「篠山紀信の略式起訴」はやはり疑問だ
6月20日東京区検は墓地で公然とヌード写真を撮影したとして、写真家の篠山紀信氏を礼拝所不敬と公然わいせつ罪で略式起訴した。
起訴状によると、篠山氏は2008年10月15日夜、東京都港区の都立青山霊園内などで、女優を全裸で写真撮影したとされる。女優は指示に従っていたとして不起訴(起訴猶予)となった。
3日前に、当ブログに掲載していた『「篠山紀信」屋外ヌード撮影で送検は疑問だ』の記事を削除していて、たまたま今回の検察の処分と時期が重なってしまった。記事の削除は突然アクセスが異常に増えたので、リンクをたどると、大半が不適切なアクセスであることが判明したための処置だった。
撮影の際にモデルを墓石に立たせたことが大きく採りあがられているようだが、問題は公然わいせつ罪と表現の自由との関係だ。
結論からいうと、今回の検察の略式起訴という処分には、やはり大きな疑問を抱かざるを得ない。
今回の件で篠山紀信氏はメッセージを出しているが、この中でこう述べている。
「40年間ずっとこの手法で撮影を続けてなんのお咎めもなかった」
「だが警察の見解は『100%見られないように出来ない裸はこの罪(註:公然わいせつ罪)にあたる』の一点張りだった」
「これ以後、戸外のヌード撮影は一切出来ないのだろうか。・・・野外に完全密室などありえない。」
そして、こう危惧している。
「そして、この事件がきっかけになって、創造のエネルギーが抑止され、表現することが窮屈になってしまわないだろうか。」
「一連の捜査報道は、表現の萎縮効果を生みかねない。一度壊されてしまうとこの自由は、修復にとてつもない時間とエネルギーを要する。」
私もこれらの主張に賛成だし、その通りだと思う。
この世の中で最も美しいもの、それは人間の身体ではあるまいか。
だからこそ古今東西、絵画や彫刻、写真芸術などでヌードが主要なテーマとしてとりあげられてきたのだろう。
私見だが、ヌードはとりわけ自然の中でその美しさ、魅力が際立つ。
しかし屋外で撮影する以上、外部から100%遮ることなど不可能だ。
そうなると、例えば下のような写真は、これから日本では撮影出来ないということになる。
公然わいせつ罪というのは、本来は公衆の面前で性器や性行為を見せることを取り締まる法律だったはずだ。
それを人気のない深夜に、目隠しや見張り役をおいた上で、モデルが長くて1-2分ガウンを脱いで撮影していたことを罪に問うのは、あまりに拡大解釈し過ぎだ。
それより警察も検察ももっと凶悪事件の解決に力を注ぐとか、小沢一郎のような巨悪に対して厳しく捜査するとか、他にやるべきことがあろう。
限られたマンパワーをもっと有効に使ってほしい。
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