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2013/10/30

#3弾ける二人「喜多八・一之輔」(2013/10/28)

10月28日、牛込箪笥区民ホールで行われた”弾ける二人PART3「喜多八・一之輔」”へ。
近ごろ落語会にやたらサブタイトルを付けたがるクセがあり、なかには首を傾げるものも多いが、この会の「弾ける二人」というのはマトモな方だ。確かにこの二人は弾けている。
子どもの頃に「火事はどこだよ牛込だ、牛の金玉丸焼けだ」なんていう囃し言葉があった。今どきは言いませんか? きっとこの辺りかつては牛飼いが多かったんだろう。
9代目文治のギャグで「うちのカカアがウインクしてご覧よ、目が後にいっちゃうよ。後ろ目の神楽坂ってぇのはこっから始まった」、その牛込神楽坂が最寄り駅だ。
周辺は出版社が多い地域として知られているが、志ん朝が住んでいた矢来町にもほど近い。高座に上がると「矢来町!」なんて声が掛かっていたっけ。
二人とも女性に人気が高いんだろう。周りは女性客ばかりだった。
少しコッチにも回せ!(できれば50歳まで)

<  番組  >
前座・春風亭一力「平林」
春風亭一之輔「普段の袴」
柳家喜多八「二番煎じ」
~仲入り~
柳家喜多八「短命」
春風亭一之輔「子は鎹(子別れ・下)」

二人会といっても落語会の場合は平等ではない。どちらかがメインで、どちらかがサブだ。
香盤や年齢ではなくトリを取る側がメインになる。メインは目一杯演じるが、もう片方はやや抑え気味の高座になることが多い。
出番はメイン1席目-サブ1席目(仲入り)サブ2席目-メイン2席目(トリ)というのが一般的だ。ネタの選定でいうとこの順序は、やや軽め-やや重め-軽め-重め、となる。
(いま思い出したが、一人1席ずつという二人会もあったっけ。あれは酷かった。)
もっともトリが不出来だと結果としてメインが食われてしまうこともあるが、それはサブの責任ではない。
若手がメインになった場合やりにくい事もあるだろうが、一之輔に限っては心配無用。彼の辞書にはプレッシャーという文字はない。

一之輔の1席目「普段の袴」
マクラは先日聴いたばかりの欧州公演のこと。内容は少しづつ違っていたが当たり前で、落語家の話は全て脚色されている。ドキュメンタリーではなく実話に基づくフィクションだと思えば良い。
今回は「平林」の件が面白かった。外国人からの質問で「ヒラバヤシが覚えられない小僧さんが、どうしてヒトツトヤッツデトッキッキを覚えられたんでしょうか?」、うん、その通りだ。
でもね、人間の知能というのは複雑なんだ。ある事には全くダメでも、別の事になると人が変ったように頭が働く事があるんだ。落語というのはそういう深い世界を扱っているんだ。と、アタシなら説明するけど。
このネタは彦六の正蔵の十八番(おはこ)、教養ある武士がゆったりとした姿で煙草を吸いながら、掛け塾の絵について骨董屋の主人と語り合う姿と、後半の愚かしい町人の姿を対比させる所が見せ場。
今の一之輔では武士の気品を出すのは難しい。そこで前半を抑え気味にして、町人の付け焼刃のドタバタぶりを戯画化させ爆笑モノに仕立てた。大家の袴を借りる際に理由を訊かれて、祝儀と不祝儀が広小路でぶつかり喧嘩になったので仲裁に入ったと説明する場面や、鶴の絵を主が文晁の作だというと、これが文鳥のわけがないと答える町人に傍にいた小僧が大笑いする場面、貰った煙草を旨そうに吸って思わず叩き落としてしまう場面などに独自の演出を加えた。
オリジナルのストーリは活かしながら、別の風味に仕立ててしまう一之輔らしい高座だった。

喜多八の1席目「二番煎じ」
このネタは8代目可楽の十八番。陽気な酔っ払いは柳好(3代目)、陰気な酔っ払いは可楽と並び称されたように、可楽はこのネタや「らくだ」「味噌蔵」を得意としていた。
季節は寒風吹きすさぶ真冬で、寒さに震えながら夜回りだ。喋るったんて大きな口は開けられない。可楽のようにボソボソ話す方が感じが出る。番小屋に戻ってからの飲食も周囲に気付かれぬよう密かなものだった筈だ。近ごろはまるで宴会のように陽気に騒ぐ演出が多いが、アタシの好みじゃない。
喜多八の演出は手と鼻をこすり、ブツブツ言いながら夜回りする場面に厳しい寒さが表現されていた。
番小屋に戻ってからも火にあたりながら密かに酒を呑み合い、猪鍋をつつきあうという抑えた演出にリアリティがある。
初めは遠慮がちに、酔うほどに少しづつ大胆になる過程も丁寧に描いている。
アツアツの肉を喰う時の仕種や、役任に見つからぬよう猪鍋を股の下に入れる場面に喜多八らしさが出ていた。
夜回りする人たち一人一人の演じ分けも、タダ酒を呑む小役人の嫌らしさも巧みに表現されていた。
やや季節的には早かったが、結構な一席だった。

喜多八の2席目「短命」
もはやこのネタに関しては、喜多八の「短命」と言っても良いほど独自の演出だ。
美人、それも震い付きたくなる程のいい女(って、逢ってみたいね)を女房に持つと亭主は短命になるというのを説明する山場を、喜多八はほとんどパントマイムで演じる。誰もが考え付かなかった手法だ。
殿下はその高貴な生れのため、生々しい表現を避けたいのかも知れない。

一之輔の2席目「子は鎹」
これも何回目だろうか、一之輔は頻繁に高座にかけている。
熊さんが酒のため女房子と離別し新しい女を引き入れるがこれがとんだ失敗、そこで初めて目が覚めきっぱりと酒を断ち仕事に精を出すまでを手際良く説明。
熊がお店の番頭と連れだって木場に向かう途中、番頭からその事を衝かれ、後悔の表情を浮かべる場面は良かった。
熊が倅と再会して近況を語り合う場面では、同じセリフの繰り返しや話が前後する所も見られたが、こういう時も巧みに切り抜けていたのは、さすが。
熊と別れた女房との馴れ初めを亀が喋るシーンでは、傍で八百屋が聴き耳を立てるという設定にしている、場面に出て来ない脇役を使って場面を盛り上げるというのが、この人の上手いところだ。
亀が近所の坊ちゃんに額に傷付けられたのを語るシーンでは、亀は淡々と語るのだが熊は涙がとまらなくなる。別れた母子の生活の悲哀を、こうした演出で際立たせる。出来れば因りを戻したいと、恐らく熊はここで思い立ったのだと思う。オッカアには内緒でと亀に小遣いを渡し、明日改めて食事の約束をするのだが、熊としてはどこかで女房をとも再会したいという希望はあったんだろう。
誰からお金を貰ったんだいと責める母に、とうとう亀が「おとっつぁんから貰ったんだい」と白状した時に「え、おとっつぁんから?」と問い直す母親の表情が良かった。
ここから鰻屋の二階で夫婦が元の鞘に納まるまで湿っぽくならず、これからの親子三人の未来を暗示させるような演出で、明るくお開き。
一之輔の場面に応じた表情の変化は見事で、あれは天性だろう。
ただこのネタ、アタシは好きじゃない。その割に寄席でも高座にかかる時が多く閉口しているのだが。

2席ともいかにも一之輔らしさが出ていたし、喜多八の2席も結構でした。
二人に共通しているのは「見せる落語」、言い換えれば見ないと良さが解からない。落語とはそういう芸能だ。

2013/10/27

#28三田落語会「扇遊・一之輔」(2013/10/26昼)

扇遊が、半井小絵がNHKニュースに出なくなってから天候不順が続くといっていたが、アタシも同感。早く戻してあげないと、これからどんな天変地異がおきるか分かりませんよ。
台風27号が東にそれた10月26日、予定通り開催された第28回三田落語会・昼「扇遊・一之輔」へ。
三田落語会も2010年4月~2013年6月の間、毎回欠かさず参加していたのだが、都合でこの8月に不参加で連続が途切れてしまった。
毎度もことながらこの会のスタッフの人たちはとても感じが良い。こういう所は他の会も見習って欲しい。

<  番組  >
前座・入船亭ゆう京「弥次郎」
入船亭扇遊「試し酒」
春風亭一之輔「寝床」
~仲入り~
春風亭一之輔「鮑のし」
入船亭扇遊「付き馬」

落語の世界といえば思い浮かぶのが「長屋」「お店(たな)」「遊郭」といった場所であり、登場人物はといえば大家と店子、店の主人と奉公人、遊女・若い衆・幇間と客だ。
アタシが寄席に行きだしたころは未だ噺家自身がそうした世界を経験していた。若いころは店に奉公したことがあり、長屋に住み、吉原に通う。幇間をしていたことのある落語家も少なくなかった。だから演じる方にリアリティがあった。
今は落語家の多くは戸建てやマンション住まい、吉原はとうに無くなり、近ごろでは大学の落研から入門というのが一般的なコースにすらなっている。
昔は利口な人は客席に座っていたが、今では高座に上がっている。少し売れ出すと本を書いたりして、もはや落語家は知識人である。だから噺家が「我々同様、愚かな人間が・・・」などというと白けてくる。
演じ手も客も、古典落語は完全なバーチャルの世界だ。そういうものとして演じ、そういうものとして客は聴いているという暗黙の了解で成り立っているわけだ。
一之輔が20数日ヨーロッパを周り落語を演じてきたと語っていた。外国人が落語を理解できるだろうかとなんて心配することはない。古典の世界を知らない点に関しては私たちも外国人も大差ない。

扇遊の1席目「試し酒」
古典と思いきや、昭和初期に創作された新作。新作も数十年経てば古典になるわけだ。
5代目小さんが絶品で、次いで志ん朝、その後の人たちは小さんの演出を踏襲している。
扇遊の高座は、見せ場の、清蔵がいかにも旨そうに盃を空け、バカっ話しをしながら次第に酔っていく様子を丁寧に描いていた。豪放磊落のなかに主人思いという清蔵の造形も良くできていた。

