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2009/02/27

【思い出の落語家12】古今亭志ん生の凄さ(1)

Shinsho私が小学生のころ、兄に「志ん生の落語って、どうしてあんなに面白いの?」ときいたことがある。
落語フアンだった兄はこう答えた。
「そりゃあ志ん生がしゃべるからさ」。
志ん生の落語の魅力はこの一言に尽きるのだ。
数多の「五代目古今亭志ん生論」がある中で、この兄の一言がもっとも的確だと思っている。
八代目文楽や圓生なら、そのうち芸風が似た人が出てくるかも知れないが、志ん生はそういかない。オンリーワンの不世出の芸人だといえる。

かつてある雑誌が各界著名人に、無人島にもっていくレコード(今ならCD)を1枚選ぶというアンケートをとったことがあり、その中の一人が志ん生の「品川心中」と答えたのを記憶している。
私も落語家の中で誰を選ぶかと問われればやはり志ん生で、演目を一つといわれれば「品川心中」に落ち着く。
あらすじは、ざっとこうなる。

品川宿の白木屋の女郎お染は、若い頃は売れっ子で板頭(ナンバーワン)をはっていたが、歳と共に客が減っていき、今では紋日に必要な40両も工面できない有り様。
こうなればいっそ心中してしまえば面子が立つと、心中相手を物色し、白羽の矢が立てられたのは本屋の金蔵。金蔵はお染に心中をする約束をさせられる。
心中の決行日に、お染は金蔵を品川の桟橋に連れて行く。身投げをしようという。ぐずぐずしている金蔵をお染は突き落とし、自分も飛び込もうとした。その時店の者が駆けつけ、ヒイキの客が40両の金を用立てたと告げ、お染は身投げをやめて店に戻ってしまう。
裏切られたと知った金蔵はようやく海から上がり、親分のもとに行くが、そこでは博打の真っ最中。金蔵が戸を叩く音を役人の手入れと勘違いして、一同大騒ぎとなる。
後半は、金蔵が仲間の力を借りてお染をおどかすのだが、滅多に高座にかかることがなく、殆んど前半で切る。

志ん生以外の噺家が演じると、お染が心中を決意する場面、相手を金蔵に決める場面、金蔵が一緒に死ぬことを約束する場面、これらがどうしても説明的になってしまう。心中を決意するまでの心理状態などが描かれるのだ。
それはそうだろう。この部分に説得力がないと、この噺は成り立たないからだ。
それに対して志ん生の演出は、ここを実にあっさりと描く。お染が「それじゃ一緒に死んでおくれかい」というと、金蔵は「おおくれだとも」と応じ、簡単に心中の約束をしてしまう。あんまり深く考えない。シャレだよ、シャレ・・・程度の軽いノリで決めてしまうのだ。
志ん生が演じると、聞き手はこれで十分納得してしまう。
志ん生の「品川心中」をヒントにして、作家井上ひさしが小説「手鎖心中」を書いて直木賞をとったのは有名なエピソードだが、他の噺家ではこう行かなかったろう。

五代目古今亭志ん生は明治23年に生まれ、43年に入門している。
若い頃から「飲む打つ買う」の三道楽、長屋住まいの家庭は火の車。赤貧洗うがごとしの生活で、借金をこさえては夜逃げを繰り返す。
芸人としてはさっぱり鳴かず飛ばずで、芸名を17回も変える始末。
昭和10年代に入ってからようやく人気が出始め、本格的に売れ出したのは昭和22年に満州から帰国してからだ。
戦後の日本映画で、家族で落語を聞く場面があると、たいがいは志ん生の落語が使われていた。先代文楽がいわゆる落語通のご贔屓が多かったのに対し、志ん生は大衆的な人気を博していた。

経歴をみれば分かるように、志ん生の生き方そのものが落語の世界なのだ。そうした人生経験に裏打ちされているから、話に説得力が出てくる。
長屋住まいで貧乏暮らし、道楽は酒と博打と女郎買いというのが、落語の登場人物と相場が決まっているが、それはそっくり志ん生が辿ってきた道だ。
「あんな亭主とは別れちまいな」「だって寒いんだもん」という会話一つとっても、それは志ん生の人生そのものなのだ。
古今亭志ん生の凄さは、ここにある。

2009/02/26

【街角で出会った美女】ロシア編(2)

ヨーロッパを旅行していると、緯度の高さと夏の華やかさが正比例の関係になっていることを実感します。
夏が乾期の欧州では、北の寒い国ほど短い夏を心待ちにして、その季節は精一杯楽しむということで、市民たちのウキウキとした気分がこちらにも伝わってくるのだと思います。

かつての帝政ロシアの首都サンクトペテルブルグは、18世紀の初めにピョートル大帝によって建設された人工的な都市で、大帝が愛したアムステルダムに似せて造られました。
市街はネバ川を中心とした運河が縦横に走り、美しい景観を醸し出しています。
エルミタージュ美術館など見所が多く、また市内は地下鉄網が発達しているので、移動も便利です。

ここでも結婚式をあげた」ばかりのカップルを沢山見ました。
花嫁さんというのはどこでも大変美しいものです。そして実に幸せそうです。当たり前か。
こちらの花嫁さんはアジア系でしょうか。

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  (クリックで画像が拡大)

2009/02/25

薬のネット販売規制は片手落ちだ

厚生労働省では、先にインターネットを含む通信販売では、リスクの低い医薬品の販売のみに限定されることなどを定めた「薬事法施行規則等の一部を改正する省令」を2月6日に公布した。
このままいけば今年の6月からは、ビタミン剤や消化整腸剤など一部の薬品を除いて、ネットや通販では医薬品が買えなくなる。
これに対してネット販売業者や通販業者から異論が出され、今後のあり方を議論する厚生労働省の「医薬品新販売制度の円滑施行に関する検討会」の第1回会合が24日に開かれた。

この問題の対立の構図はきわめて明解で、薬局店や薬剤師の団体が厚労省に圧力をかけてネット・通販への規制をさせたものだ。
なぜか昔から医師会だの看護協会だの薬剤師会だのといった医療関連団体は自民党を支援しており、自民党政府としては彼らが有力な票田なので要求は無視できないのだ。
一方ネット・通販側も、自分たちの商売に差し障りがあるので反対しているだけで、いずれの側も本心は国民の健康と安全などそっちのけなのである。

医薬品の販売について最も基本的なことは
「全ての医薬品には効能と副作用がある」
という事実だ。
中学校の理科でも習ったとおり、「作用があれば必ず反作用がある」のだ。
だから良く効く薬は、概して副作用も強いと考えた方がよい。
これは市販薬だろうと、医療機関の処方箋によって出される調剤薬だろうと同じだ。
医薬品の販売にあたっては、クスリの効能と副作用を正確に購入者に知らせるということが大事で、薬局で売るのかネットで売るのかというのは、二の次の問題なのだ。

