【思い出の落語家17】十代目金原亭馬生
枕元にCDラジカセを置き、落語を聴きながら寝るのを習慣にしているが、ここ2ヶ月ばかりは毎夜のように十代目金原亭馬生の録音を聴いている。
聴けば聴くほど味わいが分かるというのが、十代目馬生の落語だ。
先代の馬生については書籍も出版されているし、多くの人たちが「馬生論」を書いているので、個人的な思い出を中心に話を進めることにする。
就職し、その後所帯を持った時期の前後、およそ10年ほど寄席から遠ざかっていた。
結婚して2年目に子どもが授かり、9ヶ月のとき急に胎教を思い立った。
何をしようかと考えた末、胎教には落語が一番だと思い立ち、身重の妻を伴って人形町末広に行った。
女房は、寄席はもちろん落語を聴くのも初めてだったが終始楽しそうで、たまたま出演していた柳家三亀松の色気に圧倒されて身体がブルブルッと震えたというエピソードは前に紹介した。
三亀松のフェロモンは、それほど凄かったのだろう。
その日のトリが十代目馬生だった。馬生41歳のときだ。
出囃子の「鞍馬」がなって馬生が高座に出てくると、客席からは軽い「え~」という反応が返っていた。
私も久々に見た馬生のあまりの変わりように驚いた。
白髪で背中が少し丸くなっていて、パッと見は老人のようなのだ。
話し出すとあの艶やかな声が響いて、ああヤッパリ馬生だなと思った。
先代馬生が40代で今からは信じられないほど老けていたことは、先日の落語会でも弟子たちが証言していた。
若い頃から楽屋では「ご隠居」という仇名がついていたそうだ。
これには分けがある。
先代馬生は生活のために画家になる夢をあきらめ落語家になった人だ。
父・志ん生が満州に渡っていた戦中から戦後、馬生が一家を支えていた。
昭和22年に19歳で真打になるが、親の七光りだと陰口をたたかれ、仲間内からはイジメにあう。
家庭内ではどうだったのかというと、これは又聞きなので真偽のほどは不明だが、長男ということで志ん生からは随分と厳しく当たられてようだ。
その一方、志ん生は弟の志ん朝を可愛がり、行く行くは志ん朝に志ん生を継がせることを早くから公言する。
芸の上では後輩の志ん朝だが、TVのバラエティーではレギュラー番組を持ち、ドラマや芝居に出演するなど一時期はマスコミの寵児になる。
名人の父親と人気と実力を兼ね備えた弟に挟まれ、ひたすら耐える人生だったのだろう。
おのれを殺して、黙々と芸を磨く日々だったに違いない。
そういう姿をとらえて、仲間内は「ご隠居」と揶揄していたのだろうと想像する。
馬生の落語を聴いていると、非常に緻密な演出の中に、時に志ん生ゆずりの天衣無縫な部分が顔をのぞかせる。画に例えれば、墨絵の中にチョコッと色が混じっているような。
そのバランスが絶妙で、父親や弟にない独特の芸風をこさえている。
絶品の「笠碁」はもちろん、「明烏」「船徳」「妾馬(八五郎出世)」「芝浜」などの大ネタでは、志ん朝より上ではないかと思う。
反面、バランスが崩れたときは目も当てられない不出来となるが、それもまた先代馬生の魅力でもある。
十代目金原亭馬生の晩年は、楽屋で酒を飲んでから高座に上がることが多く、録音でも呂律の怪しい口演が残されている。
これも、癌の末期で食べ物がほとんど喉を通らなかったため、酒を流動食代りに摂っていたという証言がある。
だとしたら、芸人として最期まで壮烈な人生だったわけだ。
54才の死はあまりに早過ぎた。
もうあと10年生きていれば、立派に名人として名を残していただろう。
死後に評価が高まっているのは、当然である。
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