり、一人で何役もやらねばならない。
舞台でセリフを忘れたり飛ばしたりも日常茶飯事だろう。しかしそこまでしてなお芝居をしたいという要求、これこそがアマチュア劇団の良さであり、プロの劇団と異なるところだ。
劇団大阪の芝居は今回で3回目になるが、いつも暖かい家族的な雰囲気を感じる。

2008/11/19

「ビリー・ジョエル」@東京ドーム

Billyjoel♪雨の降る夜にはビリー・ジョエル・・・♪
桑田佳祐が作詞・曲の「私はピアノ」の一節だ。ロックに馴染のない人でも、ビリー・ジョエルの名前は知っている人は多いだろう。現役では最高のスーパースターと言って良い。
11月18日東京ドームで、そのビリーのコンサートが行われた。

ビリー・ジョエルのソロ・デビューアルバムは1971年、最初のヒットアルバムは1973年で、グラミー賞授賞アルバムが77、78、80年だから、彼の最盛期はおよそ30年前ということになる。その頃のファンは今では45~50歳代になっているので、さぞかし中年の人たちが中心かと思いきや、若い観客が多いので驚いた。世代を超えてファン層を拡大している証拠だろう。
周囲を見渡したところでは、私が最年長だったかも知れない。

コンサートは「ストレンジャー」で幕開け、「素顔のままで」「ムーヴィン・アウト」「マイ・ライフ」「ビッグ・ショット」「オネスティ」「プレッシャー」「アレンタウン」などビリーの代表的なヒット曲が次々と披露され、最後はアンコール曲の「ピアノマン」まで、途中休憩無しの約2時間歌い続けた。曲の大半はピアノの弾き語りで、ギターを鳴らしハーモニカを吹くという大活躍。
来日公演を重ねているせいか日本の観客へのアピールも上手く、アンコール曲では前奏に「さくら」や「上を向いて歩こう」を弾くなどサービス精神も十分。先ずはこのパワーに圧倒される。

彼は来年で60歳を迎える。体形や声音こそ若い頃とは変わっているが、声量や歌唱力には全く衰えを感じさせない。むしろ今の方がパワフルになったのではと思わせるほど、精力的だ。
注文をつけるとすれば、バックバンド特にドラムスの音量が大き過ぎた。ビリーの歌に流れる哀愁や情感溢れる表現が大音量に打ち消されてしまった。少なくとも「素顔のままで」や「オネスティ」などの曲では、アコースティックなサウンドの演奏をバックにビリーの歌を聴きたかった。

何はともあれ、ビリー・ジョエルのコンサートを観られただけで満足した。

2008/11/13

トヨタ・奥田碩の「報復」発言

12日に行われた政府の「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」の席上、奥田碩座長(トヨタ自動車相談役)は厚労省に関するテレビなどの報道について、次のように発言しました。
「朝から晩まで年金や保険のことで厚労省たたきをやっている。あれだけたたかれるのは異常な話。正直言ってマスコミに報復してやろうか。スポンサーでも降りてやろうかと。」
「ああいう番組に出てくるスポンサーは大きな会社ではない。地方の中小とかパチンコとか。」

同懇談会は、年金記録問題や薬害肝炎問題などで国民の不信を招いた厚労行政の改革を議論するために設置されたものですが、奥田座長は改革どころか先ず「報復」を主張し出したわけです。
奥田碩といえば長期にわたりトヨタ自動車の社長会長をつとめ、1999年の日経連会長就任以来、2002年から2006年まで日本経団連の会長として常に財界トップの地位にあった人物で、格差社会を生んだ立役者です。
彼が先頭に立って推進した政策により医療危機やワーキングプアの増大を招き、それが厚生労働省への国民の批判をもたらしたのですから、相当にイライラしているのでしょう。

その矛先をマスコミに向けて、報道内容に圧力をかけることを宣言した今回の奥田発言は、決して見逃すことはできません。
トヨタ自動車は確かに日本を代表する大手企業ですが、報道番組のスポンサー企業を「大きな会社ではない地方の中小とかパチンコとか」などと蔑むのは、失礼千万です。

トヨタ自動車は6日の中間決算発表の際に、およそ5800人の期間従業員を来年3月末までに削減するとの計画を発表しました。
かつて「派遣・期間従業員は使い捨ての奴隷である」と奥田碩氏は述べたことがありますが、これだけ社会的批判が強まる中で、敢えて弱い立場の従業員を切り捨てるのも、やはり「トヨタの報復」ですか。

