学習院での「志ん生・柳好」落語会
月刊誌「図書」2014年3月号に作家・津村節子の「万年筆の音」という記事が載っているが、そこに面白いことが書かれているので紹介する。学習院の講堂で志ん生と柳好の落語会が行われたというものだ。
時代は1952年(昭和27年)頃と思われる。津村と作家・吉村昭は同じ学習院大学の文芸部に所属していて、二人はそこで知り合い、やがて結婚する。
吉村昭 1950年入学 1953年中退
津村節子 1951年入学 1953年卒業(短大)
学習院文芸部の雑誌「學習院文藝」は当時はまだガリ版(謄写版のことで、原紙は手書き)だったが、これを「赤繪」と改題すると同時に活版印刷にすることになった。理由はどうやら芥川賞の選考には活版にしておかないと対象にならないという事情があったらしい。
しかし活版にするには金がかかる。その資金の捻出に吉村昭が考えたのは有料で落語会を開くというものだった。大学の講堂を借りれば会場費はタダだ。
学習院は戦前は皇族や華族のための学校として宮内省の管轄だったが、戦後は一般の私立校となってはいたが、当時はまだ特殊な学校というイメージが強かった。講堂で落語会など許可される筈がないと文芸部員たちは反対した。
吉村は文芸部員の父親に開業医がいてそこへ噺家たちが通ってるということを聞きつけ、そのツテで志ん生と柳好を訪ね、出演を承諾して貰った。もっとも二人とも、なぜ学習院でと呆気にとられ、ギャラが2千円という安さに驚いたそうだが、とにかくOKだけは取れた。
学生課に相談したら講堂で落語会などとんでもないと断られた。しかたなく安倍能成院長に直接談判に行くと、どんな噺家が来るのだと訊かれて「志ん生と柳好です」と答えると、安倍院長は「本当にそんな人が来るのかと」驚いたとある。とにかく許可はおりたわけだ。
安倍氏が驚くのも無理がない。5代目古今亭志ん生といえば今でも落語ファンなら知らない人はいない。芸術祭賞を受賞して落語協会会長に就任する頃の時期だ。
3代目春風亭柳好は俗に「向島の柳好」「『野ざらし』の柳好」と称され、当時たいへんな人気者だった。残念ながら人気絶頂の1956年に亡くなったので、この会には出られたわけだ。
調べてはいないが、おそらく「志ん生・柳好 二人会」というのはこれが最初で最後だったのではあるまいか。柳好は戦前には「睦会」に所属し、戦後は芸協なので志ん生との接点はあまり無かったとものと思われる。
吉村と津村らは学生たちにチケットを売るのだが、落語はラジオで聴いたことはあるが寄席に行ったことがある人など一人もいなかったそうだ。今では学習院出身の落語家がいるのだから隔世の感がある。
講堂は満員の入りとなり興行としては大成功といったところ。
もっとも学内の講堂で行うので会の名称は「古典落語鑑賞会」としたようだ。
目出度く資金も集まり「赤繪」の活版化が実現した。吉村としては好きな人の津村の前で良い所を見せようと思っただろうし、芥川賞をとりたいという野望もあったのだろう。とにかくプロヂューサーの腕だけは大したものだ。
しかし吉村は芥川賞候補に4度上がりながら遂に受賞はかなわず、夫人の津村節子の方が受賞してしまう。
津村の記事によれば、この落語会へ早稲田の学生が取材に来た。それが切っ掛けで早大の落語研究会(落研、オチケン)が出来たとしている。事実としたら「オチ研誕生秘話」ということになるが、真偽のほどは分からない。
さて、肝心の落語会の時のネタだが、志ん生の方は分からない。
一方の柳好については吉村の著作に書かれていて『五人廻し』を演じたそうだ。しかし噺の途中で会場に目をやったところ、客席の最前列に皇太子明仁親王(今上天皇)がいるのに気づき、動揺して途中で高座を下りてしまったとか。『五人廻し』は吉原を舞台とする噺だったからだ。控室に戻ってからも「あたし、不敬罪で逮捕されるんじゃないか」と顔面蒼白で動転しており、吉村昭らが「今は民主主義の時代ですから、そんなことありません」と必死に宥めたという。
そんな時代だったのだ。
〈追記〉3/26
