【思い出の落語家20】古今亭志ん朝(3)
前回は1997-98年頃に三郷市文化会館で行われた「古今亭志ん朝独演会」での1席目「寝床」について記した。
仲入り後の2席目、固唾をのんで待っているとこれが「富久」だった。
「富久」といえば文楽と相場が決まっているが、志ん生も高座にかけている。いかにも志ん生らしいギャグ満載の飄々とした味わいのあるもので、志ん朝の「富久」は父・志ん生の型を受け継いでいる。
文楽とはどこが違うのかというと、久蔵の住まいや旦那の家の住所といった形式的なことだけではなく、富くじを勧められて買う文楽型に対して、志ん朝はこれに運勢を賭けるのだと自分からすすんで買う。
旦那の家に居候した久蔵だが気持ちが落ち着かず、早く幇間の仕事に復帰したいと願うという設定も文楽とは異なる。
杉の森神社での富突きのシーンでは、富を買った客たちがもし千両当ったら池に酒を入れて泳ぐだとか、質屋が遠くて不便だから自分で質屋をやるとか妄想する場面も文楽とは違うところだ。
反面、久蔵が旦那の家に駆けつける際の緊迫した姿や、火事見舞いに訪れた客への応接にあたる久蔵の愛想のふりまき具合などは、文楽スタイルを採っている。
「富久」の勘所は、幇間である久蔵の人物像にかかっている。
噺に出て来る大神宮様というのは伊勢神宮のことで、特に芸人たちの信仰が厚く、昔は自宅に分不相応な神棚を祀っていたようだ。年末になると伊勢の神官がお札を取り換えにくる、これがお祓い。
この噺に出て来るタイコモチは珍しく宴席で客にヨイショする場面がない。つまりラシサが出しにくいネタだ。そこを最初から最後までタイコモチに見せなくてはならない、これが難しい。下手な人が演ると職人や商人にしか見えなくなる。
そこいくと志ん朝の描く久蔵はどこからどう見ても幇間である。何より愛嬌と色気があるのだ。ここが並みの噺家とはまるで違う。
ストーリーは希望と絶望が交互に訪れる、正に「禍福は糾える縄の如し」の筋立てだ。起伏に富み緊迫感あふれる物語を最後の大団円までグイグイと観客を惹きつける、その話芸の力は並大抵のことではない。
全体の仕上がりは、文楽と志ん生を越えるような素晴らしい出来だった。
そしてこの日の「寝床」「富久」は尊敬する亡き父・志ん生に捧げる高座でもあったような気がする。
旨い料理を食すると人間は幸せな気分になる。
それと同様に、素晴らしい高座に出会うとやはり幸せな気分になることを、この時の志ん朝独演会で味わった。
私だけではない。会場から駅まで数分かかるのだが、帰路につく誰もが幸せそうな顔に見えた。
この日の志ん朝の高座は、生涯の宝だと思っている。
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