フォト
2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« 【秘密保護法】創価学会員はどう考えているんだろう? | トップページ | 「役割語」って、そうだったのか »

2013/12/08

#1柳家さん喬一門師弟四人会(2013/12/7昼)

12月7日、イイノホールで行われた「第1回柳家さん喬一門師弟四人会-師匠と弟子三人よれば一門の智恵-」へ。さん喬一門の4人の真打による落語会で、さん喬と喬太郎が2席ずつ演じるという趣向。
昼夜公演でその昼の部へ。
この日、さん喬はここで4席演って、さらに鈴本のトリで合計5席。落語家も重労働だね。

前座・金原亭駒松「から抜け」
<  番組  >
柳家さん喬「萬金丹」
柳家喬之助「堪忍袋」
柳家喬太郎「カマ手本忠臣蔵」
~仲入り~
柳家さん喬「按摩の炬燵」
柳家喬太郎「粗忽長屋」
柳家左龍「立ち切れ」

サラでさん喬が登場し会場がどよめく。マクラで外苑の絵画館前の落葉した銀杏を描写したのはいかにもこの人らしい。昼夜通しで来ている客が200人と言っていたが、噺家冥利に尽きる。
「萬金丹」だが訳があって江戸を離れて旅に出た二人は一文なし、山道で夜になりようやく宿を見つければそこは寺。住職に願って泊めてもらうが、金がないのでそもまま坊主にしてもらって居続ける。住職の留守の間に檀家の人が亡くなり葬儀となり、いい加減なお経をあげて切り抜けるが、さて戒名を求められて困る。仕方なく懐から取り出したのは丸薬の「官許伊勢朝熊霊法万金丹」・・・。
柳家の代々受け継がれてきた噺で、さん喬はとぼけた味わいで演じた。
聴かせ所の「お経」が今ひとつ。ここは5代目圓楽が上手かった。

喬之助「堪忍袋」、朝から夫婦喧嘩を繰り返す二人に仲裁に入った旦那が、堪忍袋を縫わせて腹が立ったらその中へ怒鳴り込めと諭す。効果てきめんで喧嘩が収まり、それを聞いた近所の住人が次々と来ては怒りを袋に吹き込み、とうとう満杯に・・・。
喧嘩好きや短気な男に目上の人が中国の故事をひいて諭すというのは落語のパターンの一つだが、昔はそうしたことが多かったんだろう。
喬之助は千葉のA中学での公演で、一席終わった後で校長が「生徒の皆さん、お疲れさま」と挨拶したことを怒って袋に吹き込むというクスグリを入れ面白くまとめていた。

喬太郎「カマ手本忠臣蔵」はタイトル通り「仮名手本忠臣蔵」の新作パロディ。
以前に当ブログにも書いたが、いわゆる「赤穂事件」の最大に謎は、吉良に対する浅野の刃傷の理由が最後まで分からなかったことにある。事件後の聴取で、浅野は「私的な遺恨」であることを繰り返し述べたが、その具体的な内容は最後まで口をつぐんでしまった。一方吉良は「恨みを受ける覚えがない」と主張した。だから吉良には罪が無いとされてしまった。
加害者である浅野が処罰されるのは当然だが、もし吉良に落ち度があれば吉良にも何らかの処罰が下された可能性が高い。
事実、これ以前に起きた殿中刃傷事件では口論(喧嘩)が原因とされ、被害者側もお家断絶の処分になっている。
浅野内匠頭の「一言の申し開きもない」という弁明が、この事件をややこしくしてしまった。
原因が分からないので後世の解釈は自由、それがこの物語の人気の秘密かも知れない。
よく知られているのは吉良が浅野に作法を教えなかったというものだが、勅使接待の吉良/浅野コンビはこの時が二度目で、しかも吉良が浅野を指名していたという事実もあるのだ。
喬太郎のネタでは吉良と浅野が同性愛者として描かれ、刃傷は痴情のもつれが原因としている。同性愛が多かった江戸時代、そういう設定もアリかなと。
討ち入りでは吉良方の全面勝利に終わるが、武士道の精神のために家来が吉良の首を討ち、赤穂浪士の装束に身を包み首を浅野の墓に手向けるという結末。「逆説忠臣蔵」だ。
喬太郎は一気呵成の勢いで、無理のある筋を演じた。勢いがなくっちゃ出来ないネタですね。

