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2014/02/26

産経・FNNの「慰安婦問題」世論調査

「世論調査で河野談話(見直し)賛成が約6割だった。山田さんのお蔭だ」。2月24日、安倍首相は山田議員にこう声をかけたと報じられている。
20日の衆院予算委員会で日本維新の会の山田宏議員が「慰安婦」問題をとりあげて質問したことを受けて謝意を表したもの。山田氏は「政府と国会で(見直しに向けて)役割分担をしていきましょう」と応じたとある。
この世論調査とは2月22,23両日に実施した”「産経・FNN」合同世論調査”で、「慰安婦強制募集を認めた『河野談話』を見直すべきか」という設問に対して58.6%の人が「思う」と答えた。

ところがこの設問には前書きがあり、こう書かれていた。
「慰安婦募集の強制性を認めたと受け取れる『河野談話』について、軍や官憲による強制連行を裏付ける公的資料が見つかっていないほか、元慰安婦に対する調査のずさんさが指摘されているが」。
いわゆる誘導型世論調査というやつで、こう書かれていれば大半の人が「思う」と回答する。私でもそう答えただろう。初めに結論ありきの調査なのだ。
むしろこうした「仕掛け」にも拘らず、「思う」と答えた人が6割に満たなかったことに驚く。
正確な調査を行うとすれば、単に「慰安婦問題に関する『河野談話』を見直すべきか」という設問にすべきだった。

世論調査を行う上で留意すべき点として、意図的かどうかにかかわらず、設問文や設問順によって回答が誘導される恣意的な設問などによる世論誘導が行われないよう実施しなければならないことが大切だ。
調査に名を借りた世論誘導であれば、調査結果に対する信頼性が失われる。
これは今回の”「産経・FNN」合同世論調査”に限ったことではないが、世論調査のルールをわきまえぬ調査を行い結果だけ一人歩きするような傾向が随所にみられ、メディアの反省を促したい。

2014/02/24

『百年目』と『トリクルダウン』

鈴本演芸場のHPで4月1日以降の料金改定のお知らせが掲載されている。
通常興行の場合、一般と小学生は据え置きだが、シニア(65歳以上)と学生については下記の通り値上がりとなっている。
一般¥2,800据え置き
シニア ¥2,400→2,800
学生¥2,400→2,500
小人¥1,500据え置き
4月1日より消費税が3%上がるので、それを受けての措置だと思われるが、シニアに関していえば17%近い大幅な値上がりだ。
今のところ他の定席については料金改定の動きはないが、恐らくは鈴本と同様の措置に踏み切るものと予測される。
消費税率のUPは生活を直撃する。そうなると真っ先に削られるのは娯楽費など不要不急の費用だ。寄席や落語会へ行く回数を減らすというファンも少なくなかろう。

寄席の木戸銭だけではない。消費税率のUPにより4月1日からは全ての物価が上がることになる。
ここのところ年金が減額される一方、地方税や介護保険料の値上げで年金の手取りは着実に減っている。
政府はアベノミクスとやらで浮かれ、3月期決算では主要企業の多くは増益で確かに潤っているが、家族や周囲の現役世代をみてもその恩恵に与かっている人は皆無だ。

『百年目』という落語があり、その終盤に大店の主人が道楽をおぼえた番頭をよんで説諭する場面があるのだが、ここで主人は「旦那(だんな)」という言葉の意味を引いて番頭に説くのだ。
桂米朝の高座では以下の通り(【上方落語メモ】より引用した)。

「天竺。天竺も五天竺あるそぉなが、そん中の南天竺といぅところに赤栴檀(しゃくせんだん)といぅ見事な木があるんじゃてなぁ、見る人誉めざるなしといぅ木。ところがその根元に難莚草(なんえんそう)といぅ見苦しぃ雑草がはびこるのじゃて。赤栴檀は結構じゃが、この難莚草がどぉも具合が悪いっちゅうて、そいつをむしり取ってしまうと、この赤栴檀が枯れるのじゃて。
つまり、この下で難莚草といぅ雑草がほこえては枯れ、はびこっては枯れするのが、赤栴檀にとってまたとないえぇ肥やしになる。また、赤栴檀の下ろす露が、難莚草にとってはこの上ないといぅえぇ肥やしになるんじゃそぉな。
そこで赤栴檀がさかえりゃ、下の難莚草もほこえる。難莚草がほこえて枯れることによって赤栴檀はますます育つ。寺方と檀家といぅものはこれでなかったらいかんといぅので、赤栴檀の「だん」と難莚草の「なん」と取って、在家の人のことを「だんな」といぅものはこっから出たんじゃといぅて聞ぃてな。
まぁ年寄りの耳学問じゃ、違ごてても笑ろぉてくださるなじゃが。わしゃなぁ、えぇ話やと思たで。世の中はこれやなかったらいかん「有無相持(うぶあいもち)」っちゅうやっちゃなぁ。まぁこの家でいぅたら、さしずめわしが赤栴檀じゃろ。この頼んない赤栴檀、こんたといぅえぇ難莚草が居てくれるお陰で、えらほこえにほこえさしてもろてる。
が、店へ出たら、今度は番頭どん、お前さんが赤栴檀、店の若い連中が難莚草じゃ。店の赤栴檀はえらい馬力じゃが、店の難莚草がちょっとグンニャリしてへんかなぁ? いやまぁ、これはわしの見損ないじゃろぉがな……」

今の日本経済は正に「赤栴檀はえらい馬力」だが、さっぱり露を降ろさないために「下の難莚草がグンニャリ」している状態だ。
その「難莚草」を消費税率UPが追撃するなら枯れるのは目に見えている。
アベノミクスの基調は、企業が利益を増やせば労働者の賃金が上がるから先ずは企業優遇措置を取るということにある。こういう政策を『トリクルダウン』(”したたり落ちる”の意)という。
安倍政権は国際的に破たんしている『トリクルダウン』政策に、いつまでしがみついている心算だろうか。

2014/02/23

三田落語会『志ん輔・喜多八』(2014/2/22昼)

「第30回三田落語会・昼『古今亭志ん輔・柳家喜多八』」
日時:2014年2月22日(土)13時30分
会場:仏教伝道センタービル8階大ホール
<  番組  >
前座・柳家さん坊「金明竹」
古今亭志ん輔「紙入れ」
柳家喜多八「ねずみ穴」*
~仲入り~
柳家喜多八「三十石船」
古今亭志ん輔「居残り佐平次」*
(*はネタ出し)

