【寄席な人々】今の落語界は層が薄いって?
“落語CDムック 立川談志3(竹書房)”に川戸貞吉という人がこう書いている。
「我々が育った戦後の落語界に比べると、随分層も薄くなっています。それから立川流、圓楽党が、一緒に協会の人たちと寄席に出なくなる。(中略)まあ一つの落語の危機が、密かに続いていると考えても良いかもしれません。」
このシリーズでは毎号、家元・談志と川戸貞吉との対談が掲載されているのだが、どうも旦那とタイコモチとの会話を連想してしまうのは、私だけだろうか。
それはともかく、川戸貞吉といえば、「貞やんを(落語界で)知らぬ者はいない。知らない奴は馬鹿かモグリだ」と談志から評される業界名物人間だそうだ。
そんなエライ人が、昔に比べると今の落語界は層が薄いなどというと、そのまま信じてしまう人がいるかも知れないので、ここで一言反論を。
先ず寄席の数だが、昭和23年の記録によれば都内に9軒で、全て落語の定席だった由。
それに対して落語家が何人いたのかは分からないが、桂小金治が戦後に入門した時の落語家の数を200名と言っている。
その場合は寄席1軒あたりの落語家の数は22名となる。
現在の寄席の数は4軒、それに対する落語家の数は両協会(立川流、圓楽一門を除く)で約420名。
寄席1軒あたりの落語家の数は105名、戦後のおよそ5倍である。
寄席に出演できる芸人の数は限りがあるので、落語家の人数からいえば現在の方が遥かに層が厚い。
そう言うと、いや昔は人数こそ少なかったが、名人上手が綺羅星のごとくいたという異論があるかも知れない。
ところがドッコイ、何せ一方に戦争が終わって娯楽に飢えていた国民がいて、片方でラジオの民放局が次々と開局する。
いきおいコンテンツは手っ取り早く落語を中心とした芸能番組になる。
戦後の第一次寄席ブームの到来である。
各ラジオ局は人気落語家たちを自局につなぎとどめておくために、こぞって専属契約を結んでいた。
因みに昭和27年当時、専属契約していた顔ぶれはというと。
NHK:柳橋、三木助
ラジオ東京:文楽、圓生、正蔵、小勝、小さん、円遊、小柳枝、桃太郎
文化放送:可楽、今輔、痴楽、さん馬(文治)、百生
ニッポン放送:志ん生、柳枝
その他フリー:小文治、金馬、円歌、圓馬、助六、馬生、圓右、米丸など
こうした噺家はラジオの出演で忙しくなり、寄席への休演や代演が頻繁に起きていた。
特に名人クラスになると、普段の寄席に出る機会が少なくなっていた。
今でこそ、休演や代演が事前に公表されたり、寄席の前にはり出されたりするようになったが、当時は開演になってみないと分からない。
それも落語の代演に色物の芸人が出てきたり、ひどい時は芸人の頭数そのものが足りなくて、さっき出ていた色物芸人がまた出てきて同じ芸を演るなどという、今では考えられないこともあった。
新宿の末広亭で2代目三遊亭円歌がトリだというので楽しみにでかけたが、最後まで現れず。
「円歌、来なかったね。」
「雨だからじゃない。」
なんて客同士が話していたのを憶えている。
そんな風だったから、戦後の寄席ブームが急速に萎んでいったのにも理由があったのだ。
唯一昔の方が優れていたと思われるのが、講談だ。
当時は貞山、貞丈、馬琴、松鯉といった名人級の講釈師がズラリと顔を揃えていて、トリが講談というのも珍しくなかった。
あとは音曲の芸人、これは時代が違うのだから致し方あるまい。
落語家については、今の方が明らかに水準は高いと思う。
寄席に行っても昔と違って、ガッカリするようなことは少なくなった。
現在の落語ブーム・寄席ブームはおよそ10年になり、定着した感がある。
お客は正直であり、面白いから足を運んでくる。
川戸貞吉が危惧だか期待だかしているような「落語の危機」は、私は感じていない。
川戸は談志との対談の中で、寄席の存在意義そのものにも疑問を呈しているようだが、それはまた別の機会に。
(敬称略)
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投稿: | 2014/05/24 20:06