2008/11/12

“チャンス”と“chance”では意味が違う

兵庫県の井戸敏三知事が11日の近畿ブロック知事会議の席上で行った「関東大震災が起きれば相当ダメージを受けるから、これはチャンス。チャンスを生かさないといけない」という発言が問題になっている。
この件で井戸知事は「チャンスは機会という意味だ」と釈明していたが、これは違う。

先ず“chance”を英和辞典で引くと、次のようになっている。
━ n. 機会, 好機; 偶然, 運; はずみ; 危険, 冒険; 見込み, 勝ち目, 可能性; 宝くじ券.
確かに良い意味にも悪い意味にも使われるようだ。
一方“チャンス”の意味を国語辞書で調べると、次のようになっている。
━ 機会。特に、あることをするのに絶好の時期。好機。
つまり“チャンス”と“chance”は意味が違うのだ。

同じ“機会”をあらわす英単語として“opportunity”があるが、こちらの方は
━ (よい)機会、好機
という意味だ。
日本語で使われる“チャンス”という表現は、英語では“chance”より“opportunity”に近い。
従って、井戸知事の発言の真意は「関東大震災が起これば、これは好機だ。」ということになり、明らかに不適切な発言である。

井戸知事殿、こういう屁理屈を並べて強弁していると、「井(戸)の中の蛙」と言われてしまいますよ。

麻生首相が会見や演説の中で、「ふしゅう」と意味不明の言葉を連発しているが、これがどうやら「踏襲(とうしゅう)」を読み違いしているらしい。字が読めないのだ。学習院という学校は、日本語を教えないのかしらん。
安倍晋三といい麻生太郎といい、どうも「あ」で始まる総理は、日本語が苦手のようだ。

談春の名演「文七元結」

Danshun5寄席好きの人に二つのタイプがある。ひとつは落語好きであり、もうひとつが落語家好きだ。後者は特定(複数の場合あり)の噺家の出番を追い求めて寄席に通う人だ。博愛と偏愛。
文芸評論家の福田和也はこう書いている。「談春一人いれば、あとはいらない。落語家が全員死んでも何の痛痒もない」と。こうまで言われりゃ芸人冥利に尽きるというものだが、「その他の落語家」は甚だ面白くなかろう。

人情噺の代表的演目に「文七元結」がある。歴代の名人上手はもとより、人情噺を手がける噺家なら誰もが一度は高座にかける作品だ。近年では寄席通の間で古今亭志ん朝の名演が知られている。
ストーリーはこんな風だ。
博打に狂った長兵衛は娘・お久が身を売って作ってくれた50両を、店の金を失くしたと思い込み身投げしようとしている文七に譲ってしまう。その金をめぐって長兵衛夫婦は夜通しの大喧嘩。そこへ文七を伴った主人近江屋が礼に訪れて・・・。

この演目には三つの大きな山場がある。先ず吉原の佐野槌の女将が長兵衛に意見して50両を貸す場面、次いで吾妻橋の上で長兵衛が文七に50両を投げる場面、そして長屋での長兵衛夫婦の喧嘩の場面だ。
このどのシーンに力点を置くかは演者によって異なる。圓楽なら夫婦喧嘩、志ん朝なら吾妻橋。彦六の先代正蔵の場合は極端で、佐野槌の場面をカットしていた。それぞれに良さがあり、甲乙つけ難いというのが私の感想だ。

立川談春の文七を初めて高座で観たときは、衝撃を受けた。今までの演者の解釈とは大きく異なるのだ。
談春の演出の最大のポイントは、佐野槌の女将に焦点を当てたことだ。
周囲にギャンブル狂いがいる人ならお分かりのように、好きな博打を止めさせるのは並大抵ではない。説教してもその場限りで、じきに気が変わってしまう。その長兵衛を改心させるには、それ相当の説得力が必要だと談春は考えたのだろう。
博打打ちというのは博打を職業としている人間だ。丁半の賽の目なのになんで片方が確実に儲かるのか、それはイカサマしかない。だから胴元だけが勝ち、素人は必ず負けるのだと女将が長兵衛に説く。
勝ち負けは運次第だと信じていた長兵衛が、ここで目が醒める。
自身が博打好きな談春だからこそ思い付く演出である。

もう一つは女将が貸す50両と言う大金の根拠だ。今の貨幣価値に直せば500万円に相当するだろう。金を返せば娘は店に出さないという条件なのだから、返済の見込みが無ければ貸せる金額ではない。
そこで賭博の胴元が長兵衛に50両を貸していた事実に注目する。バクチのプロが貸すということは、長兵衛の左官の腕を見込んでのことであり、女将はバクチのプロの目を通して返済の可能性を探ったのだ。
もう二度と博打に手を出すことは無いだろうという見通しと、50両の返済は現実性があると踏んで、佐野槌の女将は金を用立てる。
生き馬の目を抜く吉原の大見世の女将だ。そうしたシタタカさは当然だろう。
談春の高座を観て、初めてこのネタにリアリティを感じた。

立川談春の「文七元結」はまだまだ発展途上だと思う。
これから更にどうような演出上の工夫が加えられていくのか、楽しみだ。

2008/11/11

「名ばかり真打」量産でいいの?