喜多八がマクラで言ってたように昭和20年代から30年代初めごろまでは浪曲(浪花節)の全盛期だった。平均的な家庭ではラジオ番組で最も人気があったのは浪曲だったと思う。特に有名だったいくつかの作品の唄い出しは人口に膾炙し、私たち子どもでさえ暗唱したものだ。例をあげれば下記の通り。

広沢虎造『清水次郎長伝』♪ 旅行けば駿河の国に茶の香り
玉川勝太郎『天保水滸伝』♪ 利根の川風、袂に入れて
春日井梅鴬『赤城の子守唄』♪ 赤城の山も今日限り
三門博『唄入り観音経』♪ 遠くちらちら灯りがゆれる
寿々木米若『佐渡情話』♪ 佐渡へ佐渡へと草木もなびく
篠田実『紺屋高尾』♪ 遊女は客に惚れたといい
浪花亭綾太郎『壺坂霊験記』♪ 妻は夫をいたわりつ

なかでも広沢虎造(2代目)は大スターであり、彼が病に倒れた昭和34年辺りから浪曲ブームが終焉したと言われるほどだ。
だからいま60歳以下の方だと、あまりお馴染みが無いかも知れない。
代表作である『清水次郎長伝』は大変な人気でラジオでも連続して放送され、たびたび映画化もされた。「清水二十八人衆」と呼ばれる子分たちがいて、それぞれの子分の活躍が描かれるのだからシリーズものになり得たわけだ。「清水港は鬼よりこわい 大政小政の声がする」「大きい喧嘩は大政 小さい喧嘩は小政」なんてね。
この中に「森の石松 金毘羅代参」という演目があり、親分の代りに石松が金毘羅詣りにでかけ、帰りに都鳥一家の騙し討ちにあい斬殺されるまでの物語が最も人気が高かった。「石松三十石船」はその代表で、「食いねぇ寿司食いねぇ 江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」という掛け合いや、「馬鹿は死ななきゃ治らない」という名文句で知られる。
ここで虎造の名調子の一節をご紹介しよう。
♪ 遠州森町よい茶の出どこ 娘やりたやお茶摘みに ここは名代の火伏の神 秋葉神社の山道に 産声あげし快男児 昭和の御代まで名を残す 遠州森の石松を 不弁ながらも勤めます ♪
森元首相の綽名が「森のおそまつ」、もちろん石松のモジリ。

喜多八の2席目「三十石船」は虎造の浪曲そのままだった。オリジナルが面白いのだから落語も面白い。虎造の浪曲を知らない世代では新鮮だろうし、知ってる我々世代は懐かしく聴ける。喜多八はいい所に目を付けた。

志ん輔の2席目「居残り佐平次」、演出にいくつか独自の工夫がみられた。
先ず初めにオチの解説から入る。
「ひでえ奴だ。あたしをおこわにかけた」
「へえ、旦那の頭がごま塩です」
この「おこわ」の語源が「おお怖い」で、美人局から来ている言葉のようだ。ここから「人を陥れる」という意味に転じたらしい。
今では通じないし、サゲとしても良い出来とは言い難い所から別のサゲにする人も多いのだが、志ん輔は解説を入れた中で敢えてオリジナルのままにした。

このネタの聴かせ所の一つ、客の一人が刺身が来たが醤油が無くて食えるかと愚痴っていると、そこに佐平次が現れる場面。あなた紅梅さんの勝さんでしょと、紅梅がいかに客に惚れているかを喋るのだが、言葉を切って客を焦らせながら言う。この方が有効なのだ。
紅梅もいきなり勝さんに惚れたとは言わず、「男嫌いのアタシだが、勝さんには・・・」と言いながら俯き、その真っ白なうなじに紅がさして、なんてね。言葉でなく風情で示しただけに、聞いている勝さんにとっては、よりグッと来るわけだ。客の心をつかむ佐平次のトークが冴えわたる。客は喜んで祝儀を弾むことになる。
こうして小遣いを貯めて着物を作り、派手な衣装でお座敷に出て陽気な芸を披露するから、ますます人気が高まり更に祝儀が集まる。確かに着のみ着のままでは座敷には出られない。
こうした緻密な演出が効果的だった。

私は志ん輔の高座には概して点数が辛いのだが、この日の「居残り佐平次」は良かった。彼の師匠を超えようとする意欲が感じられた一席、結構でした。

他は割愛、本日はこれまで。

【2/24記事の訂正】
狐傘さんからのコメントで、喜多八が『石松三十石船』を落語として上演するにあたり虎造の関係者より許可を得ているとのご指摘がありました。
2/23付記事中の、「でもこれって禁じ手~やったもん勝ち、なのか?」の部分を削除します。

2014/02/22

見応えがあった女子フィギュア

「女子フィギュアの丸きおしりをみてありて しばしほのぼのと灯れり夫(つま)は」
歌人・馬場あき子さんの短歌だそうだ。
この歌を見て、私どうようにニヤリとさせられる男性諸君も多いのではあるまいか。男子にはさっぱり興味を示さず女子になると途端に熱心にTV観戦していると、「あんた、どこ見てんのよ」と妻から度々お小言を頂戴する。
サトウサンペイの漫画「フジ三太郎」に、札幌オリンピックでフィギュアのジャネット・リン選手が尻餅をついたその部分の氷を切り取り、オンザロックにして飲むというのがあったが、気持ちは分かる。
現役とは言いがたいが、まだ戸籍上は男だから大目にみて欲しい。

それは別にしても、昨日の女子フィギュアスケート・フリーの演技は見応えがあった。浅田選手をはじめ、鈴木、村上両選手も自分たちの力を出し切っていた。特にオリンピックという舞台で自己最高を出した浅田真央の演技には感動した。SPで出遅れてしまったが、メダル以上のものを観客に与えたに違いない。

上位3人はいずれもノーミスで甲乙つけ難い演技だった。
銅メダルのコストナー選手も今までとは見違えるような出来栄えだった。コストナーはメダルは無理だと断言していたのだが、取り消します。
2位のキム・ヨナと1位のソトニコワ、どちらが上位になってもおかしくなかったが、TVで見たかぎりでは今の採点基準でいけばソトニコワに軍配を上げる。過去のメダリストの中には採点に疑問を投げかける人もいるようだが、審判は公平だったと思う。
それより大会の度に採点基準を変えてくる競技のあり方に問題がある。
ジャンプ偏重でとにかく跳んだりはねたりだけの競技になってしまったら、女子フィギュアの魅力が失われると思う。滑りの優雅さでいえば、明らかにキム・ヨナが1枚上だった。
韓国国内では採点を不満とした署名運動まで起きているそうだが、キム・ヨナ自身が結果を受け入れると語っているのだから、そっとしておくべきだろう。