では厚労省が主張する「薬局なら対面販売だから安心」というのは、本当なのだろうか。
はっきり言って、マヤカシだ。
先ずは市販薬について見てみよう。
大型の薬局・薬店に行くとまるでスーパーのように買い物カゴが置かれ、客は商品の棚から自由にクスリを選んでレジに並ぶという光景が見られる。「風邪薬は?」ときくと、「2列目の棚です」などと答えがくる。
こちらから相談しない限り、アドバイスを受けることも無い。
これのどこが対面販売なのだろうか。
次に処方箋による調剤薬ではどうだろうか。
一部の薬局ではクスリの効能と副作用を簡単に書いているリストを渡されるが、多くの薬局では詳細な説明書が付けられていない。
医療機関で出すクスリほど、副作用についての注意が必要なのだ。
こうした状態を放置しておいて、市販薬のネットや通販での販売だけを規制しようとするのは間違っている。
今回の厚労省の法改正が、結局は圧力団体の既得権を保護するだけと断じたのは、以上の理由からだ。

もし厚労省が国民の健康と安全のために医薬品の対面販売進めるのであれば、少なくとも次の点を義務付けることが必要だろう。
【市販薬】
(1)客が直接クスリに触れることを禁じ、必ず薬剤師を通して手渡す。
(2)販売にあたっては、クスリの効能と副作用などを口頭で告知する。
【調剤薬】
患者に出すクスリについて、単品ごとに次の内容を記した書面を添付する。
・名称
・成分
・効能
・副作用
・服用上の注意
【処罰】
違反した場合は薬剤師の免許停止し、悪質な場合は免許取り消しができる。

ここまでやるなら、薬のネット・通販の販売規制には意味がある。
大事なことは販売の形式ではなく、中味なのだ。

2009/02/23

祝!「おくりびと」アカデミー外国語映画賞受賞

本日、第81回アカデミー賞の発表・授賞式が行われ、外国語映画部門で滝田洋二郎監督の「おくりびと」が受賞しました。この部門での日本映画の受賞は始めての快挙となりました。
今日は朝から家族の者に、「絶対に『おくりびと』が選ばれるから」と宣言していたので、何だか私まで嬉しさ一杯というところです。

映画をご覧になった方はご存知のとおり、「おくりびと」には人間の「生と死」と、「家族愛」という二つの大きなテーマが描かれていますが、これは世界中どこの国の人々にとっても普遍的なテーマです。
同時にこの映画が、日本人の死生観を色濃く映し出しており、こうした点が高く評価されたのだと思われます。

この映画は主演の本木雅弘が10年以上前から映画化を目指していた企画で、彼の納棺師の演技にはそうした執念が感じられました。
また巨額な資金を投入し大作を作ってきたハリウッド映画界に、一石を投じるものとなるでしょう。
先ずは滝田監督をはじめスタッフ、出演者の皆様に心より祝意を表したいと思います。

Okuribito_2

2009/02/22

【街角で出会った美女】ロシア編(1)

1991年にソ連が崩壊した時は、殆んどの日本国民はこれを喜びました。
共産主義が終わって全ての国が民主主義国家となり、冷戦が消えて国家間の対立がなくなると期待したわけです。何しろ日本共産党までが「諸手を上げて歓迎」したくらいですから。
それから18年、果たしてソ連からロシアに変ったこの国は良くなったのでしょうか。
ビジネスで度々ロシアを訪れている人にきくと、「行くたびに段々悪くなっている」という感想を述べていました。
政府高官の汚職・腐敗は相変わらずで、経済はマフィアが握っている。言論の自由への制限は、いぜんとして続いているとのことです。まあスパイの親分だった人間が大統領(今は首相)をやっている国ですから、致し方ないのかも知れません。
ハッキリしているのは貧富の差の拡大で、わたしがロシア旅行に出かけたときも現地ガイドの見解では、かつてのソ連時代の方が良かったという人が結構多いということでした。

もう一つ考えておかねばならないのは、我が国の国益にとってソ連崩壊は良かったのか悪かったのかという視点です。領土問題一つとりあげても、今の段階では何とも判断できないというところでしょうか。
ソ連との崩壊と歩調を合わせて、欧州のユーロコミュニズムはあっという間に崩壊し、福祉国家論は後退して世界はアメリカの一国支配となりました。
グローバリズムの名の下に、世界は米国型の弱肉強食の資本主義に染まっていきつつあります。今回の世界的な経済危機で、これから軌道修正される可能性はありますが。
先日、渋谷の街を歩いていたら、久々に右翼のデモに出会いました。街宣車を先頭にスローガンを叫びながら行進していて、15分ほど立ち止まって見ていましたが、ついに北方領土の「ほ」の字も出てこなかったのです。昔とは随分と変りましたね。それともロシアのマフィアから、何かオコボレでもあるのかしらん。

モスクワの街を一望できる丘の上では、何組もの新婚カップルが、友人たちから祝福を受けていました。
彼らの輝くような表情を見ていると、この国の未来に希望が持てそうな気がしてきます。
この花嫁さん、金髪がとても綺麗ですね。
ちょっと触ってみたくなります。触れませんけど。

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2009/02/21

これぞエンターテイメント「帰ってきた浅草パラダイス」

2月20日は新橋演舞場での公演「帰ってきた浅草パラダイス」に出向く。サブタイトルに「久世光彦4回忌追悼」とあるが、この芝居の演出家だった久世さん、亡くなってもうそんなになるのか。
このシリーズ、過去の公演は次のようになっている。
1997年 「浅草慕情~なつかしのパラダイス」
1998年 「浅草パラダイス」
2000年 「ご存知浅草パラダイス」
2001年 「さらば浅草パラダイス」
従って今回が5作目になり、前回で「さらば」したので、今回のタイトルが「帰ってきた」となったわけだ。

【主なスタッフ キャスト】
原作=金子成人
演出=久世光彦
潤色・演出=ラサール石井

柄本 明=卯之助の友人・中原源吉
小島 秀哉=大山辰五郎(興行師)
中村 勘三郎=池島卯之助
藤山 直美=その妻・勝
美波 =沼沢八重
青柳 喜伊子=勝の隣人・みね
井之上 隆志=久三他5役
今井 りか=川田まつ子
坂本 あきら=相良炉風(弁士)
田根 楽子=神崎あやめ(座長)

時は昭和初期の浅草、トーキー映画の出現で娯楽の中心が芝居から映画に移り変わろうとしている時期だった。
しっかり者で元女義太夫語りだった勝と、そのぐうたら亭主で売れない芸人卯之助、友人でやはり売れない楽士源吉の3人を軸に、夢や希望、あるいは金を求めて集まる群像を描いた喜劇だ。
中村勘三郎と藤山直美が夫婦とくれば、おおよそどんな内容の芝居になるかは見当が付くというもの。お約束の展開で最後はメデタシメデタシとなるわけだ。笑わせて泣かせて泪が出るほど笑わせる、そういう芝居である。
原作者の金子成人がたぶん寄席の世界に通じているのだろう、落語の世界をそっくり昭和初期の浅草に置き換えているようだ。
決してストーリーで見せる芝居ではない。役者の演技力とアンサンブルで見せる芝居だ。

