「忠臣蔵」は「吉良の御難」
今日12月14日は、いわゆる赤穂浪士の討ち入りの日として知られている。
正確にいえば、「元禄15年(1702年)12月14日、元家老職にあった大石内蔵助以下赤穂浪人46名が江戸本所の吉良邸に討ち入り、上野介とその家臣多数を殺害、負傷させた日」ということになる。
討ち入りの原因となった「松の廊下の刃傷事件」はどうかといえば、「元禄14年(1701年)江戸城松の廊下において、赤穂藩主浅野内匠頭が高家肝煎吉良上野介に切りかかり負傷させた。」という事件だ。
ではなぜ浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだのかというと、その理由は今もって分からない。事件後の幕府の取調べで、浅野内匠頭は犯行の動機を説明していないからだ。
釈明したくなかったのか、それとも後から冷静になって考え直すとそれほど明確な理由が思いつかなかったのか。
それ以前に、内匠頭に殺意があったのかどうかも判然としない。なぜなら旗本の梶川与惣兵衛と立ち話していた上野介の背中を小刀で切りつけ、振り向いたところを額に切りつけているのだが、小刀で切っても人は殺せない。小刀は刺すものだ。
吉良のダメージは額を6針、背中は3針縫って治療は終わり、そのあと湯漬けご飯を2杯食べて元気を取り戻したと、治療にあたった医師が記録している。
何ともはや中途半端な傷害事件なのだ。
しかし殿中での刃傷はご法度、幕府は浅野内匠頭に対し切腹・御家断絶、吉良上野介に対しては「お構いなし」との裁定を行った。無抵抗の吉良を浅野が一方的に切りつけたものであり、公正な裁定であったといえる。
処が後の討ち入り事件に対する幕府の裁定では、討ち入りに参加した赤穂浪人全員を切腹させ、遺児に遠島を命じた。
一方上野介の養子吉良左兵衛は知行地を召し上げられ、他家へお預けとなった。事実上の御家お取りつぶしである。
吉良家にとっては何とも気の毒な裁定というより他はない。
「忠臣蔵」は加害者側から事件を描いたものであり、被害者側から描けば全く違った見方になる。タイトルも「吉良の御難」とでもなろうか。
歴史は浅野を勝者とした。
そして歴史は常に勝者の側から描かれる。
「忠臣蔵」はその好例といえよう。
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