一之輔の1席目「寝床」
一之輔の特長は、先人のいいとこ取りで組み立て、そこに独特のギャグを放りこむという演じ方にある。この高座でも志ん朝(8代目文楽型と志ん生型の2パターンを演じていた)や上方の枝雀の演出を併せたような組み立てをしていた。なおかつ無理なく調和をさせている点にこの人の才能を感じる。
ただこのネタは人間の業としての「自己顕示欲」(カラオケにも繋がるのだが)がこの作品のテーマだと思うが、志ん朝や枝雀に比べそこまでの深みには達していないのはやむを得ぬ所だろう。

一之輔の2席目「鮑のし」
市販CDとして志ん生・馬生親子の他、大師匠にあたる先代柳朝のものがある。柳朝の演出は志ん生のとは違るが、一之輔は志ん生型を基本に柳朝のギャグ(中身は変えていたが)を採り入れていた。
テンポと歯切れの良さは大師匠を彷彿とさせる。
噺家には色々なタイプがある。若い時にパッと才能が花開く人もいれば、50過ぎてから頭角を現わす人もいる。若くて売れる人にも、その後さらに芸を磨いていくタイプもあれば、逆に次第に伸び悩み昔は良かったと言わせるようなタイプもいる。一之輔には当然のこと、前者のタイプになって欲しい。

扇遊の2席目「付き馬」
いかにもこの人らしいキッチリとした高座だった。見せどころの早桶屋の主人と牛太郎(馬)との会話のすれ違いぶりが良く出来ていた。
ただ、騙す男と牛太郎がともにマトモな人間に見えてしまうのは、扇遊の人柄か。欲をいえば廓噺らしく人物にもっと艶が欲しい。

三田落語会のテーマである「本寸法」に相応しい二人の高座は期待通り。

2013/10/26

NHKが「安倍放送局」化する?

月刊誌「選択」2013年10月号に、NHK経営委員が「安倍首相はNHKを自分の都合の良い放送局に変えようとしている。」と語ったことを紹介している。
安倍首相は「NHKの報道について『朝日新聞的』だと批判」していると、自民党閣僚経験者が語っているとも。

産経ニュースによると、政府は10月25日、NHK経営委員会委員として新たに埼玉大名誉教授の長谷川三千子氏、海陽学園海陽中等教育学校長の中島尚正氏、日本たばこ産業(JT)顧問の本田勝彦氏の計4人を起用する国会同意人事案を提示した。いずれも保守論客や安倍晋三首相に近い人材が並び、NHK改革に向けた政権のカラーが打ち出された格好だ。
経営委はNHKの最高意思決定機関で、会長任命など強い権限を持つだけに、松本正之会長の来年1月の任期満了に向けた会長選考に大きな影響を与えそうだ。
この内、百田と長谷川は昨秋の自民党総裁選の前に出された「安倍首相を求める民間有志により緊急声明」の発起人。本田は安倍の家庭教師だった人物だ。

現在のNHK会長はJR東海副会長から転身した松本正之だが。この人事は元々JR東海会長の葛西敬之が決めたものだ。安倍首相とは昵懇の葛西は「NHK会長は、JR東海の人事の一環だ」と放言してはばからないほどNHK経営に君臨している。
その葛西がJR東海社長当時に女性問題を起こして週刊誌ダネにされたとき、その火消しに回ったのが松本で、その縁で葛西からNHK会長に推されてという。
JR東海といえば、NHK特別主幹の石塚正孝もJR東海出身だし、「官邸のゲッペルス」としていう辣腕をふるっているとされる杉田和博官房副長官も警察庁警備局長からJR東海顧問に天下った人物だ。
ところが最近になって葛西の指示に松本会長が従わなくなったので二人の間が冷え込んでいるようだ。松本としても葛西の弱みを握っているので容易には屈しない。
この結果、葛西はあらゆる場所で「NHKは反原発に偏っている」「どこの国の公共放送か」と批判しているという。

NHK会長の選任権は経営委員会にあり、全12人のうち9人の同意が必要だ。つまり経営委員4人を握れば「拒否権」を得たことになる。
安倍-葛西ラインによる次期NHK会長人事は着々と進行しているわけだ。
どうやら安倍政権の「三本の矢」は言論の分野では
・秘密保護法
・国家安全保障会議(日本版NSC)
・NHK支配
のようだ。

2013/10/24

【街角で出合った美女】ドイツ編(2)

日経新聞によれば10月23日、ドイツ政府は米情報機関がメルケル首相の携帯電話の通話を盗聴していた疑いがあることを明らかにしました。この件で、メルケル首相が直接オバマ米大統領と同日電話会談し説明を求めました。
ドイツ政府のザイベルト報道官は「事実なら全く受け入れられない。重大な信義違反だ」と批判する声明を出しています。
米中央情報局(CIA)元職員の暴露により、ドイツは米国家安全保障局(NSA)の通信傍受の対象になっていたことが既に明らかになっています。
ドイツ週刊誌シュピーゲル(電子版)によると、首相の私用の携帯が数年間にわたって盗聴や通話記録の収集が行われていた形跡があるという。シュピーゲルは米政府がカルデロン前政権当時のメキシコ大統領府の電子メールシステムに侵入していたことも伝えています。
またフランス紙ルモンドは10月21日、NSAがフランス国内の電話を盗聴したり、通話記録を大量に収集したりしていたと報じています。

安全保障の名のもとに同盟国の首相の携帯まで盗聴しているほどですから、米国国民に対する情報収集活動については言うまでもないことでしょう。
現在、安倍政権が画策している国家安全保障会議(日本版NSC)はこうしたアメリカの手法を日本にも採り入れようとするものです。
秘密保護法と一体となって、片方で政府にとって都合の悪いことは国家機密としておきながら、片方では国民を監視するというものです。

さて、ドイツの首都ベルリンの世界遺産シャルロッテンブルク宮殿で行われた室内楽コンサートでは、係の女性たちが民族衣装に身を包むという趣向でした。
下の写真はは受付の女性で、いかにもドイツ美女という印象です。
森鴎外ならずとも海外でこんな女性に巡り合えたらメロメロになるのは分かる気がします。
1

こちらは場内案内係の女性で、手をあげてカメラを向けたらニッコリ微笑んでくれました。
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ベルリンの象徴ともいうべきブランデンブルク門、かつて東ドイツの領内であった時期は近づくこともできなかったのですが、今では大勢の人で賑わっています。
右側の女性の恰好は、なんだかAKBのコスチュームみたいですね。
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(クリックで画像が拡大)

2013/10/22

なぜ酔っ払いはタクシー運転手に暴行するか

10月には有名人やしかるべき地位の人によるタクシー運転手への暴行事件が相次いだ。
11日には女優松雪泰子さんの弟で歌手の松雪陽こと松雪陽平容疑者(34)が、渋谷区内の路上で50代のタクシー運転手の男性に対し、足を複数回蹴るなどの暴行を加えた疑いで逮捕された。男性は骨盤を骨折するなどの全治2週間の重傷を負った。
14日には、サッカー元日本代表の前園真聖元選手(39)がクシー運転手(45)を蹴るなどしたとして、暴行容疑で逮捕された.
16日には、集英社の「週刊ヤングジャンプ」編集長である嶋智之容疑者(46)が、自宅近くの路上でタクシーを降りる際、支払いを求めた男性運転手(66)の両腕をつかんでねじったうえ、「ぶっ殺すぞ」と脅して料金710円を支払わなかったとして、こちらは強盗容疑で逮捕されている。
いずれの事件に共通しているのは容疑者が酒に酔っていたことと、分別のある大人が自分より年上に対して暴力を振っていたことだ。

酔っていてよく憶えていないと犯行を否定しているのも共通点だ。
ここで注意しなくてはいけないのは、いくら酔っていてもその時点では本人に自覚はあるということだ。
私も酒飲みだから前後不覚の深酔いは経験しているが、必ず自宅には戻っている。出張などで見知らぬ土地で記憶がないほど酔っぱらったことも何度かあるが、目が覚めるとちゃんと宿泊したホテルの自分の部屋にいる。他のホテルや別の部屋にいたなどということは一度もない。だから自覚はちゃんとあるのだ。
憶えてないというのは、翌日に目を醒ました時に前日の記憶がないという意味で、そこは間違えないで欲しい。
だから酔って暴力をふるう相手というのは、必ずといって良いほど、立場の弱い人が対象になる。自分より上位の人間や権力者、腕力の強い人には向かっていかない。
たまたま身近にいて立場の弱いタクシー運転手が狙われるのは、そのためだ。
恐らく、普段から本人が抱いている「弱い立場の人間を見くだす」という潜在意識が、泥酔により抑制が外れてしまうのだろう。家庭で女房子どもに暴力をふるうのも同じ理由だ。
いくら酔っていてもタクシー運転手を殴る人間はごく一部なのだ。

今どきはそんな事はないだろうが、一昔前の慰安旅行などというと、女子社員の身体を触りまくっていた男っていうのは必ずいたものだ。
酔っぱらうと女性の身体に触りたがるというのも、本人に自覚があるからだ。間違っても男の身体には触らない、
酔って触りたがる人がいる一方、そうでない人はいくら酔ってても触らない。
だから酔っぱらうことにより、その人の「本性」が露わになると考えた方が良い。

さる大学の副学長にして専門学会会長であり、その道の権威者という人物と仕事上のお付き合いがあった。退官後は紫綬褒章も受章した、社会的には極めて立派とされる人物だ。
ところがこの人が酔うと途端に乱れ、卑猥な言葉や女性性器を大声で連発するのだ。酒乱でないのがせめてものミッケモノ。
タクシーで自宅まで送るのだが、運転手を雲助呼ばわりし始めることがある。
一度相手が怒って、車から降ろされそうになってこちらが平身低頭で詫びて収めたことがある。
彼を見て、普段は仮の姿なんだなと思った。

だから自分の本性が卑しいという自覚がある人は、深酔いしないよう注意した方がいい。
え、私ですか? 私は大丈夫ですよ。
だってそんな事した憶えがないもの。

2013/10/20

#413花形演芸会(2013/10/19)