今年両協会合わせて新真打が8名誕生した。ここ数年、多数の真打が同時昇進することが常態化している。それ自体はおめでたいことではあるが、果たして手放しで喜んで良いのだろうか。文句なしに実力の備わった人もいれば、素人の私から見ても首を傾げる人が真打になっているのも事実である。
「真打」は辞書で引くと、こう書かれている。
(1)寄席などでその日の最後に出演してすぐれた芸を演ずる人。最上級格の人。真(しん)。
(2)落語家などの最高の資格。興行の主任をつとめることができる。現在は上方の落語家には用いない。
つまり東京の落語家としては最高位であり、トリをつとめることが出来る噺家ということになる。

処が実際はどうかといえば、二ツ目を10年前後経験した落語家は、ほぼ全員が真打になっているというのが実態だ。
落語家の場合、師匠の許可さえあれば誰でも入門は可能で、少しすると前座となる。前座を数年勤めると多くは二ツ目になるので、今の制度であれば入門して十数年経てば、ほぼ誰もが真打になれる。例外はあるが、年功序列のエスカレーター方式と言ってよい。

かつては、真打になるのは持ちネタがいくつ以上有るとか、人情噺ができるとかという条件があり、一定の基準をクリアーしないと真打になれなかった。
過去の話だけではない。立川談春の「赤めだか」を読まれた読者はお分かりの通り、立川流では今でも昇進試験があり、合格しないと真打になれない。
この真打の選考をめぐっては、過去に落語協会内部に意見の対立があり、三遊亭圓生や立川談志の協会脱退もこの真打の選考がきっかけとなった。
これに懲りて、争いの起きぬよう公平な年功序列制度にしたものと推測される。

落語協会も落語芸術協会も社団法人であり、その組織が真打と認定したということは、法人として品質保証したとも受け取れる。であれば、どこに出しても恥ずかしくない噺家にのみ、真打の称号を与えるべきではなかろうか。
最近の昇進披露口上で協会幹部は、「真打になったことは落語家のスタート」などと述べているが、それは世間の認識とは異なる。
最近の落語ブームで入門希望者が増えているそうだが、そうなると今後ますます真打が大量生産されることになる。
右を向いても左を見ても真打ばかりという「名ばかり真打」の増加が、果たして落語界の未来にとって幸いなことなのかどうか、考えるべき時期にきている。

2008/11/10

「春風亭百栄」真打昇進襲名披露公演@国立演芸場

Momoe国立演芸場上席は、今秋真打に昇進した5人の「落語協会真打昇進襲名披露公演」。都内定席の最後を飾る公演となった。
11月9日は春風亭栄助改メ春風亭百栄(ももえ)の披露。二ツ目の時から注目していた芸人だ。経歴はちょっと変わっていて、学校を出てからアメリカの寿司店で働いている時、たまたま客として来店していた春風亭榮枝と出会い、入門を約束したというもの。古典と新作の二本立てで高座をつとめている。
開演時には空席が目立っていたが、間もなく埋まり一杯の入り。

・前座 古今亭志ん坊「元犬」
団体客がざわついている中で落ち着いた高座だった。
・桂才紫「子ほめ」 
いつもは前座がやるネタだが、二ツ目が演じるとやはり一日の長がある。話の「間」のとり方は工夫の必要あり。
・アサダ二世「奇術」
この日は本人が認めていたように、真面目に手品していた。
・春風亭正朝「家見舞い」
いつも明るい高座で楽しませてくれる。時間の関係からか少し端折っていたが、肥甕の水で調理した料理を食べる場面が良くできていた。
・春風亭一朝「幇間腹」
芸はしっかりしているのだが、端正過ぎるのが欠点。このネタも野ダイコがもうちょっと壊れてくれないと、悲哀が伝わらない。
・鈴々舎馬風「漫談」
古典落語の落語協会の会長が、二代続いて漫談しかやらない(出来ない)人というのも困ったものだ。しかも圓歌の「中沢家の人々」ほどの完成度も無いときてるから、始末に悪い。