主役の3人を含めて、演技陣が充実している。
先ずは妻・勝を演じる藤山直美の演技に圧倒される。上手いのは言うまでもないが、この人は踊りが達者なので動きが綺麗なのだ。動作の、セリフの一つ一つに溜め息が出る。
彼女の存在感が強すぎて、芝居全体がまるで松竹新喜劇を観ているような気分になった。恐るべし、藤山直美はあらゆる物を飲み込むブラックホールである。
売れない芸人を演ずる中村勘三郎と柄本明のコンビは絶妙、この役は二人以外は想像もつかないハマリ役だ。
勘三郎はさすが歌舞伎役者だ。踊りは上手いし所作が美しい。もしかして「地」では思わせるほどの軽妙な演技で唸らせる。ただ風邪気味だったのだろうか、声があまり出ていなかった。
柄本明はそこにいるだけでホンワカしてくるような独特の個性がある。緊張感をふっと抜かすような絶妙な間の演技に感心した。

興行師役の小島秀哉は風格をみせ、弁士を演じた坂本あきらが軽妙な芝居を演じ、隣人のみね役の青柳喜伊子が良い味を出していた。
沼沢八重役の美波は可憐だがセリフに硬さを感じた。川田まつ子役の今井りかのセリフ回しが全体の雰囲気にマッチしていた。
脇役では、まつ子の恋人役を演じた有薗芳記の熱演が光る。

幕間や場面転換の時のつなぎに出演者のコントが演じられたが、アドリブもありサービス満点。
「ジャンプと着地」という演出家のラサール石井の目標は、十分達せられたと思う。

「帰ってきた浅草パラダイス」は、原作・演出・出演者全ての力が集まった、確かな芸に裏づけられた第一級のエンターテイメントである。
本物の芸があって、はじめて本物の笑いが生まれる。このことを再認識させられた芝居だった。

公演は25日まで。

2009/02/19

二度とペットは飼わないと誓う




コネタマ参加中: ペットの困った体験談、教えて!


幼いころから犬が好きで、7才の時に親戚の人から雑種の子犬をもらい、育てました。名前を「ベル」と名付けました。
ベルは変った犬で、散歩につれていくと人の前は歩かず、いつも人より後ろを歩くのです。
家族で銭湯に行くときはいっしょに付いてきて、鎖をつけていなくても出入り口でじっと待っているような犬でした。
寂しがりやで、人なつこくって気が弱く、番犬には役に立ちませんが、とにかく可愛い犬でした。

欠点は鳴き声で、吠えるというよりは、人が寒さに震えるような声で鳴くのです。家族が留守になる日中とか寝しずまった夜中に鳴く、これが問題を起こしました。
私が11才になるころ、運わるく隣家のおじいさんが病で寝たきりになり、ベルの鳴き声のことで再三苦情が寄せられるようになりました。確かに病気になったときは近くの騒音が気になります。東京のような、家と家がくっついているような環境では、余計そうです。ベルの鳴き声が変っていることも災いしたのでしょう。

家族としてはやむなく、ベルを手放すことにしました。雑種ですしもらい手はありません。何回か捨てに行ったのですが、家にもどると、ベルは私たちより先に帰っているのです。
他に方法がなかったので、最終的に保健所に連れていって処分してもらうことにしました。
わたしが飼っていたのですから、母には付いて来てもらいましたが、わたし自身がベルを連れていくことにしました。
保健所の裏に犬の処分所がありましたが、そこには沢山の犬が檻に入れられていました。
母とわたしが前を通りかかると、いっせいに檻の前の金網に駆けよってきて吠えるのですが、その犬たちの悲しそうな眼は、今でも鮮明に思い出されます。犬といえども、きっと自らの運命を知っていたのでしょう。

今でも犬は好きですが、その時いらい半世紀以上経ちますが、いっさいペットは飼っていません。
ベルのために、わたしは生涯ペットを飼わないと決めたからです。
わたしの人生の中の苦い思い出として、心に残っています。

2009/02/17

中川財務相とアル中

Nakagawa_shoichi自民党には「中川」姓の二人の有力議員がいる。その一人である中川秀直元幹事長は女ぐせの悪いことで知られており、識別するため「中川(女)」と書かれていた。これからはもう一人の中川昭一は、「中川(酒)」と書かれることになるだろう。
わたし自身が酒好きであり、酒では過去になんかいも失敗しているし、それに会社の同僚で親しい飲み友達だった二人をアル中で失っている。だから顔を見るとアブナイ人は容易に見分けられる。
中川昭一がかなりの酒好きか、あるいは既にアル中に足を踏み入れているか、そういう人物であることは前から分かっていた。
G7閉幕後の記者会見での失態は、あきらかに深酒が原因だ。
公の席でも自制できない深刻な事態が中川財務相におきている。

私の友人の経験からすると、アル中の特徴は次のようだ。
(1)奇行が目立つようになる
(2)人格が破壊していく
友人の一人は、会社の朝礼でいきなり次のような発言をしだした。
「昨夜、家にノミが出てとても痒い思いをしました。もし今日、みなさんの中で痒い人がいたら、それは私の責任です。」
これを真面目な顔で喋るのだから、一同あっけにとられた。事情を知っている上司は、「そういうことだそうだから、皆さん気をつけて。」とまとめていた。
この人は根が正直でウソをつかない人だったが、アル中の進行と共に平気でウソを言うようになった。仕事もいい加減になり、最後は退職を迫られ自殺してしまった。
もう一人の友人は、全身がボロボロになるまで呑み続け、最後は肝硬変静脈瘤破裂で死んでいった。
わたし一人が、今もこうして生き残っている。
アル中は本気で直そうとしなければ、死の病である。

中川財務大臣の酒の失敗は、今回が初めてではない。
2008年11月には、宮中晩餐会で酔って大声で怒鳴るという醜態をさらけだしていた。
この1月の衆院本会議では、財政演説で26ヶ所も原稿を読み違いし、議事録の訂正をしている。
その度に反省の言葉を口にしているが、むしろ事態は深刻になってきている。
中川財務相だが、心を入れ替えて本気で酒をやめるか、それでもダメなら医療機関と相談して治療を受けるか、いずれにしろまともな状態にしなければ、大臣はおろか、公職に就くことも辞退すべきだろう。

なにせ半分病気なのだ。
悪いことはいわない。これ以上笑いものにならないために、自発的に辞職するか、それをも拒むなら大臣を解任するしかないだろう。
小渕優子は懐妊だが、中川昭一は解任である。

2009/02/16

麻生政権「中」づくし

小泉元総理、麻生おろしで【渦中】
麻生首相、支持率10%を切り【暗中】
中川財務相、【アル中】で意識モーロー
小渕少子化担当相、【命中】でご懐妊
かくて麻生政権、五里【霧中】

2009/02/15

石原慎太郎の「転向」

2月3日に、2016年夏季五輪開催を目指す東京の招致委員会が立候補ファイルを公表しましたが、ここで招致委会長の石原慎太郎知事が次のように述べています。
「日本は戦後60年、いかなる紛争にも直接巻き込まれずにきた。胸を張って五輪で世界に平和を呼び掛けることができる」。
またIOCに提出した五輪立候補ファイルの中に、石原知事からロゲ会長にあてた次の書簡があります。
「私の祖国日本は、第二次世界大戦の後、自ら招いた戦争の反省のもと、戦争放棄をうたった憲法を採択し、世界の中で唯一、今日までいかなる大きな惨禍にまきこまれることなく過ごしてきました。」
オリンピックの開催にあたり世界平和をかかげるのは結構なことですし、これらの石原都知事の発言に異論はありません。
それにしても憲法敵視、戦争大好きの慎太郎さん、急にどうしちゃったんでしょうね。