10月18日、国立演芸場での「第413回 花形演芸会」へ。
”鈴々舎馬るこ”が今年度NHK新人演芸大賞~落語部門~の大賞を受賞したらしい。演目は先日聴いたばかりの「平林」とか。悪くないけど、NHKコンクールの選考基準が変ってきたのかね。あるいは落語そのものが変ってしまったのか。
この花形演芸大賞もいずれ”萬橘”や”天どん”が取るようなるのかしらん。喜ぶべきか、はたまた憂うべきか・・・。
ゲストに談春を迎えての会、談春がこういう席に出るのは珍しいんじゃなかろうか。それにしては意外なほど簡単にチケットが取れたのだが。

<  番組  >
前座・柳家緑太「やかん」
立川こはる「真田小僧」
ふくろこうじ「クラウン」          
U字工事「漫才」           
古今亭菊志ん「紙入れ」         
―仲入り―
立川談春「かぼちゃ屋」
エネルギー「コント」           
菊地まどか「壺坂霊験記」(曲師=佐藤貴美江)

前座の緑太、セリフの「間」が取れているし、二ツ目が近そうだ。
こはる「真田小僧」、アタシがただ一人実力を認めている女流落語家。マクラで談志から「女か?」と言われてというエピソードを紹介していたが、女流というより少年のような風貌が有利に働いているのかも知れない。このネタ、2-3年前に聴いた時に比べ練られていたが、「悪達者」にならぬよう気を付けた方が良い。
ふくろこうじ「クラウン」、パントマイムとジャグリングを併せた芸で洒落た雰囲気がある。演出が工夫されていて寄席の色物としても十分イケテル。
U字工事「漫才」、TV出演が多いのか人気があるようで盛大な拍手で迎えられた。アタシは芸能番組やバラエティを見ないもので知らないんです。この会では何度かお目にかかっているが、毎回栃木県の自虐ネタを中心に面白く聴いている。TVを中心に活躍している芸人が、こうしたお金を払って聴きに来る客の前で演じるというのは良い事だ。芸が錆びないと思う。
”サンドウィッチマン”も出てくれないかなぁ(ナンダ見てるじゃねえかと、自分で突っ込む)。
菊志ん「紙入れ」、この日は談春と色物を目当ての人が多かったようで、周囲に寝ている人が散見された。
いつ聴いても同じマクラじゃ飽きがくる。工夫が必要。
昔から女遊びの諺に「一盗・二婢・三妓・四妾・五妻」というのがあるが、人妻との恋というのが最高とある(当方は未経験)。歌舞伎や落語などにこの道ならぬ恋がテーマとしてしばしば取り上げられるのもその為だろう。このネタも「風呂敷」と並ぶ代表的な間男モノだ。
菊志んの演出は年増が若い男を誘うサマを目の動きで表現していたが、やり過ぎで品がない。こうした艶笑落語はむしろ抑え気味の表現の方が好ましい。

談春「かぼちゃ屋」、語るべき故郷もなく寄席にも出ないのでと言って本題へ、ああ最初から楽屋にいたんだ。
談志のは聴いたことがないが、演出は先代小さんを基本にしていて
叔父「なんで飯を食うか知ってるか?」
与太「箸と茶碗じゃねえか」
叔父「当たりめえだ」
与太「でもライスカレーは匙で食う」
という会話や、与太郎が長屋の男にカボチャを売って貰って帰ろうとして、
男「ありがとうございますとか何とか言え」
与太「どういたしまして」
というギャグも小さん譲り。
談春の独自性は、与太郎の間抜けぶりを一層増幅させていることと、長屋の男がいかにも江戸っ子らしい気風の良さを見せるところだ。「上を見ろ」と叔父に言われた与太郎が、男がカボチャを売っている間中、顔と両手を上げて「ウォー」と叫んでいた。長屋の男も同情心というより、与太郎が面白いから代りに売ってあげるという解釈だ。
こうした人物の造形は上手い。しっかりした語り口と明解な人物像が談春の魅力。短い時間ながらその魅力を客席に焼きつけていた。
オイオイお客さん、ここで帰るなよ。

エネルギー「コント」、狂言コントでこの日はマックの店員編。
菊地まどか浪曲「壺坂霊験記」、立ち姿が良いし美声。昔の人気を失いつつある浪曲界にこうした魅力ある若手が次々生まれているのは結構なことだ。落語と違って浪花節なら女流でもトップに立てる、そういう芸能だ。
ただ演目の選定はどうなんだろう。盲人が信心のお蔭で目が明くというのは落語のネタにもいくつかあるが、「壺坂」の場合は宗教臭や儒教臭がかなり強い。寄席の色物として演じるにはどうなのか。
それと「壺坂霊験記」といえば浪花亭綾太郎。アタシは一度観たことがあるが、ご本人が盲人で曲師の奥さんから手を引かれて舞台に上がり、冒頭の名調子「妻は夫を労わりつ、夫は妻を慕いつつ」が始まる。客から見ると、演目の主人公夫婦と本人たちが二重写しになるから感情移入出来たのだ。他の演者ではあれだけ一世風靡したかどうか疑問だ。 
実力はあるんだろうから、寄席に相応しい演目を研究してみたらどうだろうか。
かつて広沢菊春という素晴らしい寄席の浪曲師がいたんだから、良い手本はある。

ゲストと前座を除けば落語は2席だけというのは、いかにも寂しい。もっと若手が積極的に出演して欲しい。                              

2013/10/19

「通ごのみ 扇辰・白酒」(2013/10/18)

10月18日、日本橋社会教育会館での「人形町通ごのみ 扇辰・白酒」へ。
かつて人形町末広があり落語の聖地といわれた町で、新潟生まれと鹿児島生まれの「江戸っ子」による二人会に、「通」じゃないアタシが出向くということになった。
今回も満員御礼。

<  番組  >
前座・林家つる子「牛ほめ」
桃月庵白酒「首ったけ」
入船亭扇辰「三方一両損」
~仲入り~
入船亭扇辰「悋気の独楽」
桃月庵白酒「甲府い」

開口一番ってぇのは会場を温めるという役割だろうが、逆に冷やしちゃいけない。それでなくても急に冷え込んでいるんだから。他にもっとマシな前座がいるだろうに。

白酒の1席目「首ったけ」
このネタつい先日、喬太郎で聴いたばかりだが、白酒の方が志ん生のオリジナルに忠実。やはり古今亭一門だ。
白酒は、客の辰と紅梅花魁との言い合いに仲裁に入る若い衆が、逆に辰の癇に障ることばかり言って却って火に油を注ぐという場面を見せ場にしていた。
向かいの見世に上がった辰っつぁんが翌朝、敵娼(あいかた)の青柳の着物を引っ掛けて紅梅に見せびらかすという演出も加えていた。
古き良き時代の吉原の雰囲気が醸し出されていて、喬太郎とはまた違った良さがあった。

扇辰の1席目「三方一両損」
別の扇辰・白酒二人会(新宿亭砥寄席のことか)でサブタイトルが「ピーチ&ドラゴン」と名付けられたのが気に入らなかったようだ。キャッチは何でもかんでも思い付きでは困るだろうし、少なくとも出演者には了解は要るだろう。
ご存知、大岡政談の代表的作品だが、近ごろ高座にかかる機会が少なくなっているようだ。一つには時間が長い割には笑いが取れないということもあるだろうし、この噺の眼目である「江戸っ子の気風」が遠い昔になりつつあるということかも。
考えようによってはこの裁きは両者を「win-win」の関係にしたわけで、現代にも十分通用するものだ。今風にいえば裁判官は和解を勧告したことになる。
いかにも扇辰らしいオーソドックスな高座で、こちらも古き良き時代の江戸の姿を描き出していた。

扇辰の2席目「悋気の独楽」
マクラで落語家で一番難しいのは、高座に上がってからどんなネタを選ぶかということだと言っていた。でも実際はどうなんだろう、楽屋で客席の様子はモニタリングしているし、根多帳や後ろの出番の顔ぶれから判断して高座に上がる段階ではネタは決めているんではなかろうか。
喬太郎の高座で、途中まで演りながら客席の反応が悪いとみて打ち切り、別のネタに切り替えたのを二度ほど見たが、他の演者では経験がない。
菊之丞がプロとアマの違いは上手い下手ではなく、時間にキッチリ収められるかどうかだと言っていたが、それはその通りだろう。
このネタ、扇辰が描く小僧が可愛らしい。どうかするとやたら大人っぽい小僧にしてしまう演出もあるが、あれは邪道。上手い噺家は例外なく子どもの描写が上手い。その逆も真。
定吉は奥さんの前では奥さんの味方だと言い、旦那の前では旦那の味方だと言う。子どもながらにそうした世事に長けているのは既に社会人だからだ。
扇辰の高座は、子どもでありながら店の奉公人という二面性を程よく調和させていた。

白酒の2席目「甲府い」
落語にしては儒教色、宗教色の強い噺のせいか、八代目春風亭柳枝と八代目三笑亭可楽以後はあまり演じ手がなかった。そうした色を薄め、滑稽噺をして蘇られさせたのは志ん朝の功績だろう。
甲府育ちの善吉が江戸に出てひとかどの人間になり故郷に錦を飾ろうと上京してきたが、浅草寺の境内で巾着をすられて無一文。
腹を減らして、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。若い衆が袋だたきにしようというのを、主人が止める。
事情をきいてみると気の毒の身の上、ちょうど家も代々法華宗だからと、善吉を家に奉公させることにした。
仕事は豆腐の行商で給金は少ないが歩合が取れる。
善吉の人柄とサービス精神で町内の人気は上々。
こうして善吉は三年間、毎日「豆腐ィ、胡麻入り、がんもどき」と、売って歩いた。
そうこうしているうちに、豆腐屋の一人娘に婿を取り、店の跡取りを作らなくてはならない時期に。宗旨も合うし、真面目な働き者ということで、主人と女房は善吉に決めようとなった。
娘も気がある様子で早速善吉に話す。「勿体ない」と答える善吉に、断ったと思い違いして旦那は怒り出すが誤解が納まり善吉はめでたく豆腐屋の養子になった。
それから若夫婦で家業に励んだから、店はますます繁盛。
ある日、善吉がまだ甲府の在所へは一度も帰っていないので、世話になった叔父に報告と、身延さまへの願がけのお礼を兼ねて里帰りさせてほしいと、旦那に申し出る。
翌朝、若夫婦で旅支度して家から出ると、
近所の人たちが「もし若だんな、どちらへお出かけで?」
善吉が「甲府(豆腐)ィ」
妻が「お参り(胡麻入り)、願ほどき(がんもどき)」。
白酒は
・腹を空かした善吉が一升飯を平らげる場面
・善吉の商い先ではオカミサン連中が毎日豆腐を買ってくれるので、その亭主たちは三度三度豆腐を喰わされる羽目になるというエピソード
・娘の婿にといわれた善吉が遠慮していると、早とちりした旦那がいきなり怒り出す場面
などを聴かせ所にして、オリジナルをさらに爆笑モノに仕立て直した。
この大した面白くもない噺をトリ根多にまで仕上げたのは白酒の力だ。
白酒の優れた点は、登場人物を戯画化しながら、オリジナルの風味を壊さぬことにある。