―仲入り―
・「真打昇進襲名披露口上」
話題はそれるが、今の年功序列式の真打制度で果たして良いのだろうか。「名ばかり真打」がどんどん増えるような気がするが。
・ホームラン「漫才」
年季の入った掛け合いが楽しい。コント風の漫才なので、ネタの数が必要だろう。
・春風亭栄枝「お見立て」
弟子の晴れ舞台での高座としては極めてお粗末。稽古不足なのか、何か別の理由なのか分からないが、ネタが頭に入っていないので、言い間違いはするはセリフを抜かすはで、ひどい「お見立て」だった。
この人はいつもこんな高座なのだろうか。
・ぺぺ桜井「ギター漫談」
定席にはなくてはならぬ芸人。偉大なるマンネリ。
・春風亭百栄「佐野山」
この人には華があるし、披露口上でも紹介されていたように独特の「フラ」がある。この二つが備わっているだけで、噺家として50%の成功は約束されたようなものだ。後は本人の努力次第。喬太郎あるいは昇太あたりを目指していくのだろうか。
「佐野山」は谷風に風格が出ていない。この辺が未だ未だだ。

目出度さも中くらいなり、の公演だった。

2008/11/09

桂枝雀の名演「寝床」

Shijaku古典落語の中に、このネタならこの人という「極め付け」と言われるものがある。後進の芸人にとっては一種の教科書みたいなもので、先ずはそうした名人上手の芸をなぞっていく。そこまでなら誰でも出来る(それも出来ていない噺家も中にはいるが)。問題はその後で、更に手を入れていかに自分のものにするかで、芸人の真価が決まる。

「寝床」という演目がある。言うまでもなく名人・桂文楽に極め付けで、文楽以後の落語家は全員が、先ずは文楽を手本としていると言って良いだろう。細かなことでは古今亭志ん生の演出は少し変わっていて、志ん朝がそれを継承していたが、それは又別の機会に。
筋は、義太夫が下手な横好きの家主が義太夫の会を催し、番頭の茂蔵に客集めに行かせるが、店子や奉公人は何かと理由を付けて出席を断るが・・・というストーリーだ。
文楽の演出は、店子や奉公人たちの言い訳を聞いているうちに次第に怒りがこみ上げ、最後に爆発するというものだ。家主の前半の浮き浮きとした様子と、後半のキレル様子との落差の描写が光る。

この「寝床」だが元々は上方落語のネタだった。文楽の極め付けとしてすっかり東京にお株を奪われていた感があったが、上方落語では近年、桂枝雀の名演がある。
枝雀は登場人物の心理描写が巧みで、この「寝床」でもいかんなく発揮されている。
先ず枝雀の優れている点は、噺の中で実際に義太夫を一節唸って見せることだ。この家主の芸がどれだけひどいかを、発声練習のシーンで具体的に見せる。もちろん義太夫の素養がなければ無理だ。
こうした芸事をテーマにしたネタでは、ワンカットでも良いから芸の一部を披露することにより、噺に厚みが加わる。三代目三遊亭金馬の「やかん」が優れているのは、講釈が本格的だからだ。
枝雀は「どうらんの幸助」というネタでも、義太夫を一節語っている。

次に家主の反応に工夫が加わっている。
この家主というのは普段は人格者で、周囲の尊敬を集めている人物という設定になっている。いかに義太夫のことになると人が変わるといっても、ただイライラして怒り出すというのでは説得力に欠ける。
枝雀の公演での家主の変化だが、順を追っていくと、
①最初は落胆 枝雀は義太夫の発声でそれを表現している。
②次に嘆き 自分の下手さを認める情なさと、店子や奉公人たちの無理解への嘆き。
③最後に怒り それなら上でいっぺん義太夫を語ってみなさいと言う家主に対して、それなら下でいっぺん聴いてみろと答える奉公人の言葉にキレル。

枝雀の細かな心理描写は、このネタの深みを増した。無論これによって文楽の「寝床」の価値が下がるわけではない。番頭の説得によって家主の気持ちが次第に変わっていく場面は、文楽の方に軍配をあげたいし、依然として教科書としての価値は十分だ。
惜しむらくは、枝雀のライブを観ることができなくなったことだ。