森元首相が浅田選手について「見事にひっくり返ってしまった。あの子、大事な時には必ず転ぶんですよね」と講演で語ったことが問題になっている。
森喜朗氏はなんかのパーティの時に身近にいたが、印象としては大きな悪い事はしそうにない人物に見えた。ただ頭がねぇ・・・。
元々ああいう失言居士を東京五輪組織委員長になんかしたのが間違いだった。これからも何を言い出すか分からない。
ただ森の発言の中で、フィギュア団体戦に関する部分だけは同感できる。というより、何だってあんな競技をオリンピックの正式種目にしたのか意味が分からない。
個人競技を集めて団体種目にするというなら何でもアリで、陸上100m走団体なんて種目だって出来てしまう。
種目を増やせばIOCのフトコロは潤うんだろうが、オリンピックの巨大化は弊害を招くだけだ。

でも、やはり冬季五輪の花はスキーの滑降や大回転ですね。観ているだけで爽快な気分に浸れる。スピードスケートやクロクカントリーでの競り合いは手に汗を握る。
ストップウォッチやメジャーで勝負が決まるというのが、本当のスポーツじゃないかな。

2014/02/21

『アルトナの幽閉者』(2014/2/20)

『アルトナの幽閉者』
日時:2014年2月20日(木)
会場:新国立劇場小劇場
作:ジャン=ポール・サルトル
翻訳:岩切正一郎
演出:上村聡史
<  キャスト  >
父親:辻萬長
長男フランツ:岡本健一
長女レニ:吉本菜穂子
次男ヴェルナー:横田栄司
その妻ヨハンナ:美波
親衛隊員/ハインリヒ軍曹:北川響
クラーゲス中尉:西村壮悟 

ぶっちゃけストーリー。
ガンで余命6ヶ月の父が次男夫婦に会社経営と自宅を継いで欲しいと命じるが、なぜか夫婦は浮かぬ顔。それというのもこの家には13年間も引きこもりの長男がいて、今は長女が面倒を見ているのだが、やがては次男夫婦が世話をすることになるからだ。次男の性格が稼業に向いていなそうだし、嫁はこの家を出たがっている。
すったもんだの挙げ句、とにかく父としては死ぬ前に一度でいいから長男の顔を見たい。奴は美人に弱いからと、元女優だった嫁さんに長男への説得を頼む。それまで長男は長女としか面会せずに来たが、弟の嫁さんは器量良しだし話も聴いてくれるので徐々に心を開くようになる。ただ長男と長女は長い間二人きりという時間を過ごしてきたせいかイケナイ関係になっていて、次男の嫁さんとの間で三角関係みたいな感じにもなる。この辺りは少しヤヤコシイことになるのだが、ともかく最終的に長男は嫁さんの説得に応じて父親と対面する。始めは双方ともにツッパッテたが、やがて心を許し合い・・・。
と、まあ、こんなストーリーなのだ。
こうして書くとホームドラマみたいだが、これがコクトー先生の手にかかると格調高い演劇になってしまう。

この戯曲が書かれた1959年はフランスに対するアルジェリア独立戦争の真っ最中だった。8年間にわたる戦争の中でフランス軍はアルジェリア人に対して数々の残虐行為を行った。これに対してフランス人の中から抗議の声をあげたのがサルトルだった。
帰還した兵士たちが口を閉ざす中でサルトルは、舞台を第二次大戦のドイツに置き換えた。
戦争で部下を守るためとはいえ捕虜を拷問で殺害し心に傷を負って狂人のごとくに振る舞う長男と、戦中はナチスに協力し、戦後はアメリカに取り入って欧州きっての巨大企業に成長させた父親との対立を軸に、戦争と責任、さらには出口の見えない状況に「幽閉」された家族を描いたものだ。
敗戦から復興を果たして西ドイツの状況は日本とも重なる。
アルトナの家族たちは皆、都合のいい真実だけを自分のものとして、欺瞞という幻想の中だけで生きているのる。それはもしかすると、私たちも同じではないだろうかと、この舞台は問いかけている。

セリフは難解だ。特に長男フランツのセリフは理解できなかった。作者の頭が良すぎるのか、こっちの頭が悪すぎるのか。観客の皆さんはいかがでした?
サルトルの思想は無神論的実存主義というのだそうで、それを作品を通して大衆に分かり易く伝えたんだそうだ。彼はこれまでの演劇が写実と心理描写に傾いていたことに反対して、行為する人間の演劇「状況の演劇」を提唱した。演劇では「状況」を提起し、その状況において人間が行う自由選択の行為を表現しようとした。
フム、フム・・・。
でもやっぱり分からないなぁ。
一言いわせて貰えば、芝居の最終結末は安易だったような。あれだと主人公たちは状況から逃げてないか。一般大衆からの素朴な疑問。

出演者では、主役の岡本健一の健闘が光る。よくあれだけの長くて難しいセリフを流暢にしゃべれたものだ。父親役の辻萬長は圧倒的な存在感を示したが、大企業の社長には見えなかったなぁ。
吉本菜穂子、横田栄司らの俳優たちも揃って好演、美波が美をそえる。

公演は3月9日まで。

2014/02/19

「一之輔独演会」(2014/2/18)

「みなと毎月落語会『春風亭一之輔 独演会』」
日時:2004年2月18日(火)19時
場所:麻布区民センター
<  番組  >
前座・立川らく人
春風亭一之輔『浮世床(本)』
春風亭一之輔『普段の袴』
~仲入り~
春風亭一之輔『花見の仇討』

港区で毎月行われる落語会、いえアタシは港区には住んでませんよ。誰でも参加はできる。
会場のある六本木、夜になると歩いている周囲は外国人が目立ち歩道に英語が飛び交う。立ってる人が通行人に声をかけて、
What are you doing?
I'm doing something.
なんてね。良く分からなかったが多分そんなヤリトリだったような。

一之輔がマクラで落語ブームは終わったと言ってたが、確かに一時に比べ客足は落ちてるようだ。完売になるのは志の輔と小三冶ぐらいか。談春の独演会でも当日券有りと出ていた。その小三冶が出る会でも、発売日が数日過ぎてから主催者に電話したら、未だかなり残っているとの返事だった。
一之輔独演会は前売り完売が続いているようだが、この会も数日前にダメモトで電話したら席が取れた。
一之輔は「元に戻ってフツーになったんです。なんでもフツーがいい」と言ってたがその通り。ブームはいずれ去るしバブルは崩壊する。本物だけが残る。