それぞれの持ち味を生かした高座、結構でした。

2013/10/15

#63扇辰・喬太郎の会(2013/10/14)

10月14日、国立演芸場で行われた「第63回扇辰・喬太郎の会」へ。
数ある落語会の中でも最もチケットを取るのが難しい会の一つ。主催者は東京音協だが今まではネットで申し込みを受け付けていたが、今回から電話のみの受け付けになってしまった。
人気の秘密はもちろん顔づけなのだが、もう一つ、毎回二人1席ずつネタ下しをするという趣向にある。それもネタ出しされるので、二人がどういう風に演じるのかという楽しみがあるわけだ。
落語会もただ漫然と行うのでなく、それぞれにこうした特色を持たせる工夫があれば大歓迎だ。

<  番組  >
前座・入船亭ゆう京「のめる」
入船亭扇辰「恵比寿の鯨」
柳家喬太郎「品川心中(通し)」*
~仲入り~
柳家喬太郎「擬宝珠」
入船亭扇辰「一眼国」*
(*印:ネタ下し&ネタ出し)

予めお断りしておきますが、今日の記事は普段よりチョイと長くなります。

扇辰の1席目「恵比寿の鯨」
本田久作の新作とのこと。
マクラでは説明が無かったが「なぜ恵比寿でクジラ?」かというと、クジラは古来、七福神の一柱で漁業の神とされる「恵比寿様」と同一視され、日本各地でクジラを「えびす」と呼びならわしてきた歴史があるという。
これに眼を付けた恵比寿地域の人たちが、「目黒の秋刀魚」の向こうをはって「恵比寿の鯨」で売り出そうという街起こしの一環で創られたようだ。
客が来なくて悩んでいた獣肉料理店を営む夫婦が、七福神の恵比寿さまに商売繁盛を祈願したところ、魚河岸に大きな鯨が打ち上げられた。
魚屋では調理できないので獣肉料理店の主人に始末を頼むということでタダ同然で鯨肉が手に入った。
早速、名物料理となる「鯨汁」を作ったところ、これが大評判となり商売繁盛。
恵比寿様で当たったんなら次は大黒だねと夫婦で話しているところへ、女が「鯨汁」を買いにくる。きけば旦那は僧侶。「それで大黒(僧侶の女房を表す隠語)か」。
新作のお披露目が9月だったので、こちらも出来立てのホヤホヤ。
扇辰は全体を古典落語風に演じて、「鯨汁」を旨そうに食べる場面を見せ場にしていた。
作品の演者を扇辰に選んだのは正解で、他の噺家では間が持たないネタだろう。
ただ「目黒」の方は庶民の視点で殿様を笑いものにするという批判精神があるのに対し、この作品にはそうした要素がなく、対抗馬にはなり得ないと思う。

喬太郎の1席目「品川心中」
ネタおろしでどう演じるかと思ったら、これが珍しい後半を入れた通しだった。
四宿の説明や現代の風俗街の模様をマクラにタップリ振って本題へ。
このネタは何といっても志ん生の極め付けだが、これに唯一対抗しうるのが先代の馬生で、近ごろの他の演者と同じく喬太郎も馬生の演出に倣っていた。
前半のお染が死のうと思う所は誰でも納得できるのだが、なぜ金蔵が一緒に死のうとしたのか、その辺りの描写が腕の見せどころとなる。
喬太郎はお染の勢いに呑まれて金蔵がうっかり一緒に死ぬと口を滑らせ、もう後へ引けなくなったという様な解釈だったようだ。逃げようと思えば逃げられたものを金蔵は律儀だ。そういう性格に付け込まれたということか。
さて、後半だが喬太郎はオリジナルを変えて簡略化していた。
金蔵から心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分は、ひどい女だと怒り一つ仕返しをしてやろうと金蔵に一芝居打たせる。
金蔵が白木屋に引き返し、お染は幽霊かと思ってびっくりするが、とにかく部屋へ上げる。
詫びるお染に金蔵は気分が悪いから寝かせてくれと頼み、枕元に一膳飯に箸を一本刺させ、線香を置かせる。
そこへ現れたのが親分たち、死んだ金蔵の弔いに線香を上げてくれとお染に頼む。
お染は、たった今しがた金蔵が来たばかりだとせせら笑う。
それならとお染と親分たちが一緒に金蔵の寝ている部屋に行くと、もぬけのカラ。布団を剥いでみればそこには金蔵の位牌が。
幽霊だと、お染はもうオロオロするばかり。
そこで親分が「おめえがせめても髪を下ろして、済まなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」とお染に言うが、それだけは勘弁とお染が逃げ回る。
「尼(アマ)になれ」と追いかける親分たち、逃げ惑ったお染は最前金蔵が飛び込んだ桟橋に追い詰められて、ドボン。
「これで海女(アマ)になった」。
後半をオリジナルの半分程度に短縮し、サゲも変えていたが、間然とすることなくスピーディで良かったと思う。
余計なクスグリを入れず古典を真っ直ぐに演じながら客席を沸かせていたのは、さすがというしかない。
語りの確かさ、人物の演じ分けなどの基本がしっかりしているからだ。
ネタおろしとしては会心の出来だった。

喬太郎の2席目「擬宝珠」
明治の通称ステテコの圓遊の作で、今では完全に埋もれた作品を喬太郎が掘り起こしたネタだ。
速記から起こしたもので、どうやら初代圓遊作、喬太郎編といった按配のようだ。
「あまちゃん」のマクラを振って本題へ。
さるお店の若旦那、気鬱の病いでふさぎこんで食べる物も喉を通らない。このままだと命が危ないというのだが、原因を親にも店の者にも医者にも話さない。
そこで幼な馴染みの熊さんを呼んで、若旦那から悩みを聞きだす。
「実は、擬宝珠が舐めたい」。
若旦那、昔から金物を舐めるのが大好きで、今舐めたくて仕方ないのが浅草寺の境内の五重塔、あのてっぺんの擬宝珠が舐めたい、と言い出す。
これを大旦那に報告すると、伜の命にかかわる事だからなんとかしましょうということに。
浅草寺様に話を通して足場を組み、引きずるように伜を連れてくると、若旦那は猿(ましら)の如く足場を登っていく。五重塔のてっぺんに上がると、宝珠にしがみついてベーロベロと舐め始めた。
すっかり元気になって下りてきた若旦那に、
「伜や、どんな味がした?」
「沢庵の味が致しました」
「塩の加減は三升かい、五升ばかりかい?」
「いいえ、緑青(ろくしょう)の味が致しました」。
ネタ下しが済んだ解放感か、自家薬篭中のネタを気持ち良さそうに演じた。
さながら、この日は喬太郎デーのような趣き。

扇辰の2席目「一眼国」
その昔、両国界隈には多くの見世物小屋が林立していたが、インチキも多かった。
赤ん坊を食らう鬼娘とか、オドロオドロしい割には内容はさっぱり。こうなると客も飽きてきて、小屋はガラガラ。
困った見世物小屋の主が、全国を歩いている六部に何か珍しいものを見たことがないかと尋ねると、
「江戸から北へ百里ほど、広い野原の真ん中の大きな榎木の近くで、一つ目の幼女を見たことがある」と打ち明けられる。
これは商売になると興行主は早速旅支度。
主がその場所を訪ねて探していると、一つ目の女の子を見つけた。騙して近くに来た所で娘を小わきに抱えて帰ろうと思ったら、「キャー」と叫ばれてしまった。
途端に早鐘が鳴り、周囲を人にとり囲まれて逆に捕まってしまい、奉行所に引き立てられる。
取り調べが始まり無理やり顔を上げさせられると、奉行や役人を始め全員が一つ目。一眼国に迷い込んでしまったのだ。
「やや、ご同役、こやつ目が二つある」
「調べはあとじゃ、早速見世物小屋へ出せ」。
短いながら「常識」を逆手に取ったもので面白い噺ではあるが、筋書は単純。小咄に毛の生えた程度のことで、むしろネタに入る前の見世物小屋風景の描写が聞かせ所だ。
このネタを得意としていた先代正蔵もそうした演出だった。
さてネタおろしの扇辰の演出だが、なぜか興行主が六部に話をせがむ場面に余計な時間をかけてしまった。
このため間延びした感が拭えず客席もダレ気味だった。
ここはテンポよく運んだ方が良いし、あまり時間を掛けるような噺でもない。
次回から工夫が必要だろう。

この日の二人会、喬太郎の勢いに扇辰が押されてしまったようだ。

2013/10/13

国立演芸場10月中席(2013/10/12)

10月12日、国立演芸場中席へ。
土曜日だというのに客席はガラガラ。近くの客が「どうしてこんなに少ないんでしょう」と言ったら、連れの人が「3連休だからかな」と答えていたが、それはあまり関係ないだろう。
顔づけは決して悪くない。
2000年初め頃からのいわゆる寄席ブーム落語ブームというのは、結局、一握りの人気者だけが異様に集客しただけで、それ以外はあまり変わらなかったというのが実状ではなかろうか。
国立はシルバー料金が1300円だ。この分じゃ出演者にいくらギャラが出るんだろうかと心配してしまった。

前座・柳家小かじ「道灌」 
<  番組  >
鈴々舎馬るこ「平林」
三遊亭歌奴「佐野山」
ダーク広和「奇術」
宝井琴調「宇喜多秀家配所の月」
古今亭志ん弥「替り目」
-仲入り-
笑組「漫才」
橘家圓太郎「目黒のさんま」
柳家紫文「俗曲」
柳家小さん「寝床」