2008/11/08

【街角で出会った美女】スペイン編

このブログへの記事別アクセス解析を見ると、根強い人気に「プロフィール」があります。恐らくマスコットガールとして使用している左上の写真を目当てにされているのでしょう。今日はこの少女についての説明します。
初めてスペインを訪れる日本人観光客は、首都マドリッドに到着した途端、事前に抱いていたイメージとの落差に驚きます。スペインという言葉の響きから「南国」「情熱の国」「カルメン」「闘牛士」という連想から「明るい南の国」のイメージになるのでしょう。
因みに年配の方は「南の薔薇」というヒット曲を記憶しているかと思います。

「南の薔薇」
(1948年 野村俊夫作詞 米山正夫作曲)
南のバラそよ風に ほほえむ君の姿
胸に抱き接吻ける 花よバラの花
麗しの月の宵 ともに杯あげ
君よ歌え恋の歌を
なやましこの胸燃えたつ恋
南の国スペインの 君はやさしの薔薇

ところが緯度で見るとマドリッドは日本の青森とほぼ同じですから、むしろ北国なんです。
それが第二の都市バルセロナに行くとだいぶ印象が変わり、南国に来たという気分になります。
そのバルセロナは今やアントニ・ガウディの街といっても良いほどで、彼が設計した建築群の一つにグエル公園があります。

私たちがグエル公園を訪れたときに、小学校の先生が生徒を引率して写生をさせていました。図画の時間でしょうか、小学3年生位の数十名の子どもたちが腰を下ろして絵を描いていました。みな下を向いているのですが、一人とても可愛らしい女の子がいましたので、カメラを向けて話しかけました。珍しく顔を上げてカメラ目線をとってくれたので、撮影したのがその時の少女の写真です。吸い込まれそうな美しい瞳が印象的でした。
私が写真を撮っているのを見て、周囲の観光客が集まってきてカメラを向け、この少女の撮影会みたいになっていました。
あれから9年経っていますので、今は18歳前後になっているでしょう。きっと飛び切りの美女に成長していることでしょう。
いつも当ブログの巻頭を飾ってくれていて、感謝してます。
Photo
(クリックで画像が拡大)

2008/11/07

「おふくろさん」の裏に「紅白」あり

歌手の森進一が過去のヒット曲の一つである「おふくろさん」を歌えるようになったと大騒ぎだ。2006年暮れの紅白で、森が勝手に歌詞を書き加えたと作詞家の故川内康範の怒りをかって歌唱が禁止されていたが、この度川内側の遺族と和解して封印が解かれたものだ。
TVのワイドショーは連日この話題で持ちきりだし、一般紙も社会面で報道していた。つまりこれは社会的な「事件」という扱いなのだ。

世間の人はそんなに森進一の「おふくろさん」を渇望しているのだろうか。ちなみに手持ちのCDにこの曲が入っており、聴きたければいつでも聴ける、それは誰も同じだろう。そうなると問題は、ライブでこの曲を聴きたいというファンにとっては切実な問題なのかも知れないが、果たして日本国民全体の中で何パーセントいるのだろうか。
好みの問題だろうが、「おふくろさん」はオリジナルの方がずっと良い。森が付け加えたあの変なヴァースは、却って曲想を壊している。川内康範が怒ったのも無理がない。
それと、数ある森のヒット曲の中で、とりわけ「おふくろさん」だけが名曲だとは思えない。

歌唱を禁止した川内康範の意図はともかく、森側がこの騒動を最大限利用しようとしたことは、容易に推定できる。例の川内への「おわび行脚」からして、いかにもわざとらしく演出の臭いがプンプンしていた。
ここ最近ヒット曲に恵まれず、森昌子との離婚に加え、森進一自身の声が急に衰えてきて、このままでは歌手生命にもかかわる事態だったのだろう。
芸能人にとって一番大事なのは、忘れ去られないようにすることだ。世間に「オレオレ」「ワタシワタシ」を必死にアピールする。そのためにはスキャンダルさえ利用するのが常套手段である。
森進一にとって「おふくろさん」禁止は、正に「天佑」だった。

この時期に和解したのも意味がある。恐らく年末のNHK紅白歌合戦で歌う作戦に違いない。
NHKサイドにしてみれば、視聴率低下に悩む「紅白」の、またとない話題作りだ。しかもコストがかからないのだから、笑いが止まらない。
「おふくろさん」和解騒動は、森進一とNHKサイドの宣伝に世間がまんまと引っ掛かったということだ。

話題が外れるが、先日のNHK歌謡コンサートで秋川雅史という歌手が「イヨマンテの夜」を歌ったが、あれはひどかった。曲の肝心の冒頭部分「アアホイアー」から「イヨマンテ」まで、全て音程を外して歌っていた。実に器用である。しかしあれこそ「イヨマンテ」の曲に対する冒涜ではなかろうか。
むかし会社の同僚が宴会で、始めから終わりまで音程を外して歌うのを特技としていた人がいたが、まさかプロが同じことをするとは思わなかった。
NHKは受信料を取っているのだから、話題作りだけに励むのではなく、まともな歌番組を作ってほしい。