ここで過去の石原慎太郎の憲法に関する発言を見てみましょう。
「北朝鮮のミサイルが日本に当たれば、長い目で見て良いことだろうと思った。日本は外界から刺激を受けない限り、目覚めない国だからだ。特に北朝鮮のミサイルが核、生物弾頭を搭載するとなれば、日本がいかに無防備か理解するだろう」
(米紙ロサンゼルス・タイムズ2001年3月12日に掲載されたダボスでのインタビュー)

『石原慎太郎東京都知事は、「日本の兵士が死亡するのを見れば国民は怒り、結束し、政府を支持するだろう」と言明し、イラクに派遣されている自衛隊員が死傷すれば、国民は政府の下に結集し、憲法改正の動きが進展するとの考えを示した。』
(英紙フィナンシャル・タイムズ 2004年3月3日付の報道より)

「平和憲法は見直しではなく、廃棄すればいい。歴史的正当性があると思うかどうか、国会議員全員にアンケートをとってみればいいんだ」
(2004年3月8日、都議会の一般質問終了後、報道陣に対して)

こうして憲法を改正するためには、北朝鮮のミサイルが日本に命中することや、イラクで自衛隊員が戦死することを待ち望んでいた石原知事。
今回の五輪招致にかかわる一連の発言とのギャップをどう説明するのでしょう。

石原知事の東京五輪招致は、新銀行東京の乱脈経営の責任を逃れるため、いわば都民への目くらましとして打ち出したものです。
与党議員が融資先を紹介し、その謝礼として献金を受ける。しばらくすると融資を受けた法人は倒産し、資金は消えてなくなり回収が不能になる。
こうして気がつけば1000億円以上の都民の財産が食いつぶされた、これが石原銀行の構図です。今後、刑事告発される可能性も出てくるでしょう。
もし五輪招致に失敗したら、今までの石原都政への批判が強まることは明らかで、いわば晩年の政治生命を賭けてのぞんでいるわけです。
この辺りが、石原知事が自説を曲げ、俄か平和主義者へ「転向」した理由ではないでしょうか。

鈴本演芸場中席夜の部(2/14)

時ならぬ初夏の陽気、土曜の鈴本夜席は一杯の入り。
膝前は日替わりの交互出演で、この日は柳家花緑だった。開演前に並んでいたら、後ろの二人連れが「花緑か、他の人が良かったのに」と嘆いていた。その一方、座席の後方二人連れは、お目当ての花緑が下がると、トリを待たず帰ってしまった。こういうところが独演会ではあり得ない、寄席の面白い点だ。

前座は春風亭朝呂久「桃太郎」だが、お爺さんが川に洗濯に行っちゃあいけない。素人演芸会じゃないんだから、お粗末の一言。
・宝井琴調「木村長門守重成 堪忍袋」
講釈師が一番やってはいけないのが、カムことだ。リズムが崩れて聴いていられなくなる。
・柳亭市楽「転失気」
久々だったが、喋りがすっかり落語家らしくなった。芸風が明るく嫌みがないのが良い。
・翁家和楽「太神楽」
・橘家文左衛門「寄合酒」
体育界系の「寄合酒」。近ごろ上品な噺家が多くなった中で、こういう乱暴な芸風が貴重になってきた。
やっぱり文左衛門は、上野鈴本より池袋演芸場が似合う。
・昭和のいる・こいる「漫才」
・柳家さん喬「天狗裁き」
こういう短い時間でも、オチまでキッチリ演じるところがいかにもさん喬らしい。
・古今亭志ん五「蜘蛛駕籠」
志ん五のとぼけた味が生きたネタだった。
時間の関係からか、登場人物が2,3人カットされていて、その分薄味。

~仲入り~
・ペペ桜井「ギター漫談」
偉大なるマンネリ。
・柳家花緑「長短」
花緑は高座に上がってからネタを決めることが多く、この日もさんざん迷った挙句に「長短」。
師匠・先代小さんが言っているが、このネタの一番の注意点は、気長の男のセリフをできるだけユックリと喋ることであり、時間に急かれるときはこのネタは避けた方が良いのだそうだ。
花緑は迷った分だけ時間が詰まり、先を急いだ高座になってしまったのが惜しまれる。
・ダーク広和「奇術」
ハッタリの少ない手品師。もう少し堂々と演じた方がウケるのでは。
・柳亭市馬「厩火事」
このネタ、年上のキャリアウーマンが生活力のない若い男と暮らし、不満を持ちながら別れられない女の「性」をモチーフにした、現代にも通じる普遍的なテーマを内包している。
仲人に別れろと言われたおさきが、「旦那はそうおっしゃいますけど、ねえ、・・・・」の場面で、おさきの女の「性」がどれだけ出せるかで、出来が決まる。
市馬の高座は、兄弟子・柳家小三治をなぞった演出だが、先の部分が物足らない。
それからもう一つ、このネタは名人文楽が十八番にしていたが、口演時間は20分だった。市馬もそうだが、最近の噺家は30分近くかけるケースが多い。
時間が長くなった分テンポが悪くなり、ややダレ気味になると感じるのだが、どうだろうか。

落語が6席だけというのは、いささか物足りない。
演目のバランスを一考して欲しいところだ。

2009/02/12

「金賢姫と面会」は疑問だ

北朝鮮の元工作員・金賢姫元死刑囚と、拉致被害者・田口八重子さんの家族との面会について、韓国の柳明桓外交通商相が実現を示唆したことに対し、田口さんの兄・飯塚繁雄さんは「前からお願いしてきたことが具体的な話となり、うれしく思っている」、「まず、(田口さんと)一緒に過ごした間の様子を(金元死刑囚に)聞きたい。そのうえで信頼関係を築き、継続して会えるようにしたい」と述べた。また面会には長男・飯塚耕一郎さんも同行させたい意向を示している。
この件ではメディアも歓迎ムード一色のようだが、果たしてそれで良いのだろうか。

先ず金賢姫(キム・ヒョンヒ)元北朝鮮工作員とはどういう人物なのか振り返ってみたい。
1987年11月29日、大韓航空858便・ボーイング707型機が、北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破された航空テロ事件が起きた。いわゆる大韓航空機爆破事件である。この事件で、乗客・乗員合わせて115人全員が死亡するという、当時としては史上最悪のテロ事件だった。
金賢姫はこの凶悪事件の実行犯である。
韓国に移送され裁判を受け、1989年に死刑が確定した。当然である。当時の韓国の政治体制からすれば即刻処刑されると見られていた。
しかし韓国政府は理由を明らかにしないまま、特赦により金賢姫を解放してしまう。この処置に対して、事件の遺族たちからは激しい抗議が行われたことを鮮明に記憶している。

