「3・11」と「3・10」
東日本大震災から1年経ち、ようやく当時の政府首脳や官邸の動きが徐々に伝えられるようになった。際立つのは東電福島原発事故における情報の隠ぺいだ。
なぜあそこまで情報を隠そうとしたのか、その理由は明らかでないが、私見では住民の被害より「国家の治安」を優先させた結果ではないかと推測している。
大震災に引き続く原発の炉心溶融(メルトダウン)という現実が突き付けられたとき、もしこの情報をそのまま国民に流せば国内が混乱すると考えたのではなかろうか。現に当時の菅首相の「このままでは外国勢力による侵略ウンヌン」という発言が記録されている。だから大震災の衝撃がいったん収まってから事実を公表する、そうすれば混乱は最小限に食い止められる、そう判断したものと思われる。
話は変わるが、昨日3月10日は東京大空襲の日で、記念行事や慰霊祭が行われた。1945年の終戦の年はこの東京を皮切りに全国の都市で米軍による空爆が行われ、多数の非戦闘員(一般国民)が犠牲となった。
敗色が濃厚となっていた政府は一方で第三国を通じての終戦和平交渉を進めながら、その一方で国民に対してはそうした事実を隠ぺいし「本土決戦」を標榜していた。
前年の1944年から在京の小学生たちはいわゆる学童疎開で地方に移っていた。私の兄も福島県の勿来に疎開していた。処が1945年の初めになって6年生だけは東京に戻された。その理由としては「本土決戦の時はお前たちも戦うのだ」と説明を受けていたそうだ。
政府は12歳の少年らも戦闘要員として勘定していたことになる。
兄の場合は母親と共に母の実家に疎開したので東京大空襲にあわなくて済んだが、そのまま東京にいた子供たちの中には大空襲で犠牲になった人もいた。
当時の政府は、空襲が激化してからわざわざ学童を東京に戻すような冷酷なことを平気でしていたわけだ。
全ては「国体護持」のためだった。この四文字の前には国民の生命などどうでも良かった。これは広島・長崎の原爆投下まで続くことになる。
国家は国家自身を守るが、そのためには国民を犠牲にすることは厭わない。
1945年の3月10日と2011年3月11日、その本質はあまり変わらないように見える。
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沖縄では小さな子供も戦わされたのですね。
3.11では国家より己が身、保身が優先したのではないでしょうか。
政治家もしかりですが、とくに官僚や学者どもがまったく機能しなかったのは許せないです。
投稿: 佐平次 | 2012/03/11 11:55
佐平次様
日本の支配層というのは有力政治家、高級官僚、財界幹部(戦前はこれに加えて軍部)らによって構成されており、彼らの利益を守ることが国の優先課題=国家の利益とされています。
そういう意味では今回の大震災と原発事故の処理にあたっても、住民の生命や安全は二の次、「国益」最優先で行われたと考えるべきでしょう。
彼らからすれば情報の隠ぺいは確信的な選択だったと思われます。
投稿: HOME-9(ほめ・く) | 2012/03/11 18:43