2008/11/06

「小室なる無常の奢り」~小室哲哉を歌う~

小室なる無常の奢り
苦悩深くKCO悲しむ
山をなす借り入れ減らず
著作権売るもよしなし
しろがねの家も車も
日に溶けて泡行き流る

香港に実利はあらず
世に満つる怒りを浴びて
浅くのみ知恵は霞みて
顔の色わずかに青し
捕り人の群れはいくつか
同行の道を急ぎぬ

落ち行けば先行き見えず
歌哀し詐欺の口立て
ファミリーにいざよう涙
拘置所の壁を眺めつ
臭い飯臭けど食みて
腕枕しばし慰む

***********

千曲川旅情の歌
島崎藤村作

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾の岡辺
日に溶けて淡雪流る

あたたかき光はあれど
野に満つる香りも知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色はつかに青し
旅人の群はいくつか
畑中の道を急ぎぬ

暮れ行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

2008/11/05

コッチの民主党はアキマヘンな

アメリカ大統領選挙は予想通り民主党オバマ氏の勝利となったが、相方が名前が悪すぎた。「負けいん」じゃ始めから勝ち目がない。今年の初めごろ、先走って「ヒラリー・クリントンが大統領になったら世界も日本も大変なことになる」などと大騒ぎしていたあの4K新聞、今頃はどのツラを下げているだろうか。「オバマ」とよび方が似ているといって浮かれている自治体も又然り。
オバマ大統領の実現で、戦争大好き一辺倒で、ムチャクチャな事をやってきたブッシュ政権の政策からは転換することになるだろうが、日本に対しては具体的にどのような影響が出てくるかは未知数であり、これから注視していかなくてはならない。

さてコチトラの民主党の方だが、これがサッパリなのだ。
与党の審議に協力してどんどん法案を成立させれば、きっと早く解散してくれるに違いないという戦術、まともな神経じゃありませんね。それは逆でしょう。解散権は総理にあるわけだから、野党の立場からすれば、追い込んで解散を迫るしかない。
もう一つ、解散に追い込んだ後、何を旗印に選挙を戦おうとしているのか、さっぱり見えてこないのだ。
政権交代は戦術であって戦略ではない。霞ヶ関の官僚支配から、官邸が政策決定する政治にというが、それで我々の生活が具体的にどう変わるのだろう。
自民党との対立軸を示せぬまま、とにかく解散だ選挙だ政権交代だと騒いでも、それは「風」を当てにしているだけだ。

結局、今の民主党幹部の大半が元々自民党出身で占められていて、何のことはない、議会を舞台に自民党の派閥争いをしているに過ぎない。レッテルを隠して比較すれば、どっちが自民党でどっちが民主党だか、違いが分からない政策をとっているのも、そのためだ。
最近のマルチ業界からの献金問題でも明らかなように、活動資金を企業からの献金に頼っている体質も、自民党からそっくり受け継いでいる。
政策を訴えて支持者を獲得し、その支持者から浄財を集め、支持者のサポートで政治活動や選挙を戦うという政党本来の姿からは程遠い。自民党と同じ体質で自民党と戦おうということ自体に無理があるのだ。
田母神俊雄・前航空幕僚長を国会へ参考人招致すると言い出しているが、ではその田母神俊雄と鳩山由紀夫幹事長との親密な関係はどう説明するのだろうか。こんな出来もしないパフォーマンスを見せても、やがては格好だけだとバレる。

そうは言っても小選挙区制度の下では、自民か民主かという、どっちでも良い選択を迫られことになる。
店にキリンとアサヒしか置いてなければ、エビスビールは買えない。
こんな政治に誰がした。ハイ、それは小沢一郎さんです。

「世界の絶景ベスト10」の掲載案内と新シリーズの予告

海外旅行が好きで時々出かけていましたが、この20年で訪問国が60ヶ国になりました。およそ世界の3分の1を周った計算になります。
今まで訪れた観た観光地の中で特に優れていると思われるものをピックアップして、「世界の絶景ベスト10」ということでまとめて見ました。たった60ヶ国で何が世界だというお叱りがあるかも知れませんが、その辺りはご勘弁のほどを。
各ジャンルそれぞれに10ヶ所、合計50ヶ所の絶景を選んで、別館で掲載しています。
(1) 「文化遺産・遺跡」編
(2) 「文化遺産・建物」編
(3) 「自然遺産」編
(4) 「街並み」編
(5) 「聖地」編 上
ご興味のある方は、ご覧ください。