金賢姫は韓国の情報機関の監視下におかれたとはいえ、メディアへの露出、はては自伝の出版まで許されるなど破格の待遇を受けてきた。
そのためか、彼女が凶悪犯であるという事実が次第に薄れ、まるで悲劇のヒロインのように扱われるようになった。映像から見る限りでは、私にはこの女のしたたかさしか感じられない。あまりにアッケラカンとしている態度からどこまで罪の意識を自覚しているのかと、金賢姫という人物の人間性を疑ってしまうのである。
こうして悲劇のヒロインを演じてくれていた方が、韓国政府としても好都合なのだろう。
しかし大韓航空機爆破事件は、ラングーン事件や日本人拉致事件などと並ぶ北朝鮮による国家犯罪であり、金賢姫はその実行犯であったことを忘れてはなるまい。

金元工作員は国家の命令により犯罪を行っただけという弁護論があるが、これはおかしい。
国家の命令であれば免罪されるなら、日本人を拉致した実行犯だって罪が問われないのだろうか。9・11テロの犯人も、アルカイダの指示に従っただけなら無罪なのだろうか。
まさか、美人に悪人はいないと信じているわけでもあるまい。

大韓航空機爆破事件は、日本にとっても無関係な事件ではなかった。金賢姫ら実行犯が日本人パスポートを所持していたことから、当初日本人が係わったのではという疑いが持たれた。事実、バーレーンで拘束された金賢姫は日本語を使って、日本人のフリをしたのである。
彼女たちは日本人名義の偽造パスポートを持っており、日本国内法の「旅券法違反ないし偽造公文書行使」に該当する。従って本来は、日本政府が金元工作員の身柄引き渡しを要求できた。
金賢姫は、我が国からしても犯罪人だという事実は頭に入れておく必要がある。

拉致被害者の家族が、被害者の状況を知るために金賢姫に面会したいという気持ちは、情においては理解できる。しかし、横田さんご夫妻がめぐみさんの娘との面会を拒否したように、時には情を捨てねばならないこともある。
拉致事件という北朝鮮の国家犯罪の被害者家族が、その国家犯罪の実行犯に面会するというのは、大いに疑問がある。
まして大韓航空機爆破事件の遺族の心情を慮るなら、喜んで面会に行くのはいかがなものだろうか。
釈然としない気分が残る。

2009/02/11

鯉昇・喬太郎二人会「古典こもり」(2/10昼の部)

瀧川鯉昇、柳家喬太郎という、落語協会と芸術協会を代表する古典の実力派二人の落語会が2月10日、東京芸術協会小ホールで行われた。昼夜公演で昼の部へ。平日の昼だというのに満員の入り。
寄席は景気に左右されない商売で、バブルだから連日大入りということがない代りに、不景気だから閑古鳥ということもない。むしろ不況の時のほうが笑いを求める傾向があるので、客が増えるようだ。
「古典こもり」というタイトルから分かるように、二人が古典のネタを2席ずつ演じるという趣向。

・柳家小ぞう「初天神」
さん喬一門の前座だが、しっかりとした高座だった。きん坊が子供らしく描かれていて良かったと思う。
・柳家喬太郎「家見舞い」
出だしでいきなり噛んで、「今日はもう噛みますよ」と宣言していたが、結局この1回だけだった。
時間の関係からか前半をカットし、10銭で肥甕を買う場面から入る。川で甕を洗うシーンで、一人が手に縄を巻きつけて、相棒から形が良いと誉められと見栄を切るところが喬太郎独自のくすぐり。それ以外はオーソドックスな演出で、手堅くまとめたという印象だった。
・瀧川鯉昇「茶の湯」
このネタ、現役の噺家の中でも鯉昇が一番面白いのではなかろうか。第一、この人は黙って高座にいるだけで可笑しく、独特の風貌と語りのリズムが良い。展開はスピーディだが決して平板にならない。
過去の高座に比べ、この日はよりパワーアップしていたように感じた。

~仲入り~
・瀧川鯉昇「粗忽の釘」
2席のうち1席は短めにするようで、亭主が重い荷物を背負って新居に着く場面から始まる。女房や隣近所の人間の落ち着きぶりが、この亭主の粗忽ぶりを一層際立たせる。聴いているうちに、亭主と鯉昇のキャラがかぶってくる。
釘が阿弥陀様の股座から出るところが独自の演出、こっちの方が面白い。
・柳家喬太郎「按摩の炬燵」
喬太郎の「按摩の炬燵」は、もはや芸術品といって良い。このネタで喬太郎を越える人は、しばらく出てこないだろう。
このネタでは全体の8割近くが按摩・米一の、酒を5合呑みながらの独り語りだが、ここが実にしんみりと聴かせる。と、言って決して暗くならず。
子どものころ近所の子にメクラだとからかわれて虐められると、幼馴染だった店の番頭がかばってくれたというたった一言、これだけで按摩の境遇を分からせる、実に見事というしかない。
喬太郎は、盲人が主人公の演目はどれも上手い。ここだけは名人・文楽に似ている。

古典落語の良さをしみじみ味わうことができた、充実の二人会だった。

2009/02/10

「ああいえば麻生」

字を知らない漢字が読めないことは既に話題にすらのぼらなくなった麻生首相だが、ここへきて「(K)考えるのを(Y)やめる」という、もうひとつのKYが問題になっている。それは思考停止である。
郵政民営化についてのこの間の麻生総理の発言は、正に「日替わり」メニューなのだ。
自民党の総裁選挙の時は→「私が郵政民営化担当大臣だった、忘れないでくださいね。」
予算委員会で追求されると→「郵政民営化担当は竹中さん、濡れ衣をかぶせられると甚だ面白くない。」
5日の予算委の答弁→「郵政民営化に私は賛成じゃなかったので、解散の詔書にサインしないとかいって、えらい騒ぎになった。」
9日の予算委の答弁→「指名された時は反対」だった。しかし2年間に色々勉強させてもらって、民営化した方が良いと最終的にそう思った。」

その日その日によって、よくこう180度くるくる発言を変えることができるなと感心してしまう。まともじゃ無い。
オウム真理教の上祐じゃないが、ああ言えばこう言う、「ああいえば麻生」なのだ。
恐らくは何も考えることなく、その時に思いついたことをただ口から出していると、こうなるのだろう。麻生首相の場合、発言するさいに脳の中のチェック機能が働いていないのだろう。
総理大臣だからうんぬんというよりは、人間としてどうなのかという根源的な疑問がわいてくる。
人として信頼できない、これは致命的だ。
各メディアの世論調査で、内閣の支持率が10%台に落ち込んでいる原因は、この辺りによるのだろう。

漢字が読めないことについて様々な論評が行われていたが、その中で私が最も注目していたのは、「しらべるが行く」というサイトの記事だったので、以下、一部引用する。
【引用始め】
このあいだ、知人が 「嘱託社員」を「ぞくたくしゃいん」と読んでいた。
同僚の誰かが教えてあげればよいのだが、誰も教えない。
「あいつは人の意見に耳を貸さない」
「プライドが高いから、指摘するとすねる」
「なにか屁理屈を言って反論してきそうだ」
このような評価をされている人には、周りは言いづらい。
この場合、教えてあげない周りが悪いのではなく、
「俺に意見するなよ」オーラを出している本人が悪い。
(中略)
読み間違いは、漢字を知らないことが恥ずかしいのではない。
長い人生で、その言葉を使わず、誰からも指摘されずに生きてきた、
うすっぺらい人生が恥ずかしい。
【引用終り】