落語に詳しい小言幸兵衛さんから、学習院での「志ん生・柳好 落語会」当日の演目について下記の情報が寄せられましたので紹介します。
【立風書房の「志ん生文庫」『志ん生滑稽ばなし』に吉村昭さんが「大学寄席」と題した一文を提供されていて、ネタも明かされています。まず柳好が「五人廻し」、次に志ん生が「富久」、さらに柳好が「浮世風呂」だったようです。】
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コメント
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面白い話ですね。
皇太子は会費を払ったのでしょうね、当然。
来ていることを知らせなかったのは彼を特別扱いしてなかったということかな。
投稿: 佐平次 | 2014/03/25 18:49
立風書房の「志ん生文庫」『志ん生滑稽ばなし』に吉村昭さんが「大学寄席」と題した一文を提供されていて、ネタも明かされています。
まず柳好が「五人廻し」、次に志ん生が「富久」、さらに柳好が「浮世風呂」だったようです。
後に吉村さんの奥さんになる女子学生が目白駅に志ん生を迎えに行ったら、結構酔っていて心配したらしいのですが、出囃子で高座に上がると体がしゃんとし、見事な高座だったようです。
投稿: 小言幸兵衛 | 2014/03/25 21:21
佐平次様
少なくとも興味はあったんでしょう。大相撲や芝居、コンサートには来られるのだから、たまには寄席にもと思いますが。警備の問題かなぁ。
投稿: HOME-(ほめ・く) | 2014/03/26 06:59
やあ、さすがは小言幸兵衛さん、詳しいですね。早速記事に追記させて頂きます。
柳好が2席演ったのは、1席目を途中で降りてしまったからでしょうか。
投稿: HOME-(ほめ・く) | 2014/03/26 07:03
この文章には、皇太子ご臨席と柳好の逸話は書かれていないのですよ。
時期は昭和26年10月だったようです。
当初は志ん生と小文治の予定だったのが、小文治が出演できなくなり柳好に替わったようです。
最初に読んだ時、吉村昭が落語好きだったことが分かって、とてもうれしかったのを思い出します。
投稿: 小言幸兵衛 | 2014/03/26 08:33
小言幸兵衛様
時期は昭和26年10月ですか。そうすると小沢昭一や加藤武らが早大で落研を結成した切っ掛けとなったいうのは本当かも知れません。
当初は小文治ですか、吉村昭は最初から落協と芸協それぞれから選んでいたということでしょうか。
投稿: HOME-(ほめ・く) | 2014/03/26 11:20
文芸部に所属する演劇部の女子学生の父親が日暮里で耳鼻咽喉科を医院を開業していて、噺家の患者が多く、その医院の紹介で最初に小文治、次に志ん生との縁ができたようです。
吉村が協会のバランスを考えたのではなく、あくまで紹介者からの縁、ということなのでしょうね。
投稿: 小言幸兵衛 | 2014/03/27 00:10
小言幸兵衛様
そういう事だったんですか。
余談ですが小文治は踊りは絶品でしたが落語はつまらなかったという記憶しかありません。CDで今聴いてもつまらない。
代演が柳好で良かったのではないでしょうか。
投稿: HOME-(ほめ・く) | 2014/03/27 09:20
ブログ拝見いたしました。学習院の文芸部が主催した落語会の名称は「古典落語研究会」ではなく、「古典落語鑑賞会」です。当時の岩田教授による解説もありました。
799-1322 愛媛県西条市国安314-2 「吉村昭研究会」桑原 文明
電話・FAX 0898-66-1556 メール bunmei24jp@ybb.ne.jp
「吉村昭資料室」 http://www.geocities.jp/bunmei24jp/
投稿: 吉村昭研究会(桑原) | 2016/04/30 09:44
吉村昭研究会(桑原)様
コメント有難うございます。
早速本文を訂正致します。
投稿: ほめ・く | 2016/04/30 11:41