又、各国の「街角の美女」シリーズと銘うって、これから不定期で順次掲載してゆきます。
よく雑誌のグラビアや旅行ガイドにキレイな女性が載っていますが、あれはその国の女優やモデルを使ったもので、そんな人がぞろぞろ歩いていません。そこへいくと当方は、街角で出会った女性のスナップなので、リアリティがあると自負しています。
なかには、どこが美女かと言われる向きもあるでしょうが、それは美的感覚の相違だと思ってください。

2008/11/03

埋蔵金 霞ヶ関より 信濃町

麻生太郎首相が追加経済対策として打ち出した総額2兆円の定額給付金。ついこの間まで国は赤字だ、金が無いと騒いでいたのに、「実は内緒で隠していた埋蔵金があるので、町民は安心せよ。」とのお触れ。とにかくお金を下さるからと喜んでいたら、「その代わりに3年先には年貢を上げるからな。」とのご託宣。
将軍様は「全ての町民に等しく配る」との仰せだが、勘定奉行は「いやいや金持ちは除いて、貧乏人だけに配る」との意向。
これじゃあ麻生ならぬ、右往左往政権。

どうせ選挙目当ての「撒き餌」で、給付金を貰ったら自民党か公明党に投票しろということ。
何のことはない国の金で票を買う、政府主導の買収だ。

処が、この給付金の財源だが、ここへきて雲行きが怪しくなってきたようだ。
政府が念頭に置くいわゆる埋蔵金というのは、「財政投融資特別会計」の準備金のことだ。このお金は国債費に充当することはできるが、給付金のような景気対策に振り向けるには本来の目的外なので、特別措置法などを作り、使途を拡大しなきゃならない。
ねじれ国会の中では、2次補正予算は30日ルールで何とか切り抜けるとしても、特別措置法などの関連法案は、参院送付から60日が過ぎなければ、衆院で再議決できない。
仮に11月末に法案を提出した場合、審議がスムースに行っても成立は来年1月末になってしまうし、もちろん審議が長引けば大幅に成立が遅れることになる。

そうなると、給付金の支給が選挙に間に合わなくなるという事態を招く可能性が出てくる。選挙が終わってから金を配ったって、全く意味が無いのだ。
では財源は他からといきたいのだが、2兆円などという金がそうそう見つかるわけではない。
このままでは、麻生総理の重大な公約違反になる。

残された手といえば、あの巨大教団に金を出させるしか方法が無いのではなかろうか。
この給付金、元々が自民党はそう乗り気ではなく、公明党のゴリ押しをのんだものだ。可愛い公明党のためにひと肌脱いでもらって、信濃町の蔵から2兆円出させたらどうか。何せ総資産が10兆円あるそうだから。
これがダメなら麻生さん、責任を取って辞めるしかないですよ。

2008/11/02

「フランク永井」の想い出

Photo低音の魅力で一世を風靡したフランク永井が、10月27日肺炎のため死去していたことが分かった。享年76歳だった。1985年に自宅で自殺を図って以来療養生活を送っていたが、帰らぬ人となってしまった。

もっこかつげや つるはしふるえ
唄え陽気に 炭坑節
黒いダイヤに 惚れたのさ
楽じゃないけど 13800円
たまには一杯  たまにゃ一杯呑めるじゃないか

うろ覚えで間違いがあるかも知れないが、フランク永井の初期のレコード「13800円」という変わったタイトルの歌の歌詞だ。この曲がレコーディングされた1957年当時の大卒初任給が13800円だった。
後年のフランク永井のイメージからすれば意外に思えるかも知れないが、初期の頃はワークソング系の歌を歌っていたと記憶している。
初めてのヒット曲となった同年の「夜霧の第二国道」も、歌手になる前のフランクが、トレーラーの運転手をしていた頃の体験が基になっている。

デビューはジャズ歌手で、これといったヒット曲に恵まれなかったが、無名時代のフランクのジャズ「16トン」を、ラジオで聴いたことがある。
♪おいらの商売炭鉱夫 年がら年中地の底で
石炭掘って泥まみれ まったくやりきれないよ・・・♪
といった歌詞だったと記憶しているが、これが実に良い声なのだ。低音なのだが甘く、痺れるような声なのだ。こんな声の人が日本人にいるのかと驚いた記憶がある。
結局ジャズでは売れず、2年後に歌謡曲の歌手に転向して成功していく。