小かじ、協会の香盤で最下位、つまり一番新しい前座ということになる。三三の弟子らしいが、新人としては落ち着いた高座だった。
馬るこ「平林」
マクラで今年のNHK新人演芸大賞に出場すると言っていた。優勝を狙うと宣言していたが果たしてどうか。
この日もそうだったが古典を演じるにも一捻りして掛ける、典型的な「受け狙い」のタイプだ。
「唄入り平林」、よく受けていた。本流からは外れるが、こういう噺家がいても良い。
歌奴「佐野山」、別名「谷風の人情相撲」
この人の大らかで明るい芸風は将来性を感じさせる。もし圓歌を継ぐようなことがあるなら当代より2代目に近くなると思われる。
こういう相撲ネタとなると、やはり歌奴のような相撲好きでないとダメだ。呼び出しや行司の声色が良かった。
ダーク広和「奇術」
紐を使った手品、いつ見ても鮮やかだが、いかんせん地味だねぇ。
琴調「宇喜多秀家配所の月」
関ヶ原の合戦で西軍の副大将を務たが敗れて、公式史上初の流人として八丈島へ配流となった宇喜多秀家。
偶然嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に、酒を恵んでもらったという故事に因んだ一席。
落語と違って英雄豪傑を対象にしている講談が、かつての面影をなくしているが、その中で琴調が評価と人気を保っているのには理由がある。一口にいえば寄席の色物としての講釈に徹しているからだと思う。言い換えれば落語を聴きにきたお客に受け容れられる工夫をしているという事。
志ん弥「替り目」
数多い圓菊一門の中で、名前に「菊」が入っていないのはこの人だけだ。風貌はちょっと志ん朝に似ている。端正な芸だが、身体の動きが美しく色気があるところは師匠譲りか。
酔っ払いの小咄を重ねながら自然にネタに入り、ヘベレケの亭主のどこか憎めない性格を丁寧に描いていた。女房が健気で可愛らしく、あれじゃ後ろ姿に亭主が手を合わせるのも無理がないと思わせた。
この1席だけでも来た甲斐があるというもの。
笑組「漫才」
漫才で大事なのは自分たちの「型」を作ることだと思う。このコンビを観ていると未だその「型」が出来上がっていないという印象を受ける。
その辺りが課題か。
圓太郎「目黒のさんま」
この人らしい筋肉質で力技の「目黒」で客席を沸かせていた。
圓太郎はしばしば噺のなかで薀蓄を垂れるのだが、少し抑えた方が良いと思うことがある。その部分で流れが悪くなり聴き手が入り込みづらくなるからだ。
紫文「俗曲」
三味線は結構なんだが、どうも声がねぇ・・・。
小さん「寝床」
番頭の茂造が色々と言い訳をして義太夫の会に来られないのを告げられた旦那が次第にイライラを募らせる場面や、逆に長屋の連中がどうしても義太夫を聞きたいという時の旦那の表情の変化は良く出来ていた。
演出は文楽型でなく志ん生型で、サゲまでやらず前の番頭が旦那の義太夫を聴くように迫られて、逃げていなくなってしまったという所で切っていた。
芸風は決して明るいとはいえず噺家として愛嬌が足りない。さすればもう少しマクラの振り方には工夫が要るんではなかろうか。

空席が目立つ中で出演者は揃って熱演だったし、客も反応が良くていい雰囲気の寄席だった。

2013/10/11

ストーカー心理って、どうも分からん

♪惚れた数からふられた数を 引けば女房が残るだけ♪
ってぇ都々逸があるが、上手いことを言ったもんだ。
アタシの人生など正にこの通りなので、ついつい苦笑してしまう。

今まで付き合った女性はなぜか皆、相手の方から去って行ってしまった。
喧嘩別れじゃない、いつも静かに振られてしまう。
寂しいと思ったことはあるが、口惜しいと思ったことはなく、まして憎いと思ったことは一度もない。
振られたんだから原因はこちらにあるわけで、誰を恨むこともできない。
かと言って、私のどこがいけなかったんでしょうと訊くのも野暮だから、黙っているしかない。

10月8日、三鷹市で私立高3年鈴木沙彩さんが刺殺されたという痛ましい事件が起きた。ご本人はもちろんのことご両親の無念さはいかばかりか。
この事件で逮捕された池永チャールストーマス容疑者が、別れ話しから恨みを募らせストーカー行為を繰り返したあげく殺害に及んだと見られる。
こうした極端な例を別にしても、周囲にストーカー行為をしていた人物はけっこう居る。それが社会的地位も分別もあり、人生経験もそこそこ積んでいる人間がやるんだから始末に悪い。
かつて私の同僚が社内の女性に付きまとい行為をして困っているという相談を受けたことがある。
妻子あるその同僚が、毎日退社の時に待ち伏せして交際を迫るという明らかなストーカー行為だ。
上司に相談して本人に注意するよう依頼したところ、上司は「あれは男性が悪いわけじゃない、女性の方から誘っているんだから気にするな」と言われた。でもその女性は真剣に嫌がっており恐怖さえ感じていた。
後で分かったことだが、実はその上司も別の女子社員に付きまとい行為を行っていた。同病相憐れむっていうヤツで、これじゃ説教など出来ない筈だ。
「嫌よ嫌よも好きの内」なんて変な諺を信奉しているのか、はたまた男のプライドだかメンツだか知らないが、実に困った連中だ。

振られたり、嫌われたりしたら、
「ふん、裏のドブじゃねぇが、こちとら、女なんてものは後から後からつっかえてんだ」
と独り言をつぶやいて、自棄酒呑んで寝ちまおう。
その方が恰好いいじゃん。
あ、これは女房にゃ内緒だぜ。

2013/10/10

「イーハトーボの劇列車」(2013/10/9)

10月9日、紀伊国屋サザンシアターで上演中の「こまつ座第101回公演『イーハトーボの劇列車』」を観劇。
タイトルの通り宮沢賢治の評伝ともいえる作品。当ブログのタイトル「ほめ・く」は、賢治の「雨ニモマケズ」から採っており、小学5年生の時に書いた放送劇用の台本は、賢治の「どんぐりと山猫」を脚色したもの。ご縁を感じる作家なのだ。
宮沢賢治と言う人は不思議な星の下に生まれ死んでいった。生まれたのは1896年、明治三陸大地震大津波の直後であり、亡くなったのは1933年の昭和三陸大地震と岩手県を襲った大津波の前だ。
日本の傀儡国家である満州国が建国されたのは賢治が亡くなる前年の1932年だが、賢治が入信していたのは日蓮主義の在家教団「国柱会」で、石原莞爾らも所属していた国粋主義の教団だった。
石原莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、更には石原が参謀であった満州国建国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。
「八紘一宇」も元々は国柱会のスローガンだ。
いや石原だけではない、大東亜の思想的指導者であった井上日召や北一輝も日蓮宗の信徒だった。
仏教系宗派の中でも法華経、日蓮宗は突出して大東亜戦争に積極的に係わっていく。
歴史に「もしも」は無いことを承知で言うのだが、もし宮沢賢治があのまま生きていたなら、戦争との係わりあいは避けられなかったのではと想像する。そうなれば後世の評価は変っていたかも知れない。
死後、賢治が世間に知られるようになったのは、何といっても詩人・草野心平の力だ。
もし草野心平なかりせば、宮沢賢治が偉大な文学者としてその名を残すことはなかったかもしれない。
ここまで、ちょいとマクラが永すぎましたね。

作 :井上ひさし
演出:鵜山仁
音楽:宇野誠一郎
演奏:荻野清子
<  キャスト  >
井上芳雄:宮沢賢治
辻萬長:父・政次郎/刑事・伊藤儀一郎 
大和田美帆:妹・とし子/女車掌ネリ
木野花:母・イチ/稲垣未亡人
石橋徹郎:三菱商事社員・福地第一郎 
松永玲子:妹・ケイ子
小椋毅:山男 
土屋良太:熊打ち 
田村勝彦:人買いの男
鹿野真央:人買いに売られた女 
大久保祥太郎:少年 
みのすけ:赤い帽子の車掌

先ず舞台中央に楕円形の盆が置かれ、役者はその上で演技する。この「盆」が列車であり、賢治の宇宙でもある。
宮沢賢治というとイメージとして生涯を生まれ故郷の花巻で過したローカルな作家を思い描くかも知れないが、実際は9回上京をしている。若いころはそれなりに野心があっただろうし中央の文化にも触れたいと願っただろう。父親との葛藤から家出という形もあり、時には自身の仕事のためもあった。
15年間に9度、花巻~東京を往復したのだから、当時としてはかなり行動的な人だったといえる。
芝居では1918年、妹・とし子の入院の知らせを受けて見舞いのため上京する所から始まる。
賢治の目的は見舞いだけではない。自立のために人造宝石の研磨という事業を起こすという夢があった。また父親の生業である質屋という職業を嫌い、加えて父親が浄土真宗の熱心な信徒であるのに対し、賢治が法華経に入信し家族に改宗を迫って対立したという背景もあった。
病院でとし子の隣のベッドにいた娘の兄というのが三菱商事の社員・福地第一郎。賢治との間で都会のセレブ対花巻の農民という図式の論争が起き、賢治が打ち勝つ。
ここで初めて夜行列車の車掌が現れ、賢治に若くして亡くなった人の「思い残し切符」を手渡す。以後、上京の度にこの「思い残し切符」が渡される。
次は1921年の上京で、この時は家出同然だった。法華経にますますのめり込む賢治を連れ戻しに上京してきた父親との間で宗論を戦わせる。
賢治は浄土真宗にとってのユートピアは西方浄土という別の世界だ、それに対して日蓮の教えはユートピアは自分たちが立っている大地そのものをユートピアに変えていくことだと反論する。
すると父親は、お前のしていることは東京という西方浄土での成功を目指していて矛盾している。日蓮の教え通りなら花巻という大地を変えてゆかねばならないと諭される。
1926年の上京は、東京でエスペラント語を学び、チェロ、オルガン、タイプライターを習うのが目的だった。花巻から尾行してきた刑事と対峙しここでも論争するが、賢治が自分は常に百姓の味方であり自身もその一員だと主張すると、刑事はなんでお前が百姓なんだ、親の経済的援助を受けて生活している人間に百姓を語る資格はないと叱られる。
そして1931年、賢治は東北の砕石工場で生産された石灰石を販売するために上京、ここで三菱の福地と再会する。福地は三菱の満州駐在員として赴任することが決まり、国柱会に入信したことを明かす。
福地は新国家実現のために満州行きを勧めるが、賢治は自分は飽くまで花巻を、そして全国の村を、世界の中心にするために働くという決意を示す。
この時に高熱を発するが、そのまま体調を崩し2年後に賢治は亡くなる。