国民の多くは、麻生首相の「うすっぺらい人生」に気がついたのだ。

2009/02/09

【寄席な人々】“笑点”の功罪

ある落語家の話だが、地方寄席を開く準備をしていたらその会場の係員から電話があり、「座布団は何枚くらい用意しますか?」という問い合わせだった由。高座の座布団なら、出演者が何人いても1枚で足りる。会場の係員にとっては恐らく、寄席=“笑点”というイメージがあったのだろう。
寄席に来たことがない人、ナマの落語を聴いたことがない人にとっては、そうかも知れない。

似たような話では、初対面の方に「ご趣味は?」と訊かれ「落語です」とか「寄席が好きです」と答えると、相手の方が気を利かしてか“笑点”のことを話題に振ってくることが多い。
私自身はその“笑点”をめったに見ないものだから、逆に返事に困る。何せ、司会者がいつの間にか圓楽から歌丸に代ったことや、回答者に昇太が出ているのを先日知ったばかりなのだ。
そんなわけだから、“笑点”の話題を振られてもアイマイな返事しかできなくて、心苦しい思いをする。

“笑点”は1966年に放送開始以来(その当時はよく見ていた)、放送回数が2000回を越える長寿番組であり、演芸バラエティとしてはお化け番組だ。
戦後の落語ブームがラジオ放送によって火がついたとすれば、昨今の寄席・落語ブームは落語家を主人公にしたTVドラマの影響だ。しかし数十年の長きにわたり全国津々浦々に寄席演芸を宣伝してきたという点では、“笑点”の貢献は大だ。落語家は“笑点”に足を向けて寝られないだろう。
その反面、“笑点”が寄席演芸だという誤った理解を生んでいることも否定できない。
“笑点”、特にその中の「大喜利」は寄席とか落語とかとは根本的に頃なるジャンルだ。

先日、三遊亭圓楽一門会に出向いた時に、圓楽が“笑点”について次のように語っていた。
「TV局には何度も、番組を降ろしてくれとお願いしてきたが、視聴率の関係から断られ続けてきた。
“笑点”で、毎週2日間拘束された。これが大変だった。
出演者と番組スタッフが相談しながら問題を考えるのが1日、もう1日は番組の収録のためだ。」
放送時間はわずか30分足らずだが、それに2日間の準備をしていたわけだ。やはり時間をかけないと良い番組はできない。
放送ではいかにもその場で問題を出して即興で答えているように見せているが、実は周到な準備がされている。長寿番組になるには秘訣があったのだ。
一時期、他局でも“笑点”の類似番組が放送されていたが、全て永続きしなかったのは、これだけの準備時間をかけていなかったためだろう。
“笑点”が、寄席や落語とは全く違うという意味はこの辺りにある。

人気落語家がそれだけ拘束されるということは、人気という緬からすればプラスにはなるが、その一方本業への影響も無視できない。
談志や志ん朝だって若い自分はバラエティ番組に出ていたが、ある時を境にして高座に専念するようになっていった。そうしなければ本物の芸は磨けない。
ところが“笑点”の主要なレギュラーは、もう数十年もこの番組に出続けている。この間、しっかりと芸を磨いてきた人もいるが、“笑点”人気にのって明らかに修行を怠ってきた出演者もいる。
圓楽が再三にわたり番組を降りたいと願ったのは、この辺りに理由があったのだろう。

さて落語フアンの方々が“笑点”をどう見ておられるのか、ご意見を拝聴できたら幸いである。

2009/02/08

特選落語名人会~小遊三・小朝・昇太~

Shota2月7日、東京厚生年金会館で小遊三、小朝、昇太という人気の顔ぶれが出演した「特選落語名人会」に出向く。さすが、大きなホール一杯の客足。客層を見ると中年のご婦人が多く、明治座にいるような雰囲気。
・瀧川鯉斗「転失気」
今年二ツ目に昇進予定の前座だが、そんなレベルに達していない。声は大きいが、喋りがプロの噺家になっていない。毎回の元暴走族だったというマクラも鼻につく。

・三遊亭小遊三「短命」
山梨県出身ということで、山梨の自虐ネタをマクラに。確かに山梨という位置は微妙で、関東甲信越という大きな括りから関東地方に含まれる。以前、山梨県を首都圏に入れたのは、かつて地元の有力代議士だった金丸信の力だと聞いたが、本当かしらん。
甲州というと武田信玄を思い出すが、黒駒の勝蔵を始めとする、博徒の親分衆を輩出したことでも知られている。黒駒勝蔵は幕末から明治に移る時に処刑されてしまい、すっかり清水次郎長の敵役にされているが、本当は彼の方がはるかに立派なヤクザだった。
「短命」だが、小遊三はこういう軽いネタをやらせると上手い。艶笑落語だが、小遊三が演じると少しもイヤらしくなくなるのはキャラのせいか。

・春風亭小朝「七段目」
小朝ぐらい落語フアンの中で評価が分かれる噺家はいないだろう。圓楽が引退した時に、現役で誰が一番かという問に、迷わず小朝と答えていた。「今はやっぱり小朝さんよね」という声も耳にするが、厳しい声も多い。
批判の矛先は、もっぱら小朝の高座の手抜きに向けられる。落語家だってナマミの人間だから、常に全力投球をするわけにはいかない。手を抜くこともある(中には常に手を抜いている噺家もいる)。小朝については、期待度が大きい分だけガッカリ度も大きくなるのだろう。
加えて私見になるが、小朝のマクラが時代と微妙にずれ始めている。「近ごろの若い女性は・・・」などと喋る内容が、現実と離れてきつつある。
客席を暗くして歌舞伎の話をマクラに振ったので、てっきり「中村仲蔵」かと思ったが「七段目」であった。
完全版かと思える丁寧な演出で、面白く聴かせていた。見たことはないが、小朝は踊りがかなり上手いと見えて、所作の一つ一つがとても美しい。
手本となるような「七段目」だった。

~仲入り~
ロケット団「漫才」
今東京の漫才で一番面白いのは、このロケット団だ。定番になった四文字熟語や英語を山形弁で喋るギャグ、ボケとツッコミの微妙な間に更に磨きがかかってきている。
本格的なシャベクリ漫才の「星」だ。

春風亭昇太「花筏」
年末の紅白歌合戦や除夜の鐘、初詣などの風景をネタにしたマクラで場内は大爆笑。
森進一の「おふくろさん」の物真似では、周囲のご婦人たちが涙を流しながら笑い転げていた。ここ数年の「おふくろさん騒動」は、偏に昨年末の紅白盛り上げのための仕込みだったのだが、多くの視聴者がNHKの仕掛けにハマッタわけだ。
昇太の感覚は若い。小朝と年令が3つしか違わないとは思えない。もしかして独身のせいか?
「花筏」、面白かったですよ。昇太の古典は崩しているようで本筋を外さない。だから面白い。

こういう肩の凝らない落語会も実に楽しい。
三者三様、それぞれも持ち味が発揮されていて満足した。

2009/02/07

「実話」総理

かつてある漫才のネタにこんなのがあった。
「実は・・・、実は・・・、実は・・・、」
「さっきからあんたの話は“実は”ばっかりだね。」
「はい、いつも“実話雑誌”を読んでるもので。」
“実話雑誌”、実話誌とも呼ばれていた。かつて誌名に「実話」がついた雑誌がたくさん出版されていたが、内容がいわゆるエログロ、芸能ゴシップの裏話記事を主体としていて、真実とはほど遠い“いかがわしい”雑誌の代名詞となっていた。

