【思い出の落語家12】古今亭志ん生の凄さ(1)
私が小学生のころ、兄に「志ん生の落語って、どうしてあんなに面白いの?」ときいたことがある。
落語フアンだった兄はこう答えた。
「そりゃあ志ん生がしゃべるからさ」。
志ん生の落語の魅力はこの一言に尽きるのだ。
数多の「五代目古今亭志ん生論」がある中で、この兄の一言がもっとも的確だと思っている。
八代目文楽や圓生なら、そのうち芸風が似た人が出てくるかも知れないが、志ん生はそういかない。オンリーワンの不世出の芸人だといえる。
かつてある雑誌が各界著名人に、無人島にもっていくレコード(今ならCD)を1枚選ぶというアンケートをとったことがあり、その中の一人が志ん生の「品川心中」と答えたのを記憶している。
私も落語家の中で誰を選ぶかと問われればやはり志ん生で、演目を一つといわれれば「品川心中」に落ち着く。
あらすじは、ざっとこうなる。
品川宿の白木屋の女郎お染は、若い頃は売れっ子で板頭(ナンバーワン)をはっていたが、歳と共に客が減っていき、今では紋日に必要な40両も工面できない有り様。
こうなればいっそ心中してしまえば面子が立つと、心中相手を物色し、白羽の矢が立てられたのは本屋の金蔵。金蔵はお染に心中をする約束をさせられる。
心中の決行日に、お染は金蔵を品川の桟橋に連れて行く。身投げをしようという。ぐずぐずしている金蔵をお染は突き落とし、自分も飛び込もうとした。その時店の者が駆けつけ、ヒイキの客が40両の金を用立てたと告げ、お染は身投げをやめて店に戻ってしまう。
裏切られたと知った金蔵はようやく海から上がり、親分のもとに行くが、そこでは博打の真っ最中。金蔵が戸を叩く音を役人の手入れと勘違いして、一同大騒ぎとなる。
後半は、金蔵が仲間の力を借りてお染をおどかすのだが、滅多に高座にかかることがなく、殆んど前半で切る。
志ん生以外の噺家が演じると、お染が心中を決意する場面、相手を金蔵に決める場面、金蔵が一緒に死ぬことを約束する場面、これらがどうしても説明的になってしまう。心中を決意するまでの心理状態などが描かれるのだ。
それはそうだろう。この部分に説得力がないと、この噺は成り立たないからだ。
それに対して志ん生の演出は、ここを実にあっさりと描く。お染が「それじゃ一緒に死んでおくれかい」というと、金蔵は「おおくれだとも」と応じ、簡単に心中の約束をしてしまう。あんまり深く考えない。シャレだよ、シャレ・・・程度の軽いノリで決めてしまうのだ。
志ん生が演じると、聞き手はこれで十分納得してしまう。
志ん生の「品川心中」をヒントにして、作家井上ひさしが小説「手鎖心中」を書いて直木賞をとったのは有名なエピソードだが、他の噺家ではこう行かなかったろう。
五代目古今亭志ん生は明治23年に生まれ、43年に入門している。
若い頃から「飲む打つ買う」の三道楽、長屋住まいの家庭は火の車。赤貧洗うがごとしの生活で、借金をこさえては夜逃げを繰り返す。
芸人としてはさっぱり鳴かず飛ばずで、芸名を17回も変える始末。
昭和10年代に入ってからようやく人気が出始め、本格的に売れ出したのは昭和22年に満州から帰国してからだ。
戦後の日本映画で、家族で落語を聞く場面があると、たいがいは志ん生の落語が使われていた。先代文楽がいわゆる落語通のご贔屓が多かったのに対し、志ん生は大衆的な人気を博していた。
経歴をみれば分かるように、志ん生の生き方そのものが落語の世界なのだ。そうした人生経験に裏打ちされているから、話に説得力が出てくる。
長屋住まいで貧乏暮らし、道楽は酒と博打と女郎買いというのが、落語の登場人物と相場が決まっているが、それはそっくり志ん生が辿ってきた道だ。
「あんな亭主とは別れちまいな」「だって寒いんだもん」という会話一つとっても、それは志ん生の人生そのものなのだ。
古今亭志ん生の凄さは、ここにある。
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