この日の会場は年配者が多かった。周囲の席で女子フィギュアが話題になると「フィギュアって、オナゴの方?」、女子をオナゴと読むんだから相当なお年だ。
数年前までの一之輔の会というと若い人が多数だったが、それだけファン層が広がったという事だろう。
この会の前座は主催者側が決めるらしい。そういえば主催は立川企画、それで立川らく人か。
基本が出来ていないのにギャグだけが新しい、頭デッカチの高座。
一之輔は古典をそのまま演じることがない。必ずと言っていいほどヒネリを利かす。どう演ったら客に受けるか常に考えて高座に臨んでいるんだろう。研究熱心なんだね。
そこが特長でもあり人気の秘訣でもあるのだろうが、一歩間違えるとアザトサにもなる。

一之輔の1席目『浮世床』では、いきなり将棋から入り、そこから「本」へ。この男は字が読めないという設定だったが、字は読める。ただカナの拾い読み程度なので、つっかえるし遅いのだ。「1尺2寸の大太刀を」という所を「1尺8寸」にしていたが理由がよく分からない。
将棋のシーンで、片方の男が王様をフンドシに隠して「両側から金で守る」というクスグリと、姉川の合戦を読むシーンで「姉がカワラケ、妹はボーボー」「そりゃオカシイよ、姉がカワラケなら妹もカワラケが自然だろう」というクスグリ、双方ともに下ネタだが繰り返されるとチョット嫌だね。3席目の『花見の仇討』でも花見の趣向で全裸で首つりすれば親父もセガレも両方ブラブラというクスグリを入れていた(こんなに詳しく書かなくてもいいんだけど)。下ネタ3回は度が過ぎるし、第一、芸が下品になる。これだけは頂けない。

続いて2席目『普段の袴』、8代目正蔵が得意としていたが曾孫弟子の一之輔も持ちネタとしてしばしば高座に掛けている。前半の武士と道具屋の主とのユッタリとした会話から、後半は一転する対比が鮮やかに描かれている。八五郎が大家に袴を借りに行くシーンで、大家が袴を使う理由を尋ねる際に通常は「祝儀・不祝儀かい」と訊くのだが、一之輔は「祝儀と不祝儀がぶつかちまったのかい」としている。これを受けて八が、往来で祝儀と不祝儀がぶつかって喧嘩になりその仲裁に袴が要ると言い訳をするのだが、この方が話の流れとしては自然だ。
掛け軸の鶴の絵を褒めるシーンで、道具屋が文晁(の作)ではないかと言うと、八が「文鳥じゃない、どう見ても鶴だ」と言った後で、「文鳥は手に乗るが鶴は手に乗せられない」と付け加えているのは良い。この方が聴き手がイメージし易い。

一之輔の3席目『花見の仇討』、2月というのは中途半端な時期でネタ選びには苦労するのだろう。少し早めだが花見のネタ。この日の悪役の名前は鈴々舎馬風。
この人には珍しいくらい真っ直ぐに演じていた(先に書いた首つりを除いては)。それでも話芸がしっかりしてるから十分面白く聴ける。
ただ今日気が付いたのだが、この人は酔っ払いの描写があまり上手くない。これからの課題かな。

2014/02/17

「口パク」マシーン

近くに住む娘が訪ねてきて、百田尚樹の著書を読んでいたが一連の発言で呆れ、あんな人間だと思わなかった。もう百田の本は読まないと言っていた。ああ、その方がいい。
その娘から借りた西原理恵子「できるかな ゴーゴー!」を眺めていたら、こんな事が書かれていた。
西原のタニマチである高須クリニック・高須克弥が中国の学会で歌を披露しなくてはならない羽目になった。ところが高須は大のオンチで自信がなく悩んでいた。西原がカラオケに連れ出し特訓するが上手くならない。そこでエイベックス社に頼み込んだら、歌が上手に聴こえる装置があるとか。仕組みは明らかでないが、どうやら何度も何度も歌を録音し、その良い所だけをつなぎ合せる仕掛けのようだ。もちろんレコーディングの前にはプロから歌唱指導を受ける。その結果見違えるような出来栄えの録音ができた。
高須はそれを持参し、会場で録音を流しながら口パクで歌って拍手を浴びたとある。
なにせサイバラが書いたものだから多少の誇張はあろうが、大筋ではこの通りなのだろう。
どこのレコード会社でも同様のマシンが使われているのだろう。

近ごろ歌手の口パクがしばしば話題になるが、ナルホド、そういうことか。デジタル技術を駆使して素敵な歌声でレコーディングして発売するのは良いが、ナマで歌うと再現ができないのだ。そこで録音を流し歌手はマイクの前で口パクで歌わざるを得ない。
多くの歌謡番組でこうした手法が使われているし、歌手によってはライブでも口パクがあるらしい。なんのことはない、ナマを聴きに行ったのに録音を聴かされるわけだ。
クラシック音楽の世界ではさすがに口パクは無いようだが、ライブ録音として発売されているものの多くは看板に偽りありというのが実態らしい。リハーサルの時から何度も録音を重ね、これにライブでの録音をつないでゆく手法が一般的だとか。完全なライブ録音はアナログ時代のものしかないと言われている。
スタジオ録音については言うまでもなかろう。

デジタル録音技術が進めば進むほど「変曲」や「変声」が横行し、リアルな音から遠ざかって行く。
それは音楽の世界にとり望ましいことなのか。
ホンモノの音を聴こうと思うなら、マイクを一切使わない歌唱や演奏に接するしかない。そうなると日本の古典芸能かクラシック音楽のライブしかなさそうだ。

2014/02/15

太郎の屋根に雪ふりつむ

三好達治「雪」
太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。

雪というと思い出すのがこの詩だ。豪雪地帯の田舎の情景を描いたものだろう。
2週続けて積雪にみまわれた東京だが、こうした風情は浮かんでこない。交通機関の混乱やスリップ事故に悩まされ、都会にとって雪は邪魔者でしかない。
週末で良かったというサラリーマンの声もあるが、休日も仕事の人はさぞかし大変だろう。
隠居にとっては、予定していた落語会に行けなかったという程度の被害であるが。

