【思い出の落語家18】古今亭志ん朝(1)
明日10月1日は古今亭志ん朝(近ごろ三代目という表記もあるが、この人の場合は不要だろう)の命日だ。亡くなって既に10年が過ぎた。
10年前の2001年10月1日のあの日、あまりのショックに呆然となり、全身から力が抜けるような思いがした。
サラリーマンの現役当時、休日になると志ん朝の出る寄席や、都内と近県で行われている独演会を探しては出かけるのを楽しみにしていた。
好きな噺家はいたが、ファンと呼べるのは志ん朝だけだった。
あの日、まるで肉親を失ったような悲しみに打ちひしがれた。
本人の体調の変化は、家族やお弟子さんのように毎日接している人たちより、たまにしか会わない私たちの方が先に気付くことがある。
志ん朝の場合も、亡くなる2,3年前前からオヤッと思うことがあった。顔色が少しどす黒くなり、痩せていくのが気になっていた。
はっきり異変に気が付いたのは、亡くなる2年前の当代馬生の襲名披露の時だった。
私は鈴本演芸場の最前列にいたのだが、口上の席に着いていた目の前の志ん朝の、特に顔が痩せてしまっていて、身体も一回り小さく見えた。
その時、もしかして癌ではないかという疑いを抱いた。
この時の鈴本の高座では、志ん朝はトリの当代馬生の前に上がり、「三方一両損」をかけた。
マクラなしでネタに入りオチまで。ただ全体に抑え気味の高座で、客席も大きく沸くとというより静かに耳を傾ける、そんな光景だった。
その約2か月くらい後の独演会で、志ん朝は同じ演目をかけた。
マクラこそ振ったが、後は鈴本と全く同じ内容の口演だった。しかしこちらの方は大受けで、客席は笑いに包まれた。
同じネタを同じように演じながら、全く違う高座にしてしまう。
改めて志ん朝という人の芸の深さに感嘆した憶えがある。
お盆恒例の、浅草演芸ホールでの「住吉踊り」は前年の2000年まで観に行っていた。
高座を観る限りでは相変わらず華やかで、病の兆候は全く感じさせなかった。
だが2001年8月の「住吉踊り」を観た実姉・美濃部美津子は志ん朝の声がおかしいのに気づき、本人に電話する。初めて、既に病院から寄席に通っていた事を知らされる。
夫人から「実はもうダメなんですよ」と聞かされるのは、このあと直ぐだ。
志ん朝の臨終の様子は、姉・美津子の「三人噺 志ん生・馬生・志ん朝」に書かれているが、志ん朝ファンにとっては涙無しでは読めないだろう。
以下に、その一部を引用する。
【引用開始】
弟子たちが、「師匠、お姉さんが来ましたよ。しっかりしてください!」って、大きな声で呼んだのよ。眠らせちゃうと、そのまんま逝っちゃうから、あたしが着くまで皆して声をかけ続けてくれたんですね。
枕元に駆け寄ったら、もう目がこんなに大きく開いちゃってるの。あたしも必死で叫びました。
「強次っ! 強次っ! 姉ちゃんだよ、姉ちゃんだよっ」
そんとき、何かかすかに目の玉が動いたような気がすんですよ。でも、身体はもう動かなくなっちゃってる。ああ、もうこれは無理だなって思ってね。
「真っ直ぐ父ちゃんと母ちゃんのとこへ行くんだよっ。いいね。真っ直ぐ父ちゃんと母ちゃんのとこへ行くんだよっ!」
うーんって、わかったーって顔したように、あたしには見えました。
【引用終り】
志ん朝の芸は、高座は、これから幾世代にもわたって語り継がれていくことだろう。
ほぼ同時代をすごしてきた者として、そのことを誇りに思う。
志ん朝は私にとってあまりに記憶に生々しく、今まで書くのを避けてきた。
志ん朝を知らない若い落語ファンも増えてきたいま、これから少しづつ思い出を書いて行こうと思う。
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