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2008/12/01

それでも「被害者参加制度」には反対だ

当ブログを読んでいる方はご存知の通り、私は刑事事件に関しては「厳罰主義」であり、「死刑制度維持」を主張しています。であるからこそ、裁判の「疑わしきはこれを罰せず」の原則は崩してはいけないし、裁判が公正に行われるべきだと考えます。
裁判は決して復讐の場であってはならないし、それだからこそ事件と利害関係を持たない人間によって裁きが行われるのです。
今日12月1日から、被害者やその遺族が刑事事件に直接参加できる「被害者参加制度」がスタートしますが、この制度が裁判の公正を妨げるのではないかと危惧するものです。

私がこう考えるのは、若い頃のある事件の記憶が鮮明に残っているからです。
その事件というのは1949年8月17日に起きた、東北本線・金谷川~松川間で列車が転覆し乗務員3人が死亡した「松川事件」です。
この事件で、当時の国労や東芝の労組員ら20人が逮捕・起訴され、第1審は死刑5人を含む全員有罪の判決。第2審は死刑4人を含む17人が有罪との判決が出されました。
私はこの事件の裁判記録を読んで、判決は明らかに誤っており、被告は無罪が相当と考えるようになりました。
果たせるかな、上告審では最高裁が1・2審を破棄して仙台高裁へ審理を差し戻し、結局1961年高裁で全員の無罪判決が言い渡されました。

この事件の最高裁判決は7対5の僅差であり、 逆に4人の死刑を含む17人の判決が確定していた可能性も十分あったわけです。
判決の出た翌日の新聞に、被害者の家族(確か奥様だったと記憶している)の方が、これでは死んだ人間が浮かばれず判決は納得できないという談話が載っていました。
確かに被害者遺族の感情としては、10年以上も「この人たちが犯人だ」と信じ込んできたのがいきなり逆転するのですから、納得できないと主張するのは当然だと思われます。
しかし被害者感情だけを重視して、何が何でも有罪にするというのであれば、これは法治国家とは言えません。
もし、その当時に被害者の遺族の裁判参加が認められていて、遺族による最終陳述や量刑への意見が述べられていたら、裁判官の7対5という僅差があるいは逆転していたかも知れません。
日本の刑事裁判では、逮捕起訴された被告の有罪率が極めて高いため、世間はどうしても被告=犯人と見做してしまう傾向があります。ましてや被害者やその遺族からすれば、そうした感情は一層強くなるでしょう。裁判の公正が保たれないのではないかと危惧するのは、この点です。

これとは逆に、被害者あるいはその遺族の中には、宗教的信念などの理由から、死刑などの厳罰を望まないケースがあります。そうした方々が裁判の中で低い量刑を主張した場合、やはり判決に影響が出ないとは言えないでしょう(特に死刑判決では)。
これも裁判の公正を歪める結果となる可能性があります。

刑事事件というと、私たちは被害者やその家族になった場合のみ想像し勝ちですが、思いもよらず「加害者」や被告の立場に立たされるケースだって、決して皆無ではありません。
そうした両面を考慮した上で、今回の「被害者参加制度」を見ていく必要があると思います。

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