1957年の「有楽町で逢いましょう」で爆発的なヒットを飛ばし、「俺は寂しいんだ」「夜霧に消えたチャコ」「君恋し」などのヒットで低音ブームを作り、歌謡界をリードしていく。
同時に「ラブ・レター」などではジャズ風、「公園の手品師」ではシャンソン風、「東京カチート」「霧子のタンゴ」ではラテン風の歌をヒットさせ、幅広いジャンルを歌いこなす歌唱力の確かさを示していた。

フランク永井のライブは2回観ている。と言ってもソロコンサートではない。その当時、レコード会社別の歌謡ショーというのがあり、確か「ビクター歌謡大行進」というようなタイトルで、ビクターレコード専属歌手が次々と登場して2,3曲歌うという形式の公演だった。フランクをはじめ、橋幸夫、三浦洸一、松尾和子(こちらからチケットを貰った)、マヒナスターズなど、綺羅星のごとくスターが揃っていた。
あの頃の歌謡ショーというと、観客が舞台めがけて紙テープを投げ、花束を渡すというのが通例だったが、フランク永井だけは司会者が「テープと花束はお断り」と告げていた。静かに歌を聴いてほしいと言うことだが、それだけフランクは別格だった。

しかし1966年の「大阪ロマン」あたりからヒットが途絶えていく。1977年「おまえに」でカムバックするが、その頃から声が落ち始め、特に低音の甘さが次第に失われていた。
自殺を図った原因はプライベートな事情によるものらしいが、声の衰えも遠因となっていたのではなかろうか。

後にも先にも、あの甘い低音を響かせた歌声は、フランク永井しかいない。
ご冥福をお祈りする。

「田母神空幕の更迭」軍人の小児性

Tamogami芥川龍之介の作品「侏儒の言葉」の中に「小児」と題する次の一節があります。
「軍人は小児に近いものである。」「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
軍人嫌いの龍之介らしい表現ではありますが、そうした一面はあるのでしょう。
航空幕僚長を更迭された田母神俊雄氏の論文の大要なるものを見ると、確かにそうした「小児性」を感じます。とても「論文」に値しないような粗雑な論理を展開していて、苦笑するような内容です。

ドイツでもナチスのユダヤ人迫害は絵空事だったとか、アウシュビッツ強制収容所はデッチ上げだと主張する人もいるわけで、人間それぞれに考え方の違いはあります。しかしドイツの政府高官がそうした発言をすることはありません。
田母神氏はインタビューに答えて、「以前からの持論」と説明していたようですが、自分の立場を考慮することなく個人の意見が自由に表明できるなら、これほど楽しいことは無いでしょう。でも大人はそうしません。
サラリーマン当時を振り返っても、思ったことの1割も口にできなかったのですが、殆んどの方がそうでしょう。今書いているブログでも、匿名とはいえ現役時代には公表できなかったでしょう。勿論、このブログも持論を100%書いているわけではありません。世間に公にする以上、ある程度は表現を自制せざるを得ないこともあります。ましてや政府高官においては・・・、です。

田母神俊雄氏は4月に行われた記者会見で、イラク派遣部隊の多国籍軍兵士輸送に関して名古屋高裁が出した違憲判断について、人気タレントのギャグを引用して「そんなの関係ねえ」と発言したことでも知られています。
自分にとって都合の悪いことは、それが司法の判断であっても「関係ねえ」と無視する、これも駄々っ子と同じ幼児性の表れでしょうが、自衛隊幹部としては極めて危険な性向です。
こういう人物に武器を持たせたり、部隊の指揮権を与えていると、それこそ軍事クーデターでも起こしかねない、正に「何とかに刃物」です。
そう考えれば、実害が起こる前に芽が摘めたのは不幸中の幸いだったかも知れません。

田母神氏論文は、ホテル・マンション経営のアパグループ(本社・東京都港区)の懸賞論文に応募し、賞金300万円の最優秀賞を受賞したものです。
懸賞論文を主催したアパグループの代表は、小松基地金沢友の会会長で、第六航空団司令時代から田母神氏とつながりがあったと見られています。9年前には、田母神氏とこの代表がアパグループの情報誌で対談して、「国家が悪い、日本の国が悪いという戦後の教育が行きすぎている」と発言をしていました。
そうして見ると、この論文の授賞は阿吽の呼吸、出来レースだったということでしょう。

中山成彬議員と同様、田母神俊雄・前航空幕僚長も一種の「自爆テロ」なのでしょうか。
アルカイダのテロも困りますが、こうした言論テロも迷惑です。

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