さん喬「按摩の炬燵」、喬太郎が得意としていて何度か聴いているが、さん喬の高座は初めて。8代目文楽の持ちネタで久しく演じる人がいなかったようだが、さん喬が掘り起し喬太郎に伝えたのだろうか。
冬の寒い夜に店の番頭と小僧たちが、盲人に酒を呑ませて炬燵の代りにするという筋で、障碍者を貶めるということで高座にかけ難くなっていたんだろう。
昔の風通しのよい家屋では冬の寒さは堪えたんだろう。奉公人たちの環境を描く事で暖を取る切実さを訴え、このネタの後味の悪さを消していた。
ただ喬太郎を先に聴いていると、盲人のあの明るい被虐性に比べ、さん喬の高座は物足りなさを感じてしまう。

喬太郎「粗忽長屋」、行き倒れの立ち合い人(長役人だろうか)が粗忽な二人の行動を迷惑ながらも楽しんでいるという演出が特色。
これも柳家のお家芸ともいうべき1席。

左龍「立ち切れ」、古くは江戸落語では色々な形で演じられていたようだが、今は上方の「立ち切れ線香」をそのまま東京の舞台に移した演出で行われている。師匠・さん喬が得意としているが、左龍もそれに倣っている。
大店の若旦那の道楽がテーマの落語では珍しく大旦那が登場しないネタで、若旦那を説諭し罰を与えるのは番頭。この店ではよほど番頭の力が強いのだろう。その番頭だが、親戚の者が若旦那に厳罰を求めたのに対し、100日の蔵住まいで済ませる。つまり番頭は若旦那の味方なのだ。その結果、若旦那に恋い焦がれた芸者は思いやつれて死んでしまう。
着実に力を付けてきた左龍の今の到達点を示したような高座で、人物の造形も鮮やかで結構でした。
気になる点は、衰えていく芸者のセリフの声が大きく、ここはか細い声で表現すべきだろう。そうしないと芸者の哀れさが伝わってこない。

季節感のあるネタ、柳のお家芸、古典、新作、人情話と、幅広い演目が演じられたこの会。ただ顔ぶれの割には物足りなさが残った。
夜の部はどうだっただろうか?

« 【秘密保護法】創価学会員はどう考えているんだろう? | トップページ | 「役割語」って、そうだったのか »

寄席・落語」カテゴリの記事

コメント

私も行ってましたが、所要時間の割りに、物足りなさを感じました。
この企画の焦点がぼけているような、そんな印象です。
師走にさん喬と喬太郎を楽しみたかったのですが、二人とも弟子や後輩への炎暑(気配り)があった、そんな気がしました。

小言幸兵衛様
やはり物足りなさを感じておられましたか。何か焦点がボケていたような会でした。
師匠のさん喬が一歩後ろに退いていたような、中途半端な印象が強かったように思えます。

喬太郎の「粗忽長屋」は寄席で聴いたことがあります。
談志の場合は、八が熊に「あれはお前だ」と説得する時の激しいやりとりにありますが、
喬太郎版は、立会い人が「それ、違うと思うなぁ」「また一人変な人が増えたよ」とつぶやくようにいうところに可笑しみがありますね。

福様
談志は「主観長屋」でしたか、思い込みの激しい男と自我を喪失した男との対比ですね。確かに「粗忽」というのは当てはまらないかも知れません。
喬太郎のは、立会人が少し突き放して見ているような表現が可笑しいです。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: #1柳家さん喬一門師弟四人会(2013/12/7昼):

« 【秘密保護法】創価学会員はどう考えているんだろう? | トップページ | 「役割語」って、そうだったのか »