芝居は宮沢賢治の半生を虚実ないまぜに描きながら、賢治の書いた作品、「注文の多い料理店」「紫紺染について」「なめとこ山の熊」「グスコーブドリの伝記」「銀河鉄道の夜」などの登場人物が、上野行き夜行列車に同乗してきて、実在の賢治と交差するという仕掛けになっている。
賢治が多岐にわたる才能を持ち、花巻を理想郷にするという夢を最後まで追い求め、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という心境に達していながら、早逝のためにその夢が実現できなかった。その無念さが「思い残し切符」という形で表現されている。
当時の東北地方の農村の苦境や、それに対する都市の繁栄、太平洋戦争の口火となる満州国の建国と「国柱会」や三菱財閥が果たした役割なども簡潔に描かれていた。
賢治も一方で農民の側に立つと宣言しながら、経済的には最後まで親がかりだったいう自己矛盾と苦悩も描かれ、人間ドラマとしても良く出来ている。
井上ひさしの戯曲の中でもかなり上位に位置する作品である。

出演者では、なんと言っても主役の井上芳雄の好演が光る。少々恰好良すぎるのが欠点だが、宮沢賢治というのはこういう人間だったのかと思わせる説得力のある演技だった。
ここ何回かの井上の芝居での主役としては飛び抜けている。
父親と刑事の二役を演じた辻萬長の存在感が圧倒的だ。この人のセリフを聞いていると思わず肯いて納得してしまう。そこに居るだけで「こまつ座」なのだ。
賢治と正反対の人物である三菱社員を演じた石橋徹郎が良かった。機を見るに敏で時流に乗りながら、芝居では描かれていないが最後は破滅するタイプの人間を暗示させていた。
木野花が安定感のある演技を見せ、大和田美帆が可憐。
その他の出演者も総じて好演で、さすが「こまつ座」と思わせてくれた。

公演は東京が11月17日まで、以後は各地で12月1日まで。

2013/10/08

【街角で出合った美女】ドイツ編(1)

第二次大戦でドイツの敗北が決まると、ソ連は東欧諸国に対する支配を強め、次々にソ連の言いなりになる政権を作っていきます。
こうした動きを牽制するため1945年5月、アメリカのトルーマン大統領は外交顧問のハリー・ホプキンズを特使として送り、スターリンと交渉させます。
ホプキンズがスターリンに対し、東ヨーロッパ諸国で基本的自由を保障するというヤルタ会談での約束を履行するよう迫ります。その自由とは言論の自由、集会の自由、移動の自由、そして宗教の自由だと。
スターリンは大声を上げて反論します。
「そうした自由は平時にのみ完全に適用されるし、それでも一定の制限を伴うものだ。いかなる政府も、戦争の脅威がある時は、そうした自由を制限する権利を留保している。」
「平時といえども”民主的政府”を転覆しようとする”ファシスト諸党”が、非ファシスト諸党に認められた自由を享受することはない。」
実際には、誰が「民主的政府」で、誰が「ファシスト」かは、スターリンが決めていったのです。
米国が求めた「完全なる自由」は拒絶されてしまいます。

ここで「民主的政府」を「アメリカ政府」に、「ファシスト」を「テロ集団」に置き換えると、今の米国の政策ともピタリと当てはまります。いわゆる「愛国者法」がそれです。
この法律において電話やEメール、医療情報、金融情報や他の記録について当局に対し調査する権限を拡大し、金融資産の移転とりわけ外国人や外国法人について規制する権限を強化し、テロに関係する行為をとったと疑われるものに対し司法当局や入国管理局に対し入国者を留置・追放する権限を高めることを規定しています。
2009年3月2日にアメリカ合衆国司法省が公開した、ブッシュ政権の政府高官達が作成した対テロ政策秘密メモ類によれば、
「“テロ容疑者”に対する捜索は大統領の政策であり憲法修正条項(第1条・第4条)の制約を受けず随時行なわれてよいし、また“戦時に人権は制限され得るべき”」
と記されていたそうです。

こうしたアメリカの政策に協力すべく安倍政権が準備しているのが、外交・安全保障の司令塔となる「国家安全保障会議(日本版NSC)」設置と、機密情報を外部に漏らした国家公務員への罰則を強化する「特定秘密保護法」の制定です。

スターリンは死に、その思想は完全に否定されているかに見えますが、どっこい「スターリニズム」は形を変えて生き残っているわけです。

ドイツ東部のライプツィヒは学芸都市であり、金融と商業の街であり、印刷や出版の街であり、バッハを始め、シューマン、リスト、ワーグナーらが活躍した音楽の街でもあります。
森鴎外もこの街で学びました。
そのライプツィヒのレストランの可愛らしいウエイトレス、カメラを向けたらニッコリ笑ってポーズを取ってくれました。
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「百塔の都」ドレスデンは連合軍の無差別爆撃により街は灰燼に帰してしまいましたが、今では完全に復元し戦前の姿を取り戻しています。
ツヴィンガー宮殿を観光していたら、中庭でコンサートのチケットを売っている女性がいました。
なんと美しいフォルムでしょうか。
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2013/10/06

#15東西笑いの喬演(2013/10/5)

10月5日、国立演芸場で行われた「第15回 東西笑いの喬演」へ。
この会は毎年2回開かれ春は大阪で、秋は東京での開催となっている。毎回しっかりとしたプログラムが配布され、主催者・みほ企画の熱意がうかがえる。
夢空間にはここの爪の垢でも煎じて欲しい。
去る7月30日に三喬の師匠・6代目笑福亭松喬が亡くなった。プログラムに主催者代表の山口一儀氏の追悼文が寄せられている。この中で松喬の葬儀の際の、三喬の弔辞が引用されている。
それによると松喬は弟子に「芸はザルに水を汲むようなもんや。一朝一夕では溜まらん。毎日水を汲みなさい」と諭したとある。その松喬が末期がんと診断されてからの稽古は、まるで「命を汲んでいるようでした」と三喬が語っている。
その師匠の教え、姿勢を受け止めて一門は精進していくのだろう。
東京では師匠が亡くなると、二ツ目以下の弟子は他の師匠の元に移籍するのだが、上方ではどういうルールになっているんだろう。惣領弟子の三喬が一門をまとめていくことになるんだろうか。

<  番組  >
笑福亭喬若「手水廻し」
笑福亭三喬「花色木綿」
柳家喬太郎「首ったけ」
~仲入り~
柳家喬太郎「夜の慣用句」
笑福亭三喬「三十石夢乃通路」
(全てネタ出し、喬太郎は毎回古典と新作を1席づつとしている)

喬若「手水廻し」
三喬の弟子でキャリアからすると東京では二ツ目に相当するようだ。
東京の落語界というのは階級制になっているが上方はフラットだ。芸人には階級なんて無用で、後は実力次第というのが上方の考え方なのか。それなら東京でもいっそ無差別級にしてもいいような気がするのだが、どうだろうか。
「手水」が大阪の言葉だと言っていたが、アタシのご幼少の頃は東京でもトイレの意味で使われていた。ご婦人が「ちょっと、お手水を拝借します」なんて言ってましたよ。
でも丹波では通用しなかったようで、手水=ちょう(長い)+ず(頭) と解釈し、宿に泊まった大阪の客が「手水を廻してくれ」と頼むと、宿の主は近所の村から長い頭と持った男に依頼し、客の前でその長い頭を廻してみせるという噺だ。
喬若は師匠ゆずりのトボケタ味わいがあって良かったが、見せ場の頭を廻すときに、長さが表現できていないため客席の反応が鈍かった。演出上、工夫は要ると思う。

三喬「花色木綿」
マクラで得意ネタに泥棒モノが多いと語っていたが、確かにこの人には合っている。もしかして、風貌のせいかな? 受刑者から受けが良いのもそのためか。
そのうち「泥棒三喬」なんて綽名がつくかも知れない、そうなりゃ名誉なことだ。
東京でも小三冶と喜多八師弟が泥棒モノを得意としているが、このネタは「出来心」のタイトルで演じていることが多い。でもこのネタの面白さは、空き巣に入られた男が被害にあったと主張する品物に全て「裏は花色木綿」とくり返す点にあるので、やはり題名は「花色木綿」で演って欲しい。
三喬の高座はいきなり泥棒が空き巣に入る所から始まる。金目のものは何もない。お釜さえ中は空。そこへこの部屋の住人が戻ってくる。泥棒は慌てて部屋の隅に隠れていると、男は泥棒に入られたのがこれ幸いと、大家に被害にあったとされる高価な品物を並べ、しまいには大金まで盗まれたと主張する。
こうなったら泥棒も我慢できない。部屋に飛び込んできて男の襟首を捕まえてウソをバラす。
三喬の高座は、男の吹く大ぼらと「裏は花色木綿」を繰り返す「間」の取り方が上手く、さすがと思わせてくれた。男が実は御典医の息子だという時に、上方漫才師の「横山たかし・ひろし」の物真似をするのだが、東京のお客に通じただろうか。よく似てたんだけどね。