雪に因んだ詩といえば、もう一つ。

中原中也「汚れつちまった悲しみに……」
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

”汚れちまった悲しみ”なんて、とっくの昔に何処かへ行ってしまった。青春の思い出と共に。

青春といえば、若い頃にこんな言葉遊びが流行っていたっけ。
You might or more head today's some fish.
「言うまいと思えど今日の寒さかな」
オリジナルは「言うまいと思えど今日の暑さかな」という俳句で、有名だが作者不詳のようだ。
家族の中で隠居の部屋だけ暖房器具が無いので、寒さは堪えるのだ。

Oh, my march march care no thought.
「お前待ち待ち蚊帳の外」、落語の「愛宕山」などでお馴染みの「こちゃえ節」の一節だ。
中学生の時に、近所に住む英語が出来るというオジサンにこの問題を出したら、3日考えたが分からず降参した。正解を言ったら「純粋であるべき中学生が何たることだ」と酷く怒られてしまった。これだから洒落の分からない大人は困る。

とりとめのない事ばかりで、ご退屈さま。

2014/02/14

村上誠一郎の「たった一人の反乱」

村上誠一郎元行革担当相が、安倍首相の憲法解釈に咬みついた。
2月13日の衆院予算委で、安倍は憲法改正ではなく解釈変更により集団的自衛権の行使を容認できるか問われ、「(憲法解釈の)最高の責任者は私だ。政府答弁に私が責任を持って、その上で私たちは選挙で国民の審判を受ける。審判を受けるのは内閣法制局長官ではない。私だ」と答弁した。
この答弁に対して13日の自民党総務会で村上が「選挙に勝てば憲法解釈を自由に変えられるのか。危うい発言だ」と批判した。首相の判断で解釈が決まるとなると、政権が変るたびに憲法解釈が変更され、憲法の安定性が損なわれることを危惧したものと思われる。
他の議員からも同調する意見が出され、野田聖子総務会長は記者会見で「首相官邸と連絡を取り合い、誤解がないようにしたい」と述べた。

村上誠一郎は愛媛県選出の衆議院議員で当選9回、あの村上水軍末裔18代目の当主だ。歯に衣きせぬ言動で政権からは鼻つまみ者扱いを受けている。
最近では「特定秘密保護法」を「安倍の趣味」と切り捨て、自民党の中でただ一人本会議を欠席し棄権したのは記憶に新しい。
村上によれば、学生時代に読んだエーリッヒ・フロム「自由からの逃走」がその原点なのだそうだ。
ワイマール憲法の下でナチスによる独裁政治が誕生したあの時代のドイツを分析した書で、自由な言論・政治活動を貫くことがどれほど困難か、いかに人間というのは弱い生き物であるかが明らかにされている。安倍政権下の日本の国家と民主主義のあり方を論議する中で、この著書が蘇ってきたというのだ。
秘密保護法の前身というべき26年前の「スパイ防止法案」の時は、自民党内に法制化の反対する意見が根強く見送りとなった。それに対して今回は村上誠一郎の「たった一人の反乱」に終わってしまった。

安倍政権の外交政策についても村上は批判している。
歴史から何を学ぶのかという点で村上は、普墺戦争でドイツがオーストリアに勝利した際、ビスマルク首相がドイツ軍がウィーンに凱旋行進するのを一人でやめさせた例をあげている。オーストリアに必要以上に敵愾心を持たせぬようという判断からだった。
その後に起きた普仏戦争で、結局オーストリアは参戦せずドイツはフランスに勝利することができた。
村上はこう語る。「政治指導者というものは先を読んだ対応が必要だ。自分の感情を優先するだけでは国民を不幸にする」。

「たった一人の反乱」ではあるが、未だ自民党の中にもこうした良心が残されていることを村上誠一郎は示している。

2014/02/13

『もっと泣いてよフラッパー』(2014/2/12)

昨朝起き抜けに女房が「日本人がメダル取ったわよ」というから「なんの競技?」と訊いたら、「スノボの、えーと、なんと言ったかしら、あゝ”パイプカット”」。惜しいねぇ、確かにパイプを横にカットした形だが、あれは”ハーフパイプ”。何しろDVをAVと言い間違える人だからね。
五輪報道は相変わらず「メダル第一主義」、メダル獲得者を讃えるのは当然としても、届かなかった選手へバッシングする風潮があるのは困ったものだ。自然の中で行われる大会だから天候による運不運は避けられない。
勝った人も勝てなかった人も笑顔で迎えよう。

そんなわけで2月12日、Bunkamura25周年記念公演『もっと泣いてよフラッパー』を観劇。
wikiによればフラッパーは、【1920年代に欧米で流行したファッション、生活スタイルを好んだ「新しい」若い女性を指すスラング。それまで女性らしいとされてきた装いや行動様式ではなく、膝丈の短いスカート、ショートヘアのボブカット、ジャズ音楽などを好んで、濃いメイクアップで強い酒を飲み、性交渉、喫煙、ドライブを積極的に楽しむという、以前までの女性に求められてきた社会的、性的規範を軽視した女性たちを意味する】とある。ただ日本語としては「はすっぱな女」という語感で使われてましたね。
本作品は串田和美が1977年に書いたオリジナル戯曲で、オンシアター自由劇場が初演。以後なんどか再演され、今回は22年ぶりの再演とある。私もタイトルは知っていたが、観るのは初めてだ。

作・演出・美術=串田和美 
作曲=越部信義/八幡茂/乾裕樹 
音楽監督・編曲=ダージリン(佐橋佳幸/Dr.kyOn)
<  主なキャスト  >
トランク・ジル(踊り子):松たか子
旦那アスピリン(黒手組の首領):松尾スズキ
お天気サラ(踊り子):秋山菜津子
青い煙のキリー(踊り子):りょう
クリンチ・チャーリー(八百長ボクサー):大東駿介
フラポー(ベンジャミンの許婚者):鈴木蘭々
月影ギナン(踊り子):太田緑ロランス
銀色パパ(銀色ファミリーのボス):串田和美
コミ帝国の皇太子:片岡亀蔵
シカゴタイムズの新聞記者・ベンジャミン:石丸幹二

物語は1920年代の空想のシカゴ。
様々な過去を背負った女たちがキャバレー「ラ リベルテ」の踊り子としてショウに出演している。
ここに集うのは店を仕切るギャングやその対抗勢力、八百長ボクサー、地方紙記者、異国の皇太子などの人物。
踊り子たちはそうした男どもと出会い恋に落ち幸せをつかみかけるが、いずれも不運な結末を迎える。
しかし踊り子たちは不幸を乗り越え、今日もまたステージに立ち歌い踊るのは「もっと泣いてよフラッパー」。
禁酒法とジャズとチャールトンの「狂乱の20年代」を背景に、新しい時代の到来と男女の恋模様を描いた音楽劇。

