江戸時代の「茶屋遊び」
石川県金沢市に「ひがし茶屋街」の名称で知られる地区がある。
浅野川の東岸に位置し、文政3年(1820)に当時の加賀藩により公許された茶屋町だ。街路に面して一階に出格子を構え、二階の建ちを高くして座敷を設ける「茶屋建築」が連なっている。
なかでも「志摩」は創建当時の姿をそのまま残していて重要文化財に指定されている。「お茶屋」の重文は全国でもここだけではないだろうか。
8月19日に訪れる機会があったので、建物と共に当時の「茶屋遊び」がどのようなものだったかを紹介したい。
「茶屋」「お茶屋」というのは「客に遊興・飲食をさせる店」の総称で、それこそピンからキリまであるが、ここはかなり格式の高いお茶屋だったようだ。
一階はスタッフルームなので天井高は低く、二階はゲストルームなので高くこしらえている。
二階の客間だが、押し入れや間仕切りなど一切ない開放的な造りになっているのは、遊芸を主体とした建物だということを示している。
客筋は上流町人や文人たちで、封建時代のもと、わずかに許された町方の娯楽と社交の場であった。
客は床の間を背にして座り、遊芸を楽しむ。
こちらが舞台となり、様々な芸が披露される。三味線や太鼓、琴、笛に舞、謡曲と披露される芸は実に多彩であったようだ。
茶室もあってここでは茶の湯、俳諧などが行われていた。
従ってこうしたお茶屋にあがる客も芸妓も、そうした幅広い教養を身に着けていることが求められた。
もちろん一見さんお断りだが、それも理由がある。
こういう店ではその場で客に金を払わせるなどという野暮なことはしなかった。勘定は全て後日取りに行っていたので、店と客との信頼関係がなければ成り立たぬ。だから常連客に限っていた。
また店側からすれば客によって持て成し方を変えるので、馴染みの客でないと困るという事情もあったようだ。
お茶屋の中庭だが、小ぶりながら粋だ。
台所だがいわゆる調理場はない。料理は全て仕出しで、店では酒や湯茶だけを供した。
芸妓たちの化粧室。ここで支度をしていた彼女たちの姿が浮かんできそうだ。
こうして培われたお茶屋の文化は、後の芝居や音楽、美術工芸にいたる日本文化に多大な影響を与えたというのも納得できる。
因みに落語に出てくる「茶屋」は、掛け茶屋・引き手茶屋・出会い茶屋・芝居茶屋・相撲茶屋などで、
今回のお茶屋とはだいぶ趣が異なる。
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