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2009/08/06

「死んだ女の子」

扉をたたくのはあたし あなたの胸に響くでしょう
小さな声が聞こえるでしょう
あたしの姿は見えないの

十年前の夏の朝 私は広島で死んだ
そのまま六つの女の子
いつまでたっても六つなの

あたしの髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの
あたしは冷たい灰になり
風で遠くへ飛び散った

あたしは何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの
紙切れのように燃えた子は
おいしいお菓子も食べられない

扉をたたくのはあたし みんなが笑って暮らせるよう
おいしいお菓子を食べられるよう
署名をどうぞして下さい

【詩】ナーズム・ヒクメット
【訳】飯塚広
*******************

この「死んだ女の子」という詩は、トルコの国民的詩人であるナーズム・ヒクメットの作品で、日本では作曲・木下航二の歌により広く愛唱された。
私はこの歌詞をソラで覚えているのだが、切なくて途中から涙で声がつまってしまい、なかなか最後まで歌いきることができないでいる。
「十年前の夏の朝・・・」とあるから、この詩はおそらく1955年に作られたと思われる。
日本から遥か離れたトルコの詩人が、広島の原爆投下に対する悲しみと怒りを詩に託してくれたことに、静かな感動をおぼえる。

1952年4月28日にサンフランシスコ条約が発効し日本が独立するまで、広島と長崎の惨禍は日本国民に知らされなかった。
人々が初めて被爆被害の実態を目の当たりにしたのは、写真誌「アサヒグラフ」1952年8月6日号に掲載された原爆写真集からだ。
私も当時その写真を見たのだが、数枚繰っただけで、後は正視ができなかった。

そして1954年3月1日、日本の漁船・第五福竜丸が、操業中に太平洋ビキニ環礁で行われた水爆実験に遭遇して被曝し、無線長だった久保山愛吉氏が死亡する。
これを機に「三度(みたび)原爆許すまじ」の声が沸き起こる。
1954年から全国で原水爆禁止署名運動が始まり、翌年までに最終的に32,590,907名の署名が集められた。日本国民のおよそ3人に1人が署名したことになる。
「死んだ女の子」の終りが「署名をどうぞして下さい」で結ばれているが、これはこの時の原水爆禁止署名を指している。

あれからさらに半世紀以上が経ち、米国オバマ大統領の提唱で、ようやく世界は非核化の方向に足を踏み出そうとしている。
それなのに我が国では、核兵器を保有すべきだと主張する勢力が現れてきた。
人間というのは、どこまで愚かなんだろう。

今日8月6日は広島原爆忌。

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コメント

突然のコメントお許し下さい。
この歌の事がずっと忘れられずに40年近くの時が流れました。でも歌詞は殆ど覚えてなくて。
幼い頃 2つ上の姉が唄ってくれました。はっきり覚えているのは『扉を叩くのは私 私は6つの女の子』この部分だけ。
女の子の髪が燃えている情景が頭を離れないのです。
このブログで外国の方の詩と知りました。人の命、人の死に対して思う気持ちに国境はないのです。
天変地異、悲惨な事件が頻繁に発生する昨今だからこそ この歌が世界中の人々の耳に届きますようにと願ってやみません。

キャンディ様
コメント有難うございます。
この歌詞に歌われている光景は、いま毎日のようにイラクで、アフガンで繰り広げられています。
沢山の子供たちが殺され傷つけられいる状況を、私たちはどうすることも出来ないという現実があります。
その一方、核兵器が実際の戦闘に使用されたのは、長崎が最後です。
被爆の悲惨な状況を全世界に訴えてきた日本の原水爆禁止運動が、大きく影響したものと考えます。
そういう意味でこの「死んだ女の子」の歌は、歴史に残ると思います。

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