麻生首相は今から数年後には、間違いなく次の発言をしているだろう。
「実はあの時、オレは給付金には賛成じゃなかった。だけど総理大臣だったので反対できなかった。」
受け取る人間を「さもしい」とまで表現した麻生首相は、いま進めている定額給付金制度に反対なのは明らかだろう。本当はやりたくない、でも連立の公明党がヤイヤイ言ってくるから仕方なくやっている、そういう表情がありありと見えるのだ。

2月5日の予算委員会で、麻生総理は「私は郵政民営化に賛成じゃなかった」と答弁し、民営化担当ではなかったかとの指摘には「反対だったので(担当を)外されていた。濡れ衣を着せられると、おれもはなはだ面白くない」と語った。
寅さんじゃないが「それを言っちゃあオシマイよ」であり、郵政民営化で民意を問われた我々国民は、ただただ唖然とするばかりだ。
小泉政権のもとで常に要職にあった麻生太郎氏のこの発言が真意だとすれば、私たちは詐欺にあったようなものだ。

麻生首相から名指しされた竹中平蔵(当時郵政民営化担当大臣)は「あの選挙はなんだったのか。すぐに選挙をやり直せということだ」と語り、自民党の山本一太議員は「今すぐ衆院選挙をやって、もう一回国民の信を問わないと理屈に合わないと」と述べた。
もう一度選挙だって! やれるものならやって貰いましょうよ。
今度は国民も詐欺にあわぬよう、気をつけますよ。

「実は、実は」と、これじゃまるで「実話」総理だ。
中味が「いかがわしい」という特徴も、「実話雑誌」と共通している。

2009/02/05

見えてきた小沢代表の「衣の下の鎧」

昨日の時事ドットコムに注目すべき記事が載っていたので、以下に紹介します。
【引用始め】
次期衆院選で民主党が政権交代を実現した場合、わが国の外交・安全保障政策は変わるのか。同分野に詳しい同党の長島昭久衆院議員にインタビューした。概要は次の通り。
 -ソマリア沖の海賊対策への党の対応は。
 (党内に)幅広い意見を抱えているから、(党の)外務・防衛部門では議論を避けてきた。党の意見くらいはきちんと集約しないといけない。
 -民主、社民、国民新の3党連立政権となれば政策調整が大変では。
 自公連立とそんなに変わらない。とことん議論していくしかない。
 -海上警備行動を発令しての護衛艦派遣について党の結論は。
 (今は)海上保安庁にどういう限界があるか検証する段階だ。海保では難しいと理解できれば、早晩結論が出る。
 -派遣を認めれば、麻生政権に協力することになるが。
 最終的に小沢一郎代表が決断することだ。今は自民党を倒すことが大義だから、協力しないという決断は、政治論として理解できる。過渡期だから仕方がない。
 米国の知人から「インド洋での海上自衛隊の給油活動などに反対する民主党はめちゃくちゃだ」と心配されるが、「小沢代表は必ず君子豹変(ひょうへん)する。政権を取ったら現実的な対応をする」と答えている。そうでなかったら政権運営できない。
(後略)
【引用終り】

早く言えばこういうことですね。
民主党は今は野党だから、自公政権の政策に何かとイチャモンをつけているけど、政権の座につけば「豹変して」現実的な政策に転換するという宣言です。
政治の世界で「現実的」とは「現状」と同意語ですから、基本政策は何も変えないという意味ですね。このインタビューは一応外交と安全保障がテーマになっていますが、政治というのは一事が万事ですから。
かねてから当ブログでは、民主党政権になっても何も変らないと主張してきましたが、どうやらその通りのようです。

ではなぜ今、民主党の有力議員である長島昭久が、敢えて小沢一郎の「衣(ころも)の下の鎧(よろい)」を示唆するこうした発言をしたのかですが、私は次の2点にあると推定しています。
(1)民主党が政権につくと、今までの主張とガラリと変った政策を打ち出すのは明らかなので、その際の国民の反発をやわらげるために、事前のアナウンスをしておく。
(2)従来の自民党支持者に対して、政策は変更しないからと安心感を与える。
要は「予告編」。

2009/02/04

桂吉弥独演会@横浜にぎわい座

Kichiyaスポーツ選手だろうと芸能人だろうと、センスがない人間は一流にはなれない。特に落語家はそうで、だって扇子(センス)がなければ落語ができない。
その噺家としてのセンスにかけて桂吉弥は、上方落語界でも屈指の存在だろう。師匠だった桂吉朝亡きあと、大師匠桂米朝の芸風をいちばん継いでいるのは、一門の中で吉弥ではないかと私は見ている。
その桂吉弥の独演会が2月3日節分の日、横浜にぎわい座で行われた。NHKドラマやバラエティ番組出演で顔が売れ、東京でもフアンが多くなった。男前のゆえか、中年のご婦人の姿が目立つ。

・桂吉の丞「動物園」
自己紹介で前座といってたし、座布団返しもしていたから前座の位置なのだろう。しかし高座はしっかりとしていた。独自の演出上の工夫も見られ、このネタをここまで面白く聴かせる力量に感心した。
さすが吉朝最後の弟子だけある。

・桂吉弥「七段目」
5代目桂米團治襲名披露の口上のエピソードをマクラに。桂ざこばに、最近TVで人気が出て少し驕っているぞというツッコミがあったと紹介していたが、吉弥の入門時のエピソード(ざこばだけが反対したといわれている)を思い出した。
このネタは一にも二にも、演者に歌舞伎の形が身についているかどうかで、出来が決まる。吉弥は役者の所作やセリフをよく研究していて、とても良い仕上がりだった。
例えば若旦那が二階に上がるときに八百屋お七の人形振りを真似るが、こうした演出が吉弥の優れたところだ。これで店の主人に風格が出れば、言うことがないのだが。

・桂紅雀「向こう付け」
無筆の男が葬儀の記帳を担当するというネタ。確か吉弥とは同年代だと思われるが、随分と差がついたものだ。
高座のハイテンションが客席と空回りしていた。噺の「間」のとり方に工夫を要する。

・桂吉弥「不動坊」
このネタ、長い割に笑うところが少なく、演者に力量がないとダレル。吉弥は米朝を彷彿とさせる落ち着いた高座で、タップリと聴かせてくれた。
特に利吉が風呂で独り言をいう場面の目の動きに色気があり、不動坊のニセ幽霊の場面では適度の緊張感を保たせて、私としてはこのネタのベストに選びたい。
欲をいえば、家主にもう少し貫禄がほしい。

~仲入り~
・桂吉弥「くしゃみ講釈」
久々に面白い「くしゃみ講釈」が聴けた。先ずは男が八百屋に胡椒を買いに行き、品物の名前を思い出すのに、カラクリの八百屋お七を一段語る場面が秀逸。八百屋が人だかりを整理する場面で場内は爆笑。
講釈(講談)の場面もしっかりと演じて、くしゃみを連発させる場面で、もう一度場内は大爆笑。
吉弥の声が良くて口調が明快なところが、十分生かされた高座だった。