おもちゃ箱をひっくり返したような舞台というイメージでいたが、ギャング団の対立は「ウエストサイドストーリー」を思わせるし、男女の恋物語はまるで昔のハリウッド映画の筋書の様だ。
1920年代が舞台だから古臭くなるのは当然としても、せっかくRoaring Twentiesを描いたのであれば、フラッパーが当時の社会に与えた影響に触れていれば、もう少し物語に奥行きが出たのではなかろうか。
そんな難しい理屈は抜きで歌と踊りで楽しんで欲しいという主旨かも知れないが、戯曲が書かれてから30数年、前回の公演から数えても22年経った。その間に数多のブロードウェイミュージカルが日本でも上演され、振り付けや俳優たちのダンスの技術も向上した。同時に観客の眼もレベルアップしている。
そうした観点からみると、ミュージカルとして満足感を与えたとは言い切れない舞台だったと思う。
それは客席の反応にも表れていたように思う。

出演者たちは一人で何役もこなし、特に男優たちが揃って楽器の演奏を行うパフォーマンスは見事だった。
主役の松たか子は舞台映えする。声がいいので歌を聴いていると心地良い。彼女が私の顔を見てニッコリ笑ってくれた(ような気がした)ので、それだけが満足です。
カーテンを使った舞台装置の転換は素早く、工夫されている。

公演は3月2日まで。

2014/02/11

【街角で出合った美女】モロッコ編

1月にモロッコへ行ってきました。北アフリカの西端ですから日本から見ると「地の果て」。
モロッコあるいは最大都市のカサブランカは、映画や歌でお馴染みですね。国土の中央付近を縦断するようにアトラス山脈が走り、北西の地中海・大西洋沿岸部と南東部のサハラ砂漠地帯とに分けています。暑い国というイメージがありますが、主要都市の緯度は福岡と同じなので冬は寒い。
イスラム教(スンニ派)が国教で、現地ガイドは敬虔な信者でかつ愛国的でしたから、いかにイスラム教とモロッコが素晴らしいかを力説していました。イスラム圏の中では政情が安定していて、ガイドによれば石油が出ないからアメリカが攻めてこないので安全だと言ってました。
フセインとカダフィーが殺害されたことにひどく腹を立てていましたが、過激派のジハードについては「コーランの教えに反する」と強く批判していました。
中央アジアから北アフリカにいたるイスラム諸国は全体に親日的です。モロッコも例外ではなく、特に女性に対して「親日」なので注意が必要です。ガイドブックには、モロッコの男性は日本人女性であれば「容姿年齢を問わず」と書かれていました、私が観察した所ではそうでもなかったなぁ。やっぱり選んでましたよ。

さてモロッコ美女ですが、この女性なぞは典型的といえます。はにかんだ表情が可愛らしい。
1

若い女性の中にはスカーフを着けていない人もいます。
2

こちらの女性は「真知子巻き」かな。いうこたぁ古いね。
3

2014/02/10

露の新治さん、有難う

2月8日の夕方に「露の新治 独演会」が行われた。前売りチケットは買っていたのだが、あいにくの大雪で行けなかった。それでも会は予定通り行われ、会場には60名ほどの観客が行けたようだ。
その後、新治のHPで今回の会へ来られなかった方々へということで「代金の払い戻しか、9月21日に予定している次回の独演会への振替えを選択してください」とのお知らせがあった。
当方はもちろん次回への振替えを申し込んだが、こういう計らいは嬉しい。会が中止となった場合はこうした措置が取られるが、予定通り開催したケースでは珍しいのではなかろうか。
上方落語家の露の新治は一昨年の鈴本演芸場で中トリを務めたあたりから、東京でもファンが増えてきたようだ。
近ごろは東京で上方落語をナマで聴く機会が多くなり、活動拠点を東京に移した大阪の噺家も出てきている。落語の世界でも「東西の壁」が崩れつつあるわけだ。

なお、露の新治の東京公演については9月21日以外に下記の予定が組まれているそうなので、ご紹介する。
6/24(火)夜席 鈴本演芸場 「さん喬・新治二人会」
8/23(土)夜  三田落語会 「新治・喬太郎二人会」

2014/02/09

「”niftyココログ”の新アクセス解析」は欠陥だらけ

お気づきの方もあるだろうが、1月半ばからブログの右側カレンダー下に「アクセス・カウンター」を表示している。当ブログ始まって以来初の模様変えだ。これには訳があって「niftyココログ」のアクセス解析が新しくなり、1月末で旧方式から新方式に切り替わった。新方式は3カ月ほど前から運用が始まっていて旧方式と併用されていたのだが、その新方式はトラブル続きだったのだ。
アクセス数などのデータが正確に反映されない、場合によっては全く反映されないことさえあった。もう一つ大きな欠点として旧方式ではブログ開設以来の累計アクセス数が表示されていたのが、新方式で無くなってしまった。なにもアクセス数を稼ぐためにブログをやっている分けではないが、累計は継続の「証(あかし)」でもあり無くなるのは不便だ。そこでブログの表紙にカウンターを付けておいたという次第。
niftyの説明ではアクセスカウンターはそのなま引き継がれるという事だったが、案の定そうはならなかった。カウンターは1月末から数字が全く動いていない。ココログ管理ページには同様のトラブルについて意見が寄せられているので他のユーザーの方々も同じ状況なのだろう。

この他にも新アクセス解析になって不便なことが多々ある。
旧方式ではアクセス解析の全てのデータが一つの管理画面で見ることができたのが、新方式では別のタブで表示させることになる。動作が遅くなり全体のデータを見るのに時間がかかる。
改正点はデータがリアルタイム表示になったという事だが、ユーザーの中のどれだけの人が必要性を感じているのだろうか。少なくとも私には不要なサービスだ。
それと引き換えに悪くなった所の方が目立つ。累計の数字が無くなった、動作が遅くなったという以外にも、明らかにデータがおかしいうものがある。例えば人気記事ランキングで前日と翌日とでは結果が違うことがある。それも小さな違いではない。アクセスの地域別では旧方式だと首都圏や関西など都市部からのアクセスが多かったのに、新方式になってから何故か福島、秋田、山形、鳥取などの地域からの比重が増え、逆に大阪や京都などからのアクセスが殆んどなくなっているという結果で、明らかに変だ。こうなると他のデータにも信用がおけなくなる。
記事別の滞在時間ランキングが無くなったも不便。どの記事がじっくりと読まれているかの指標だったのに。
今のところ日々のアクセス数は正しいようで、せめてものミッケモノ。

