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2009/03/30

皇室の危機(3)「『皇位簒奪』の仕掛人」

本シリーズ1回目は「反皇太子キャンペーン」、2回目は「『秋篠宮を天皇に』大合唱」と続いてきましたが、それがなぜ「皇室の危機」に結びつくのかが今回のテーマです。
「簒奪」という言葉がありますが、これは皇位(王位)を奪うという意味です。他の国と同様、日本の歴史上でも皇位の簒奪をめぐる争いが数多く繰り広げられてきました。
その最も典型的な事例は「壬申の乱」です。
大化改新の中心人物であった天智天皇が亡くなったあと,天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子の大友皇子との間で皇位継承問題がおこります。両者の戦いは太子であった大友皇子が自害して果て、弟の大海人皇子の勝利に終わり、天武天皇として即位します。反乱軍側が皇位を簒奪したとあって、戦前は義務教育では教えないことにしていました。
これとは別に、周囲の取り巻きの思惑で、皇位の簒奪や継承問題が起きた例も過去にはあります。

それほど遠く遡らなくとも、昭和天皇の時代にも皇位をめぐる事件が起きています。
その一つは、1936年(昭和11年)に起きた通称「島津事件」と呼ばれるものです。
宮中の元女官長であった島津ハルが、神道系カルト教団の神政龍神会に入信しますが、やがて島津ハルは昭和天皇が早晩崩御するから、高松宮を擁立すべきと主張するようになります。
逮捕後の取調べの中で島津ハルは、「国体明徴維神の道を立つるには、高松宮殿下を擁立しなければなりませぬ。」と答えています。またカルトの祈祷師・角田つねも同様に「国体明徴は、現皇統には高松宮殿下を措いて他になし・・・」と、取調べで述べています。
もちろん戦前は、こうした事実は一切公表されていません。

この島津ハルというのは宮中の女官長という要職にあったばかりでなく、かつての薩摩藩国父・島津久光の孫であり、当時の香淳皇后とも親戚関係だったという大変な家柄だったわけですから、これは大事件でした。というより、政府にとっては難問でした。
結局この事件で、島津ハルらは精神異常者として不起訴となり、入院の措置がとられます。
当局としては何としても裁判を避けたかったんですね。
これとは別に神政龍神会の責任者は不敬罪で逮捕、起訴されます。
こうして島津事件は一件落着となります。

もう一つの事件はより深刻でした。
1936年(昭和11年)2月26日に日本中を震撼させた重大事件が起きます。陸軍兵士1400人が決起し、政府要人を殺害し、国会議事堂や総理官邸など政府の施設を占拠した軍事クーダター、二・二六事件です。
事件は、昭和天皇自らが指揮して、叛乱軍を鎮圧するという強い態度を示したため失敗に終わり、首謀者は処刑されます。
この事件を主導した将校たちが、昭和天皇に代わって皇弟・秩父宮を擁立する動きがあった、こうした噂が全国を駆け巡ったとされています。
事実ならそれこそ一大事だったわけで、根も葉もないウワサ話とされている反面、単なる風説とは片付けられない証言もあります。

事件当時、秩父宮は陸軍第八師団(青森)に属していましたが、事件のその日に列車で東京に向かいます。
これを聞いた皇国史観で知られる歴史家で、皇室にも影響力のあった平泉澄帝大教授が上野から列車に乗り込み、途中の水上駅で宮の列車に乗り換えます。
その時の模様を後年、
「車中拝謁の上、此際極めて大切なる事は、皇室の御意志の完全なる統一であって(中略)一乱鎮定までは、終始高松宮殿下と並んで、陛下の御左右に御立ちになり、最高の地位に於いて陛下を御補佐遊ばされますように御願申上げ・・・」
と書いています。

事件の5年前に、内大臣・牧野伸顕が元老・西園寺公望を訪れ、こんな話をしていました。
「秩父宮が汽車に乗って何処かに行かれる時に、その列車に陸軍の大佐が入って来て、殿下を担ぎたいということをじかに申上げたという事実がある。」
軍の一部に秩父宮を担ぎたいという気配があることは重臣の耳に届いていて、心を痛めていたようです。
火の無い所に煙は立たぬ、という所でしょうか。

二・二六事件後、西園寺公望が秘書の原田熊雄にこう語っていました。
「日本の歴史にも随分忌まわしい事実がある。例えば神武天皇の後を承けられた綏靖天皇は、実はその御兄君を殺されて、自分が帝位につかれた。(中略)まさか今日の皇族にそういう方々が、どうこうということは無論あろう筈がないが、しかしこういうことはよほど今日から注意しておかねばならん。」
「まさか陛下の御兄弟にかれこれいうことはあるまいけれども、しかし取巻きの如何によっては、日本の歴史にときどき繰り返されたように、弟が兄を殺して帝位につくというような場面が相当に数多く見えている。(中略)皇族の中に変な者に担がれて何をしでかすか判らないような分子が出てくる情勢にも、平素から相当に注意して見ていてもらわないと・・・」
こうした発言に、事件の影を見ることができます。

皇位をめぐる争いについて、前記の平泉澄は次のように憂慮していました。
「ただ一つ心配なのは、万々一皇族の間に御意見の不一致があれば、その間隙に乗じて魔手が謀略を逞しくするかも知れないという事であります。之を壬申の乱や保元の乱に見ても、或は南北両統の争に見ても、皇室が二つに割れる事が、最大至重の病根であります。」

3回にわたり「皇室の危機」と題して雑文を書いてきましたが、ここまで読んでもらえば私の言いたい事は理解して頂けたと思います。
「秋篠宮を天皇に」と主張し、「反皇太子キャンペーン」を展開している人々に対し、皇太子こそが正当な後継者だと主張する人も必ずいる筈です。
そうなると、お互いの正当性をぶつけ合うことになり、やがては双方のネガティブキャンペーンがエスカレートしていくでしょう。
例えていえば、今の麻生太郎首相と小沢一郎代表の争いみたいに。
そうなれば、やがて国民の皇室に対する信頼感や敬意が薄れてくるのは眼に見えています。

こうした主張を煽っている人は、ほぼ例外なく皇国史観の持ち主です。彼らは、皇位或はその継承者の地位を簒奪せよと、けしかけている事になります。
さて仕掛人はいったい誰で、果たして何を謀っているのでしょうか。

(終わり)

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コメント

皇族以外のものが天皇になることが皇位簒奪でしょう。道鏡のように。
継承争いだけでは簒奪とは言えない。
本来、末弟相続が日本民族の風習。
オオキミ一族以外の女系に皇位が移った時に皇位簒奪がおこるといえるでしょう。
「女系天皇」こそが「皇位簒奪者」なのです。そのため、藤原氏、足利氏、徳川氏は皇族を嫁に迎えても、子息を天皇、皇族になどできなかったのです。

皇位簒奪とは、本来皇位継承資格が無い者が天皇の地位(皇位)を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者がより高い者から皇位を奪取する事を指すようなので、本記事もその様な解釈で用語を使用しています。
末弟相続(末子相続の誤用?)が本来日本民族の風習とは初耳です。

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