喬太郎「首ったけ」
マクラで池袋や新宿歌舞伎町の浄化が進んでいるが、あれでは町の特長が消されてしまうという。「ポン引きを一掃したら歌舞伎町には何が残る?」と語っていたが、同感。繁華街などというものは猥雑な部分が必ずあり、それも含めて繁華街なのだ。これから東京オリンピックに向けてますます街の浄化作戦が強化されるんだろうが(前回もそうだったからね)、そういう汚れた部分も含めての東京であり、有りのままの姿を観光客には見て欲しい。
このマクラから、吉原を舞台にしたネタへ。
惚れて通いつめた勝つぁん、ようやく馴染みになった紅梅花魁はこのところ、宵にチラリと見るばかり。
この日も一晩中待ってても、音さたなし。
それだけならまだいいが、直ぐそばの座敷に紅梅があがっていてドンチャン騒ぎ、声が聞こえるだけに腹が立つ。
さすがに堪忍袋の緒が切れて若い衆を呼んで文句を言えば、当節流行りのキザな言葉を並べての言い訳。
ますます腹を立てて帰ろうとすると紅梅が出てきて、「あちらは派手な遊びでお金を使ってくれるんだから我慢おしよ」と言い出す始末。
こうなりゃ売り言葉に買い言葉。「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」「何をぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」となって、仕方なく勝つぁんは店を出る。
腹いせに向かいの女郎屋に上がり込む。
なじみの女郎がいるうちは、ほかの見世に上がれないのが吉原のルールだが、そんなこと知るもんか。
実はここの若柳という花魁が前々から勝つぁんに岡惚れで、そのご本人が突然上がって来たのだから、もうモテルのナンノ。
勝つぁんも紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。
たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかった、そんなある夜。
半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという、駆けつけると、もう火の海。
女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。
ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、水に首まで浸かって溺れかけている女がいる。
助けてやろうと近寄れば、それは紅梅。
「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「勝つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」
志ん生の十八番で息子の馬生も演じていたが、あまり高座に掛からない珍しい噺だ。
喬太郎は、あれ、こんなに吉原ネタが上手かったかなと思う程、結構な高座だった。
人物像、特に客の勝つぁんの一途な姿、若い衆や紅梅との掛け合いの「意気」、向かいの店の花魁の可愛さなど、造形がしっかりしていて演じ分けも見事。
最近の喬太郎ではピカイチの高座だった。

ここまで長くなったので後半は端折ります。

喬太郎「夜の慣用句」
喬太郎の新作の中ではもう古典といってもいいだろう。
古臭さを感じさせないのは、常に新しいギャグを入れ込んでいるからだ。
そうした飽きさせない工夫をすることが、喬太郎の長所ではある。

三喬「三十石夢乃通路」
上方落語屈指の大ネタだが、どうも米朝や枝雀の名演が耳に残っているせいか、他の演者に対して点数が辛くなるのだ。
このネタの聴かせどころの一つは、三十石の船の上で、お女中が近くに来るということで妄想を膨らませる男のエピソードだ。三喬の演出は妄想で、大阪に着いてから女の家に上がり込み、酒をふるまわれて泊まるという所まで演じていたが、この後半がやや冗長に感じられて、客席もダレ気味だった。
その前後は締まっていただけに、ひと工夫が要ると思う。

久々に喬太郎の充実した高座に出会えたし、三喬の上方落語にも浸れて満足。

2013/10/05

「それからのブンとフン」(2013/10/4)

めっきりと涼しさの増した10月4日、天王洲銀河劇場で上演された音楽劇「それからのブンとフン」へ。
1970年に井上ひさしが書いた処女小説「ブンとフン」を5年後に改めて戯曲として書き上演したものだ。
フンは小説家大友憤のふんで憤激のふんでもある、それに濁点を付けたブンは小説の主人公にして大泥棒。
井上の他作品と同様、劇中に歌が入る音楽劇となっている。

作 =井上ひさし
演出=栗山民也
音楽=宇野誠一郎
<   キャスト   >
市村正親:作家・大友憤(フン)
小池栄子:小説の中の大泥棒(ブン)
新妻聖子:悪魔/女学生ブンなど
山西惇:アナウンサー/裁判長/ト連ブンなど
久保酎吉:アサヒ書店主/ブン二号など
橋本じゅん:クサキサンスケ警察長官
さとうこうじ:宇宙船船長/タン国ブンなど
吉田メタル:看守長/南ドコニカブンなど
辰巳智秋:肉体労働者ブン/ボーイ長/弁護人など
飯野めぐみ:猫ブン/長官の秘書/刑務所所員など
保可南:芸者ブン/老婆など
あべこ:修道女ブン/上品なご婦人など
角川裕明:コソ泥ブン/警官/検事など
北野雄大:高校生ブン/AD/山形東作など
富岡晃一郎:おかまブン/司会者/警官など
(一人で何役も演じるので代表的な役を記す)
演奏=朴勝哲

スタッフ
作 =井上ひさし
演出=栗山民也
音楽=宇野誠一郎

ストーリーは。
主人公は売れない小説ばかりを書く貧乏作家の大友憤。
ある日、世界中で不思議な事件が起きる。シマウマのシマが盗まれて別のシマウマにそのシマが加わったり、自由の女神が消えたり、奈良の大仏が鎌倉の大仏の隣に移動したり。
この犯人が四次元の大泥棒ブンの仕業だということがわかる。大泥棒ブンとは、作家フンが書いた売れない小説『ブン』の主人公であった。
小説には「ブンとは何者か。ブンとは時間を超え、空間を超え、神出鬼没、やること奇抜、なすこと抜群、なにひとつ不可能はなくすべてが可能、どのような願い事でもかなう大泥棒である」と書かれていた。
その主人公ブンが、突然小説から抜けだしてしまった。途端に小説『ブン』はベストセラーになるが、増刷にあわせてブンも増殖する。
やがて大泥棒ブンは形のあるものを盗むことに飽き、人間の見栄、虚栄心、記憶、歴史、権威などの形のないものを盗み始めてしまう。
こうなると日本の警察も黙ってはいられない。必死でブンを捕まえようとするが、相手は四次元の世界に住み、自由自在に姿を変幻させ、時間も空間も関係なしに動き回るので、なかなか捕まえられない。
困った警察長官はとうとう悪魔に頼み込む。悪魔は偽のブンを作ったり、作者フンを捕まえ人質にしたりしてようやくブンを捕まえることができた。
一方、小説『ブン』は世界中に翻訳さえこれまたベストセラー。そうなると世界各国にブンが現れて、やがてブン同士の争いまで起きてしまうが・・・。

演出の栗山民也が述べているように、井上の小説『ブンとフン』は奇想天外で、世間の価値観をひっくり返してしまうような痛快な物語だった。
しかし5年を経て書かれた『それからのブンとフン』では一転して国家権力による弾圧や、ブン仲間の内部分裂が描かれている。
この5年間何が起きたかというと70年安保があった。60年安保のような国民的大運動には拡がらず、挫折感の後はセクト間の争い、いわゆる内ゲバに焦点があたるようになって行く。
井上ひさしには、理想を追い求めながら破れ崩壊していく集団を描いた作品は他にもある。
この芝居では、絶望の底から再び立ち上がろとする終幕を描き、未来に希望を持たせている。
井上のいかにも初期の作品らしい粗っぽさもあるが、同時にエネルギッシュっさも感じられる。
井上作品に興味のある方には見逃せない作品だと思う。

演技陣では主役の市村正親は期待通りの好演だったが、予想外だったのはブンを演じた小池栄子だ。
このところの「こまつ座」の公演は集客のためかTVなどの人気俳優を起用する例が目に付くが、やはり他の舞台人に比べ演技が見劣りがして足を引っ張るのも散見される。
そこいくと小池栄子は演技がしっかりしている。長身なので見栄えも良いし、何より声が良い。歌と踊りをさらに磨けばミュージカル女優としてもいけそうな気がする。
女優ではもう一人、ワキで飯野めぐみの動きが目立った。猫ブンに扮した時の柔らかな踊りから、長官の秘書や女性刑務官の役の際の綺麗な身体の動き、惚れ惚れする。
ピンクの尻尾を持った可愛らしい悪魔を演じた新妻聖子と共に、私たちの目を楽しませてくれた。
どうも我ながら美女には採点が甘くなりますな。
山西惇の手堅い演技とさとうこうじの軽妙な動き、久保酎吉の飄々とした舞台が印象に残り、橋本じゅんとあべこの怪演が客席を沸かせていた。

東京公演は3月15日まで。

なぜ企業は不正を隠ぺいするのか

10月4日、みずほ銀行が暴力団など反社会的勢力への融資を放置した問題で、持ち株会社みずほフィナンシャルグループの岡部俊胤副社長が東京都内で記者会見した。みずほ銀が取引に気付いた2010年12月の時点から、法令順守を担当していた元副頭取(現在は退任)が事実を把握していたことを明らかにした。
この元副頭取は代表取締役も務めるナンバー2だった。みずほ銀はトップは知らなかったとしているが、経営中枢の2人いた副頭取のうち1人が事実を把握しながら放置してきたことになり、法令順守に対する姿勢が問われる。
その元副頭取は既に退任しているので、知らぬ存ぜぬで逃げ切る気だろう。

頭取に報告をしていなかったというのはウソだろう。副頭取から必ず報告が上がっていた筈だ。
こういう時にトップのセリフは決まっていて「私は聞かなかったことにしましょう」。つまり問題が表面化した時には、自分は責任を取りませんよと宣言するのだ。「その時は、責任はあなたが取って下さいね」というわけだ。
副社長だの副頭取なんていう職務はシャツの三つ目のボタンと同じで、あってもなくても良い存在だ。
不正が発覚した時にトップに代わり責任を被るのが唯一の仕事みたいなものだから、仕方ないんだろう。
かくして、頭取は知っていながら知らない素振り、
♪それがぁヤクザぁの 恋なのさぁ♪
というわけ。ウソだと思うなら、本人に訊いてごらん。

それはさておき、今回のみずほの件も含めて、企業というのは不正を存在しても隠蔽したり先送りしたりするのが常套手段だ。JR西日本しかり、JR北海道しかり、東電しかり、いや殆んどの企業で多かれ少なかれそうした行為が行われていると考えた方が良い。
その理由は簡単で、表沙汰になった時に自分が責任を取らねばならないからだ。担当者はもちろんの事、管理する立場にあった人も責任を取らされる。
企業には人事異動があり、役員なら任期がある。その期間を過ぎれば、仮に問題が発覚してもさかのぼって責任を問われることは先ず無い。

私の勤めていた会社で、ある支店の営業マンが5億円を着服して告発された事件があった。着服は十数年にわたって行われていたが、新任の支店長がこの不正を発見し、本社と相談のうえ告発したものだ。このニュースは地方紙に掲載されて世間にも公になった。
むろん本人は懲戒解雇だったが、実はこの時の支店長も責任を取らされ左遷されてしまった。
この男が着服をはたらいていた期間に、支店長は数名交代している。それらの人物の誰も責任を取らされなかったのだ。なかには事件公表時には取締役になっていた人までいたのだが、一切お咎めなし。
では歴代支店長は誰も気が付かなかったのかというと、そうは言えないようだ。
この支店の長く勤務していた社員が私の同期だったので話を聞いたところ、以前から金遣いが荒いなど不審な点があったので何度か歴代支店長には不正を調べるよう進言していたとのこと。
ところが誰も耳を貸さず調べようともしなかったそうだ。どうやらその着服社員が、高額の商品をせっせと歴代支店長に付け届けしていたのが利いていたらしい。
つまり自分が任期中に不正が明らかにならなければ責任を免れるとしたら、誰もが不正にフタをしたり見て見ぬふりをしたりするだろう。

