働き者だった大正時代の小学生
東京・大田区内のある小学校の、開校135周年記念誌を読む機会があって、そこに大正時代の子どもたちの生活が書かれていたので紹介したい。
明治8年に開校したこの学校だが、大正7年から「朝学」が始まったとある。
「朝学」というのは早朝から授業をおこなうことだが、その理由というのは。この地域ではこの頃から海苔獲りが盛んになり、子どもたちがその手伝いに追われて欠席するケースが増えたためとある。
その時代のこの地域の子どもたちの一日の生活スケジュールは、ざっとこんな具合だったそうだ。
午前1時 起床
登校までは家業の手伝い
午前5時~7時30分 授業
この間に家に帰り朝食と、海苔干しの手伝い
午前9時~9時40分 授業
そして帰宅後は、
海苔の干し返し
海苔の穫り入れ
を午後3時まで手伝い。
夕食後は午後5時頃には就寝。
深夜1時には起きて、学校での授業が行われる3時間10分以外はずーっと家業の手伝いをして、夕方には眠りにつく生活をしていたわけだ。
今の子どもたちには想像もつかないだろう。
農村や漁村に住んでいた子どもたちも、ほぼ似たような生活だったに違いない。
東京の多摩地区でも昭和30年ごろまでは、子どもたちは学校から帰ると農作業を手伝っていたし、農繁期には学校も休みだった。
子どもは立派な労働力だった時代だ。
貧困で学校に行けない子どももいただろうが、今でいう「不登校」や「引きこもり」は起き得なかった時代でもある。
「自分さがし」をしている暇など無い。
引きこもろうにも、家に居場所などなかった。
その後のこの小学校の歴史は、昭和7年には夜学(小学校で!)が始まり、やがて太平洋戦争が激化してくると児童は熱海と三島に疎開。
さらに東京大空襲が始まるころには、岩手県の小沢へ再疎開になる。
昭和20年には空襲で校舎が全焼し、終戦直後は近所の神社の境内で青空教室を開いていたとある。
校舎が建てられたのは昭和22年になってからだ。
海外の開発途上国に行くと、沢山の子どもたちが農作業や商売の手伝いをしている姿に出会う。
大変だろうなと思いつつ、そこに数十年前の私たちの姿を見い出すことができる。
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