ココログのユーザーからの声欄には「旧方式に戻して」という要望も出ているが、nifty側はそうした意見を無視しているようだ。かと言って新方式の欠陥を直す気もないみたいだ。
無料なんだから文句を言うなという事かも知れないが、ユーザーの一人としては釈然としない。

(表示の1月末のアクセスカウンターの数字も不正確で正しくは1218597です)

2014/02/08

「正社員ゼロ法案」が進行中

都知事選が明日に迫った。都知事選は単に一地方自治体の首長選にとどまらず、今後の国政の行方にも影響を及ばすから結果が注目される。
選択の一つは、猪瀬前知事の選挙資金をめぐる不正疑惑を受けての選挙なので、先ずは清廉潔白な人が好ましい。政治家を評価する場合、何を主張しているかが問題ではなく、肝心なのは何をしてきたかだ。そういう基準で明日は意中の候補に投票する。

国政に目を転じて、日本をどういう国にして欲しいのかという点では、真面目に働いていさえすれば食っていけ、つましいながらも家族が持てるような暮らしが送れるという国、これが最優先されると思う。
しかし安倍内閣の政策はこれと逆行している。その一例が、いま準備中の「労働者派遣法の改正」だ。
厚労省の「労働政策審議会(労政審)」で審議が行われている。

1985年に派遣法はできた時は、派遣は例外的な働き方と定義されていた。
1999年に、派遣が使える業務が自由化される。
私が現役時代の途中までは、労働者は少なくとも真面目に働いていれば職を失うことなく、困窮しない程度の賃金を得ていた。
それが崩れ始めたのを実感したのは今から30年ほど前だから、派遣法が施行された時期とほぼ一致する。
2003年の改正で派遣は製造業にも解禁になり、「専門26業務以外は最長3年」という縛りを設け、3年以上使う場合は直接雇用を促す仕組みになった。
2008年のリーマンショックを機に「派遣切り」が大きな問題になった。
これを受けて民主党政権下の2012年に、日雇い派遣の禁止、ピンハネ率の公表、違法派遣を受け入れた企業の直接雇用義務などの規制強化の改正が行われた。民主党も少しは良い事をしたわけだ。

ところが安倍政権になって事態は一変しつつある。
財界からの要請で、派遣法を一気に変えようとしているのだ。
今回の検討を進めている改正案の主要点は次の通り。
・現行の専門26業務の制約を外し、全ての業務で無期限の派遣を可能にする。
・派遣会社が無期限に雇用しているスタッフの派遣は無制限に認める。
・一部が届け出制だった派遣会社を全て原則許可制にする。

派遣社員の年収は、賃金構造基本統計調査によると、200万円以下の人が77%だ。
これに対する正社員の平均年収は約523万円といわれているので、総合的には約200万円~300万円の格差がついていることになる。
一般に年収200万円以下をワーキングプアと定義されているが、派遣社員のおよそ8割が該当することになる。推定では既に1000万人を超えている。さらに男女の賃金格差もあり、女性では昼間の仕事を終えて夜に別のアルバイトをせざるをえない人が増えている。
賃金だけではない。
労働災害の発生率も派遣の場合は、正社員より50%高い。慣れない人を危険な作業に回すからだ。
もし審議中の改正案が通るようであれば、企業は派遣社員を何年でも使い続けられるようになるので正社員から派遣への切替が進み、やがて生産現場のほとんどが派遣という事態になりかねない。

「自由に使って、いつでも切れる」というこの改正案だが、労政審の最終報告がまとまり、今通常国会で法案を通し、2015年の施行を目指している。
労働界から厳しい批判も出ているが、政府はどこ吹く風。
財界や大企業の利益を優先する安倍政権の下では、残念ながら法案成立の流れは目に見えている。

ネットには安倍首相応援サイトが数多あるが、彼らはこうした法案をも歓迎しているのだろうか。訊いてみたいものだ。

2014/02/07

「佐村河内守」問題の背景を考える

昨日は我が家の風呂場の改修工事で水が止められ、仕方なく日長一日PCの前で座っていたら、桐朋学園大非常勤講師の新垣隆と言う人の記者会見がネットで中継していたので、何だろうと思って見ていた。
何でも佐村河内守とかいう作曲家がいるんだそうだが、その人の曲をずっと自分が書いていたという告白らしい。
新垣隆のインタビューを聞く限りでは、実に分かり易い話だ。佐村河内守という人物は全聾で「現代のベートーベン」というキャッチコピーで話題になり、TV番組で放映されCDもかなり売れていたらしい。つまりこの人の曲には「全聾の作曲家」という付加価値が付けられていたわけだ。
一方、新垣隆の方はあまり有名でもないし語るべき物語もないとすれば、いくら良い曲を作っても、どのレコード会社も採りあげてくれない。佐村河内守というブランドに乗せることにより、これが世に出て話題にもなる。それだったら佐村河内守に曲を買い取って貰へばいい、そう発想したんだろう。
新垣隆にはいくらかの作曲料が入るし(18年間で700万円とか)、佐村河内守は自分の作品として発表できて印税が入り、ファンはその曲を聴いて感動する。何ごともなければ全てが丸く収まっていたわけだ。
ネットの中継を見ながら、双方の了解のもとで18年間上手くやってきた二人に何が起きたんだろうと、その点にむしろ関心が湧いた。

文学や音楽などの芸術分野では一般にゴーストライターと呼ばれているが、Aの作品をBの名で発表するというのは、そう珍しくないだろう。いわゆるタレント本では大半がゴーストライターの手になるようだ。
私の高校の時の同級生がある高名な作詞家の弟子になっていたが、彼によれば弟子が書いた作詞を先生の名で発表することもあると言っていた。徒弟制度の下ではこうした下積みを経て世に出て行くのだろう。
私は誰々のゴーストライターだったいう告白も読んだ記憶がある。
では、なぜ今回の佐村河内守の件がこれほど世間から叩かれるのかだが、その理由として二つ考えられる。
一つは、彼が被爆二世で全聾(新垣隆は否定しており、これから事実は明らかになるだろうが)だという点で、いわば叩きやすい立場だということだ。
二つ目は、彼を番組や報道で採りあげたのはNHKや朝日新聞といった、ネットの一部サイトで偏向メディアと憎悪している相手だったということ。いわゆる「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ってぇヤツ。

