桂枝雀の名演「寝床」
古典落語の中に、このネタならこの人という「極め付け」と言われるものがある。後進の芸人にとっては一種の教科書みたいなもので、先ずはそうした名人上手の芸をなぞっていく。そこまでなら誰でも出来る(それも出来ていない噺家も中にはいるが)。問題はその後で、更に手を入れていかに自分のものにするかで、芸人の真価が決まる。
「寝床」という演目がある。言うまでもなく名人・桂文楽に極め付けで、文楽以後の落語家は全員が、先ずは文楽を手本としていると言って良いだろう。細かなことでは古今亭志ん生の演出は少し変わっていて、志ん朝がそれを継承していたが、それは又別の機会に。
筋は、義太夫が下手な横好きの家主が義太夫の会を催し、番頭の茂蔵に客集めに行かせるが、店子や奉公人は何かと理由を付けて出席を断るが・・・というストーリーだ。
文楽の演出は、店子や奉公人たちの言い訳を聞いているうちに次第に怒りがこみ上げ、最後に爆発するというものだ。家主の前半の浮き浮きとした様子と、後半のキレル様子との落差の描写が光る。
この「寝床」だが元々は上方落語のネタだった。文楽の極め付けとしてすっかり東京にお株を奪われていた感があったが、上方落語では近年、桂枝雀の名演がある。
枝雀は登場人物の心理描写が巧みで、この「寝床」でもいかんなく発揮されている。
先ず枝雀の優れている点は、噺の中で実際に義太夫を一節唸って見せることだ。この家主の芸がどれだけひどいかを、発声練習のシーンで具体的に見せる。もちろん義太夫の素養がなければ無理だ。
こうした芸事をテーマにしたネタでは、ワンカットでも良いから芸の一部を披露することにより、噺に厚みが加わる。三代目三遊亭金馬の「やかん」が優れているのは、講釈が本格的だからだ。
枝雀は「どうらんの幸助」というネタでも、義太夫を一節語っている。
次に家主の反応に工夫が加わっている。
この家主というのは普段は人格者で、周囲の尊敬を集めている人物という設定になっている。いかに義太夫のことになると人が変わるといっても、ただイライラして怒り出すというのでは説得力に欠ける。
枝雀の公演での家主の変化だが、順を追っていくと、
①最初は落胆 枝雀は義太夫の発声でそれを表現している。
②次に嘆き 自分の下手さを認める情なさと、店子や奉公人たちの無理解への嘆き。
③最後に怒り それなら上でいっぺん義太夫を語ってみなさいと言う家主に対して、それなら下でいっぺん聴いてみろと答える奉公人の言葉にキレル。
枝雀の細かな心理描写は、このネタの深みを増した。無論これによって文楽の「寝床」の価値が下がるわけではない。番頭の説得によって家主の気持ちが次第に変わっていく場面は、文楽の方に軍配をあげたいし、依然として教科書としての価値は十分だ。
惜しむらくは、枝雀のライブを観ることができなくなったことだ。
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