不正を暴いた人は褒賞され、不正が行われた当時の監督者がさかのぼって責任を取らされるというルールにしない限り、企業の問題先送りや隠蔽は絶対に無くならない。

【追加】10/8
10月8日、みずほ銀行の佐藤康博頭取は暴力団への融資を放置した問題発覚後、初めて記者会見し、問題融資を銀行として把握した2010年12月、当時頭取だった西堀利氏にも取引実態が報告され、事実を把握していたと発表した。
やっぱりね。


2013/10/03

消費税増税なら「政党助成金」を廃止しろ

自民党は国会開会中に衆参両院の常任・特別委員長に支払われる1日6千円の手当廃止と国会専用車を削減する国会改革案をまとめた。安倍晋三首相が来年4月からの消費税増税を表明したことを受け、議員が身を切る姿勢をアピールし、国民に理解を求める必要があると判断した。同党は今後、他の与野党議員にも賛同を呼び掛ける。
石破茂幹事長は2日、改革案の報告を受け、「やれることはやる」と了承。4日の党・政治制度改革実行本部の「新しい国会のあり方小委員会」で改革案を提示、了承される見込みだ。

なんでこんなセコイことで誤魔化そうとするの。
身を切る覚悟なら、先ず「政党助成金(政党交付金)」を全廃しなさいよ。
これだけで317億円浮くんだよ。
ムリじゃないさ、1994年まではこんな制度は無かったし、それでやって来られたんだから。
政党が国営なんておかしいとは思わないか。東電じゃあるまいし。
今でも共産党は受け取っていない。
共産党に出来て自民党に出来ない筈はないじゃないか。天下の自民党だぜ。
「やれることはやる」というなら、直ぐにでも廃止案を作成して国会審議にかけたらどうだ。
姿勢を見せるなら、これが一番手っ取り早い。

男の上半身と下半身は別人格

近ごろ当ブログの記事が硬いものばかりと、お嘆きの諸兄に。
痴漢だの盗撮だのいうニュースで、犯人が高級官僚や会社経営者、大学教員など社会的地位が高い人がなぜあんなことを? といった記事にぶつかるが、あれは不思議でも何でもない。
男の上半身と下半身は別モノ、別人格なのだ。おそらく脳からの指示系統が異なるんだろう。
地位だの名誉だのいうのは専ら上半身が司るのであって、それと下半身とは無関係なのだ。
むろん上半身と下半身が一致する人も少なくないが、それは結果として一致しているので、相互作用があるわけじゃない。
「あんな人が・・・」というのは上半身のことだから、下半身で何があっても驚くことはない。

犯行理由で圧倒的に多いのが「仕事のストレス」だけど、あれは違うね。
もしストレスが原因なら、世の男性の大半が痴漢や盗撮をしている筈だ。
きっと取り調べで警察官から「何でこんな事をしたんだ」と追及されて、これといった理由が思いつかないので「ストレスがたまって、つい」なんて答えるんだろう。
「出来心で」なんてね。
痴漢ならそういうこともあるだろうが、盗撮っていうのは準備が要るんだろう。カバンだの靴だのにカメラを仕込んでおいてから犯行に及ぶんだから、「ほんの出来心」なんて言い訳は通用しない。
車内の痴漢では、統計データによれば朝が多いのだそうだ。これは朝だと急いでいるので駅員や警官に通報されにくいからだろう。
やはり、加害者は計画的なのだ。

各種統計でも、通勤や通学で痴漢の被害にあったことがある女性の割合はかなり高い。
一方、常習的に痴漢を繰り返している男の割合は、統計データが存在しない。アンケート調査でも出てこないんだろうね。
これは私の推測にすぎないのだが、おそらく2%位ではあるまいか。
つまり極く少数の常習者が、圧倒的多数の被害を与えているものと思われる。
考えられる原因はただ一つ、痴漢も盗撮も性的嗜好、性癖の問題だということだ。
痴漢であれば女性の身体に触る時、盗撮であれば密かに撮影している時とその映像を鑑賞する時に、性的興奮をおぼえるのだろう。それ以外ではきっとノーマルなのだ。
性的嗜好は人さまざまで、それがどんなに異常に見えても違法でなければ社会的問題にはならない。
しかし痴漢や盗撮などは犯罪として処罰される。
「病気」という見方もできるが、「お医者様でも草津の湯でも」の口で、そう簡単に治るとは思えない。とりわけ常習者は。
女性側の自衛手段としては、女性専用車両を利用するとか、携帯に気を取られないようにするとかしか手がなさそうだ。

柔らかい記事にしようと思ったけど、あんまり柔らかくならなかったなぁ。

2013/10/01

JAL名人会(2013/9/30)

与党が復興法人税を廃止することを受け容れた。党内には反対が根強かったにもかかわらず安倍首相の方針に従った。
なに、税金を廃止すれば経済は活性化するなど、ふざけたことをぬかすな。
我々国民だって税金が無くなりゃ、そりゃ消費は活発になり経済は活性化するさ。それじゃ国の財政が立ち行かないというから、復興の財源がぜひとも必要だというから払っているんだ。
財政危機だ危機だといって消費税を上げておいて、片方では減税するというのなら、これは詐欺だ。
アベはタカではなくサギだった。
ひびきわたる」の洒落が伝染っちまったぜ。
そういうわけで9月30日、内幸町ホールで行われJAL名人会へ。当方は初参加。
都心に近く入場料が1000円ということもあってか、勤め帰りの人が目だつ。

<  番組  >
前座・柳家緑太「たらちね」
古今亭文菊「七段目」
五街道雲助「抜け雀」
三遊亭白鳥「人体革命」
~仲入り~
ひびきわたる「キセル漫談」
林家染二「しじみ売り」

いま落語協会だけでも前座が30名ほど、さらに入門したけれど前座として寄席に出られない見習いが十数名に達しているとか。
落語が好きだから高座で演じたいから落語家になるのだろうが、それが通用するほどこの世界は甘くない。落語が上手いだけなら素人でも沢山いる。決定的な違いは客が金を払ってまで聴きに来てくれるかどうかだ。
芸人としての魅力があるかどうかが、噺家として最も大事な資質だと思う。
噺家を志望するなら、先ず共通一次試験として「芸人」の適性があるかどうかを自己分析する必要があるだろう。
前座の緑太は合格レベルと見た。

文菊「七段目」
芝居の所作をたっぷりと入れて、非の打ちどころのない高座といって良いだろう。
ポスト喬太郎世代を代表する若手としては、一之輔と文菊がツートップだ。
文菊の欠点はというと、あまりの語り口がしっかりし過ぎて硬く感じることだ。
この芸に「軽み」が加わわれば鬼に金棒、落語家に祝儀。

雲助「抜け雀」
近ごろ、このネタを時間をタップリかけて丁寧に演じる傾向があるが、あれは邪道。志ん生流に軽く軽く演じるのが正解だと思う。
雲助はその志ん生譲りの演出で、説教臭を消し、
「おまえのマミエの下にピカッと光っているのは何だ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ」
というセリフを絵師、カミさん、老人に3回繰り返させるなど、滑稽噺を前面に押し出しての高座だった。
加えて、宿の亭主、そのカミさん、絵師とその父親という4人の人物像をしっかりと演じ分けていた。

白鳥「人体革命」
この日唯一の新作で、いつもの通り新作落語家の自虐ネタをマクラに本題へ。
人体の内臓と脳とが対決すると言う、知的で荒唐無稽なストーリー。
林家内臓一門の方はネーミングが良かったが、神田前頭葉の方はマイナーでちと弱い。
白鳥らしい明るくエネルギッシュな高座で、この日一番客席を沸かしていた。

染二「しじみ売り」
オリジナルは泥棒伯円の創作講談というから東京のネタなんだろうが、今では東西双方で演じられている。特に冬場に高座にかかることが多い。
このネタ、親分の設定が演じ手により異なる。東京は概して鼠小僧次郎吉で演じられるが、上方では盗賊ではなく侠客が多いようだ。染二は手配師にしていた。
年の初めの十日戎の日、雪の中を幼い男の子が、ボロボロの印半纏、素足に草鞋ばきで、赤ぎれで真っ赤になった小さな手に笊を持ち、「しじみィー、えー、しじみよォー」と売りに出ていた。
あちこちで邪魔にされているので誰も買ってやらないのを見かねた親分が、笊の中のしじみを全部買い取り、凍える手を火にあたらせ食べ物もまで与える。
身の上話をきくと、少年には姉がいて以前は北新地で売れっ子の芸者だった。贔屓の若旦那と深い仲になるが相手は勘当、挙げ句は手に手を取っての駆け落ち。
二人で店を持つが、お人好しの若旦那は保証人になって多額の借金を負う。返せなければ女房の体を預かると脅され、二人は心中を決意する。
身投げしようとした時、どこかの男の人に助けられ訳を話すと金まで与えてくれた。でも相手の名前を訊きそびれる。
処が二人の住む長屋に泥棒が入り、たまたま二人が大金を持っているのが見つかり、お前たちの仕業に違いないと牢に引かれて行ってしまい、その事を病んで母親は寝たきりに。今では少年の稼ぎだけで糊口をしのぐ日々だという。
少年になにがしかの金品と食料を与え帰してから、その二人を助けた男こそ親分自身だということに気付く。
慌てて少年の後を追い、親分が役人に分けを話して姉夫婦を助け出す。
これも十日戎の笹のご利益というお目出度い一席。
染二は少年が雪の中を寒さに凍えながら天秤棒を持つ手に息を吹きかけ、一歩一歩歩く姿を丁寧に描写していた。芝居の所作が身についているからこその動きだ。
少年の身の上話は涙を誘う。
親分の侠気、子分の軽薄さという対比も鮮やかで、さすが上方落語界の実力者らしい高座だった。

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