終演後は節分の日にちなんで出演者そろっての豆まきがあり、にぎにぎしく終了。
吉弥の三席、いずれも言うことなし。
この3つのネタだが、この日の吉弥を凌駕する東京の落語家が果たしてどれだけいるだろうか。
そう考えると、チョット寂しい気もする。

2009/02/03

ジェロの新曲「晴れ舞台」は良いですよ

1月末発売のジェロの新曲「晴れ舞台」、「NHKみんなの歌」で放映されていたのでご存知の方もおられると思いますが、初めて聴いたときに胸がジーンときました。
「晴れ舞台」
歌手:ジェロ
作詞:中村中
作曲:中村中
歌詞の全文は歌ネットに掲載されていますので、そちらをご覧ください。

歌詞の終わりが
♪もうじき暗い 幕が開くよ
おいらの姿 見ててください♪
となっていますが、自分の人生を振り返りながら故郷の母への想いを歌ったもので、ジェロの自伝的な歌詞になっています。
それはまた同時に、詞曲の中村中の人生をも投影しているかのようです。

ジェロという歌手、声も良いし歌唱力もありますが、今ひとつ歌に感情がこもっていないところから、あまり評価をしていなかった。
しかしこの曲は違います。新曲発表の時にジェロが歌いながら涙を流したと伝えられていますが、確かに魂がこめられています。
ブルース調のメロディもジェロの歌唱にフィットしていて、久々に感動を味わうことができました。

2009/02/02

相撲界の不祥事はなくならない

外国人力士に引き続き、若麒麟が大麻吸引で相撲協会を解雇された。
大麻問題にゆれる相撲界だが、こうした不祥事はこれからも無くなることはないだろう。それは相撲の力士というのは、かなり特殊な世界にいるからだ。
子どもの頃、隣家の主人は一時期タニマチをしていた。未だ幕下だか三段目の二人の力士だったが、頻繁にこの家を訪れていて、新番付が発表されると直ぐに届けにくる。我が家もそのお裾分けにあずかり、お陰で相撲の番付というのを初めて目にすることができた。
力士が訪れるとその主人と共に外出するが、行く先は飲食の場である。飲む量も食べる量も半端でなく、とにかく相撲取りは金がかかるとその主人は言っていた。

小学生だった私は熱烈な相撲フアンだったが、この光景が不思議でならなかった。どうして力士がしょっちょう隣家に訪れ、また主人がその度に飲み食いに連れていくのか疑問だったからだ。
かつて水商売をしていた母の説明は次のように明解で、子どもの私にも良く分かった。
(1)力士というのは昔から「男芸者」と言われていて、宴席では歌や踊りを披露したり酌をしたり、とにかく宴席に侍らせると面白い人たちだ。
(2)力士は大男で着物姿で髷を結っている。こういう男を連れ歩くと、その人にハクがつく。金はかかるが、引き立て役にはもってこいだ。
確かに力士二人を従えて町内を歩くと、その主人がとても大人物に見えた。

その後、隣家の主人が実は詐欺師で、周りの人々から金を巻き上げ夜逃げしてしまった。もちろん贔屓にしていた力士に罪はないのだが、結果的に詐欺の演出の道具に使われていたわけだ。
相撲取りに近付きタニマチになる人には、むろん相撲が大好きで、あるいは特定の力士のフアンでという人が多いだろう。しかし思惑があって近付き、接待をしながら自分の商売に利用しようという人間がいても不思議はない。

一方、力士というのは何かと金がかかる職業なのだ。先ず飲食代だけでも大変な金額になる。身なりを整えるのだって費用がかかる。若いから遊興費もいるだろう。
しかし幕下以下というのは無給だから、親方や先輩から小遣いをもらうしか収入の道がない。それだって限界があるので、贔屓の客を見つけて、悪く言えば金づる(パトロン、タニマチ)を確保する必要はあるのだろう。
関取になったらなったで、今度は化粧まわしだの何だのと、体面を保つためにはこれまた何かと出費がある。とても相撲協会からの給料だけでは足りないのだ。
引退して親方になっても、部屋を持つとなればこれは膨大な費用がかかる。
とにかく力士というのは、金がかかるものなのだ。

そこで、熱心なフアンがある一方、時にはいかがわしい人物が近付いてくるのも避けられまい。「遊び人」のような暮らしをしていれば、怪しい人物との接触もおきる。
現在も、協会幹部や人気力士と暴力団との付き合いがしばしば報道されるには、理由があるのだ。
引退した元大関が、暴力団の用心棒になっていて世間を賑わしたこともあった。
世間知らずの若者がこうした環境におかれれば、悪事に手を出す機会も生じるのは避けられないだろう。

それでは、そうしたシガラミを全て断ち切って、「清く正しく美しく」という相撲界にしたら、これはこれでツマラナイものになってしまう。「水清きに魚棲まず」である。
歌舞伎や浪曲、落語の世界に描かれる江戸時代の相撲取りの世界というのは、概していかがわしい世界だ。
ヤクザの世界と隣り合わせであり、八百長も美談として扱われる。
こうした伝統も含めて今の大相撲の伝統ができているとすれば、リスクを完全に失くすことは不可能ではなかろうか。

2009/02/01

「ガッツポーズ」なぜ大相撲だけダメなの?

Asashoryu私はかねがね、スポーツ選手のガッツポーズを不快に感じていた。勝者の向こうには必ず敗者が存在している。勝利に驕るだけでなく、敗者への思いやりも必要だと思うからだ。
だから大相撲初場所千秋楽(1月25日)で優勝を決めた朝青龍が土俵上でガッツポーズをした問題で、横審から苦言を呈され、武蔵川理事長から高砂親方を通じて注意があったのは当然だと思っている。朝青龍は一応反省の言葉を口にしたらしいが、本心から謝っているとは誰も信じないだろう。

ガッツポーズが品格を欠くということなら、別に大相撲だけに止まらないはずだ。
例えば柔道で、やはり勝者がガッツポーズをしているのを度々見ている。同じ伝統的競技なのに、柔道なら構わないのだろうか。
やってはいけないのであれば、どのスポーツでも同じではなかろうか。
今は日常的な光景になっている日本のプロ野球でも、かつてはガッツポーズをする選手は少なく、特にスター選手や一流選手はやらなかった。ホームランを打った選手は嬉しいだろうが、その反対側には打たれた投手がいる。三振を取れば、その裏に三振に倒れた打者がいるのだ。ガッツポーズは相手方への侮辱とも受け取られるから、相手の目の前ではやらなかった。
聞くところでは、米大リーグでは今でもガッツポーズは避けているようで、そうなると武士道精神うんぬんというわけでもなさそうだ。

競技中は、勝利の喜びは静かに抑えて表現したらどうだろうか。ゲーム終了後に、いくらでも爆発したら良い。
プロスポーツの場合は、ガッツポーズがショーアップや観客サービスという意味会いを持つというのも否定できないが、むしろアマチュアスポーツこそ原則禁止にしたらどうだろうか。
特に高校野球でのガッツポーズは、実に見苦しい。教育の一環として行う競技こそ、選手にマナーをしっかりと躾けることが肝要だろう。

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