【思い出の落語家14】九代目桂文治
よく名前を言う時に、「XXの〇〇」と呼ばれるのを「二つ名」というが、九代目桂文治はこの二つ名の多い芸人だった。
先ずは本名(高安留吉)から「留さん文治」、性格から「ケチの文治」、前名(翁家さん馬)から「さん馬の文治」。
まだ私が小学生のころの翁家さん馬時代に、頻繁に高座を観た。他の落語家と違って休演することがなく、とにかく良く寄席に出ていたことを記憶している。
下手だなあというのが当時の印象だが、母なぞはさん馬が出る度に「またさん馬だよ、イヤだねー。」と言って嫌っていた。だから文治を襲名した時も、「なんであんなのを文治にしたんだ。」と怒っていた。
いま録音をCDで聴いても、やっぱり下手だと思う。
ところが落語というのは不思議なもので、上手ければ良く下手ならダメというわけではない。上手いんだがなんだか面白くない、下手だけど愛嬌があるね、という類の噺家は今でも沢山いる。
そこがこの世界の難しいところだ。
文治は下手だが、高座に独特の魅力があった。
野崎の出囃子が鳴ると、直ぐに高座に現れる。長い顔に奥の方に丸い目が光っていて、アゴを引いて上目使いに客席を見る。
声は低い方だったが、時々素っ頓狂な高い声を出すのが特長だった。
映画が好きだったようで、しばしば映画の話題をマクラに使っていた。
古典落語のなかのクスグリでも「あんたエデンの東の方から来たんじゃないのかい」とか「それが人間の条件だ」とか、「岸田今日子って女優ね、まあすけべったらしい顔をしてね。ああいう映画、あたしゃ大好きなんだ」などなど。
「俺んとこへめり込んできやがって、小野田セメントみたいだ」なんていうのもあった。
飄々とした芸風で、人情噺やいわゆる大ネタには全く縁が無く、もっぱら軽い滑稽噺を得意としていた。
若いころ大阪で修行したことがあり、上方ネタの「不動坊」を東京に持ってきたのはたぶん文治ではなかろうか。
個人的にはこの人の「今戸焼」が好きで、このネタだけ今でも文治が一番だと思っている。サゲが変っていて、「渥美清」で落している。
ケチだったのは有名で、当時、都電の回数券を買って寄席を移動していたという。寄席を休まなかったのもケチのせいかも知れない。
そのケチを地でいったのが「片棒」、これもなかなか味があった。
名人上手とはほど遠かったが、愛嬌があって愛された落語だったと思う。
<記事の訂正>
ジャマさんという方から指摘があり、「上方ネタの『不動坊』を東京に持ってきたのはたぶん文治・・・」の部分を、
「『不動坊』を東京に持ってきたのは三代目の小さん」に訂正いたします。
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九代目文治という人は全く知りません。
十代目はもちろん知ってますが、この方も既に故人ですね。
それはともかく、文中に誤りがあります。
『不動坊』を東京に持ってきたのは、三代目の小さんです。
推測の形で書かれてはいますが、間違いなので指摘させてもらいます。
投稿: ジャマ | 2009/07/12 07:02
ジャマ様
ご指摘有難うございます。
それほど以前に東京に来ていたとは存じませんでした。
早速記事を訂正しました。
投稿: home-9(ほめく) | 2009/07/12 08:17