談春の名演「文七元結」
寄席好きの人に二つのタイプがある。ひとつは落語好きであり、もうひとつが落語家好きだ。後者は特定(複数の場合あり)の噺家の出番を追い求めて寄席に通う人だ。博愛と偏愛。
文芸評論家の福田和也はこう書いている。「談春一人いれば、あとはいらない。落語家が全員死んでも何の痛痒もない」と。こうまで言われりゃ芸人冥利に尽きるというものだが、「その他の落語家」は甚だ面白くなかろう。
人情噺の代表的演目に「文七元結」がある。歴代の名人上手はもとより、人情噺を手がける噺家なら誰もが一度は高座にかける作品だ。近年では寄席通の間で古今亭志ん朝の名演が知られている。
ストーリーはこんな風だ。
博打に狂った長兵衛は娘・お久が身を売って作ってくれた50両を、店の金を失くしたと思い込み身投げしようとしている文七に譲ってしまう。その金をめぐって長兵衛夫婦は夜通しの大喧嘩。そこへ文七を伴った主人近江屋が礼に訪れて・・・。
この演目には三つの大きな山場がある。先ず吉原の佐野槌の女将が長兵衛に意見して50両を貸す場面、次いで吾妻橋の上で長兵衛が文七に50両を投げる場面、そして長屋での長兵衛夫婦の喧嘩の場面だ。
このどのシーンに力点を置くかは演者によって異なる。圓楽なら夫婦喧嘩、志ん朝なら吾妻橋。彦六の先代正蔵の場合は極端で、佐野槌の場面をカットしていた。それぞれに良さがあり、甲乙つけ難いというのが私の感想だ。
立川談春の文七を初めて高座で観たときは、衝撃を受けた。今までの演者の解釈とは大きく異なるのだ。
談春の演出の最大のポイントは、佐野槌の女将に焦点を当てたことだ。
周囲にギャンブル狂いがいる人ならお分かりのように、好きな博打を止めさせるのは並大抵ではない。説教してもその場限りで、じきに気が変わってしまう。その長兵衛を改心させるには、それ相当の説得力が必要だと談春は考えたのだろう。
博打打ちというのは博打を職業としている人間だ。丁半の賽の目なのになんで片方が確実に儲かるのか、それはイカサマしかない。だから胴元だけが勝ち、素人は必ず負けるのだと女将が長兵衛に説く。
勝ち負けは運次第だと信じていた長兵衛が、ここで目が醒める。
自身が博打好きな談春だからこそ思い付く演出である。
もう一つは女将が貸す50両と言う大金の根拠だ。今の貨幣価値に直せば500万円に相当するだろう。金を返せば娘は店に出さないという条件なのだから、返済の見込みが無ければ貸せる金額ではない。
そこで賭博の胴元が長兵衛に50両を貸していた事実に注目する。バクチのプロが貸すということは、長兵衛の左官の腕を見込んでのことであり、女将はバクチのプロの目を通して返済の可能性を探ったのだ。
もう二度と博打に手を出すことは無いだろうという見通しと、50両の返済は現実性があると踏んで、佐野槌の女将は金を用立てる。
生き馬の目を抜く吉原の大見世の女将だ。そうしたシタタカさは当然だろう。
談春の高座を観て、初めてこのネタにリアリティを感じた。
立川談春の「文七元結」はまだまだ発展途上だと思う。
これから更にどうような演出上の工夫が加えられていくのか、楽しみだ。
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