佐村河内守のCDを買ったりTVを観て感激したりした人は裏切られたという感情を持つかも知れないが、そうでもない人がなぜここまで怒るのか。義憤なのか。もし義憤ならもっと他に憤ることが沢山あるだろうに。
今回の問題の底流には、音楽家たちの経済的貧窮という現実があるだろう。
世間から名前も知られず経済的にも恵まれない音楽家が必死に這い上がって行く姿が想像され、中継を見ていて切なくなった。
もっともネットで中継するほどの大問題ではなかったけど。

2014/02/06

#4「米紫・吉弥ふたり会」(2014/2/5)

ちょうど1ヶ月のご無沙汰で皆様にはお変りもなく。
演芸の世界でニュースといえば2月に入ってからの大須演芸場が閉鎖になったという報道。名前は知ってるが一度も行ったことが無いのでそう身近には思えないのだが、例えていうなら東京で末広亭がなくなったような感じだろうか。月の家賃が20万円だというから破格の値段で大家さんも相当に肩入れしてくれていたんだろうが、それも長期滞納とあっては仕方あるまい。
やれ落語ブームだ、寄席ブームだと言われるが、チケットを取るのが一苦労という人気者がいる一方、実力も実績もある芸人が出ているのに客席はガラガラという状況もある。
しょせんブームと言っても底は浅い。
大須演芸場は高須院長が支援に乗り出すという報道もあり、何とか救済できると良いのだが。

2月5日、横浜にぎわい座での「第4回 米紫・吉弥ふたり会」へ。吉弥は東京でもすっかりお馴染みになっているので、お目当ては米紫で初見。当代は4代目。米朝一門では、さこば-塩鯛-米紫のラインになるので米朝から見れば曾孫弟子ということになる。

<  番組  >
桂二乗「阿弥陀が池」
桂米紫「上燗屋」
桂吉弥「ホース演芸場」
桂米紫「堪忍袋」*
~仲入り~
桂吉弥「狐芝居」*
(*印はネタ出し)

二乗「阿弥陀が池」、上方落語家の東京公演ではこの人が度々開口一番を務めていて、既に何度か高座を観ている。米二の弟子で入門11年目を迎えているので、東京でいえば二ツ目の中堅といった位置か。まだ出囃子がなく高座返しもしていて前座の扱いなのは気の毒。
着実に上達しているようだし、古典ときちんと演じていて好ましい高座。

米紫「上燗屋」、大師匠のさこばに良く似てるなあというのが第一印象。風貌も熱の入った語り口もだ。
このネタも初めてで、解説を読むと「首提灯」の前半に当たるらしい。
酒癖の悪い客が飲み屋に入ってきて、やれ酒の燗がぬるいの熱いのと文句を言いながら何杯も注がせたり、タダだと言うと料理の一部だけをつまみ食いするなど傍若無人の振る舞い。その酔っ払いと飲み屋の主との掛け合いだけで聴かせる噺なので、演者に相当な力量が求められる。
米紫が演じる酔っ払い男はどこか憎めない所があり、絡まれる主が始めはクールに対応しながら次第に腹を立てて行く過程も上手く描かれていて、この人の実力を感じさせてくれた。
オリジナルではこの後、酔っぱらい男が道具屋に行くシーンがあるようだが、この日はカットしていた。

吉弥「ホース演芸場」、自作だそうで、頻繁に高座に掛けているようだ。競馬場の隣なのでホース演芸場というネーミング。ここに師匠からの依頼で小骨という前座が送り込まれる。時は昭和30-40年代の「音楽ショウ」の全盛期。「宮川左近ショウ」から始まり「フラワーショウ」、「暁伸・ミスハワイ」、そして「かしまし娘」とそれぞれのテーマソングを歌い継ぐ。やがて小骨は大看板になり、さこばを襲名。ざこばは米朝を・・・、この辺でやめとこう。ストーリーは他愛ないもので、専ら前記のグループのテーマソングを聴かせる所が見せ場。

米紫「堪忍袋」、東京のネタを上方に移したもの。違いは夫婦喧嘩の場面をタップリ演じることと、堪忍袋の緒が切れるオチで、東京のオリジナルでは袋の中の声が一気に出てくるという形だが、大阪では最後に吹き込んだ若奥さんの姑への罵声が先に出てきて、それを聞いた姑が元気になるというサゲ。
米紫の高座では、この夫婦喧嘩の場面が断然面白い。喧嘩の原因は実に他愛ないことだが、それぞれの言い分に説得力があり、仲裁人もすっかり納得してしまう。でも相手の反論を聞くと、これもまた十分に納得できる。
例えば仕事から帰ってきた亭主に、女房が子どもを風呂に連れて行ってくれと頼むと、亭主はイヤな顔をする。自分の子どもなのにと女房は訴える。確かにその通りだ。処が亭主に言わせれば、この家の子どもというのは6歳を頭に毎年の年子で一番下は双子のつまり合計7人。この乳幼児を風呂に連れて行くのがどれほど大変かという亭主の主張、これもごもっともなのだ。
こんなヤリトリが延々と続くのだが、米紫のパワー溢れる語りで全く飽きないどころか引き込まれ、腹を抱えて笑うことになる。この女房だが、さんざん悪態をつくものの可愛らしい。こういう所が落語では肝心なのだ。
この人は上手い。
米紫の2席、正に期待通りの上出来の高座。

吉弥「狐芝居」、小佐田定雄作。
侍の扮装で旅をしている大部屋の役者が、日の暮れた山道で芝居小屋に出会い、花道の奥から見物していると 仮名手本忠臣蔵「四段目」の真っ最中。
良い芝居とだと感心して客席を眺めると、客は全て狐。なんと狐の芝居だったのだ。
ところが舞台で判官が切腹したのに肝心の大星役が出てこない。見ていた役者はたまらなくなって急遽とび入りで芝居に参加。芝居は進むが、やがて観客の狐たちが大星役の役者が狐ではないことに気づく。あれは人間や」と。灯りが消え狐も役者もいなくなってしまう。
残された役者はすっかり自信をつけて、くるっとトンボを返ると、狸の姿になって。
恐らくどこかの民話の下敷きがあるのだろう、良く出来た噺だ。落語としても「四段目(「蔵丁稚」)」風に歌舞伎の舞台を忠実に演じる手法で馴染みやすい。
師匠・吉朝が得意としたネタで、吉弥の高座も切腹の場面の所作を丁寧に演じており良い出来だった。
マクラで駅のホームで海老蔵に間違われたといってたが、確かに目だけは似てなくもない。

上方落語の充実ぶりを見せつける落語会だった。

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