志の輔「大河への道~伊能忠敬物語」(2014/5/5)
志の輔noにぎわい「大河への道~伊能忠敬物語」
日時:2014年5月5日19:00開演
会場:横浜にぎわい座芸能ホール
< 番組 >
前座・立川志の太郎『千早ふる』
立川志の輔『大河への道~伊能忠敬物語』
以前から気になっていた志の輔の「大河への道~伊能忠敬物語」、今回にぎわい座のチケットが手に入ったので出向く。
先ず主人公の伊能忠敬についてだが、教科書に名前が出ていた程度しか知らないので改めて略歴を調べてみたので、これをマクラ替わりにする。
「伊能 忠敬(いのう ただたか)は延享2年1月11日(1745年)生まれ、文化15年4月13日(1818年)没。江戸時代の商人・測量家である。
最大の業績は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにしたこと。
< 「伊能忠敬」略年表 >
1745年 上総国山辺郡小関村で生まれる 幼名は三治郎
1762年17歳 下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入る
1781年35歳 佐原村本宿組名主となる
1783年37歳 天明の大飢饉で私財をなげうって地域の窮民を救済する
1794年49歳 隠居
1795年50歳 江戸に出て幕府天文方高橋至時に暦学天文を学ぶ。
1800年55歳 第1次測量 奥州街道‐蝦夷
1804年59歳 高橋至時が死去 後任の天文方は息子の高橋景保
1816年71歳 第10次測量(最終) 江戸府内
1818年73歳 死去、喪を秘して地図製作を続行。
1821年 没後に『大日本沿海輿地全図』完成、三ヶ月後喪を公表。
ここまで書いてもう草臥れてしまった。とてもじゃないが日本地図を作るのはアタシにゃ無理だね。もっとも子どもの頃には時々、布団の上に世界地図は描いていたけど。
これから志の輔のこのネタを聴く人には少しは役に立つと思う。
伊能忠敬については戦前は修身の教科書に載っていたようだが、戦後に改めてブームが起きたきっかけは、井上ひさしが昭和52年(1977年)に書いた小説『四千万歩の男』だろう。
隠居を過ぎてから新しい分野の仕事、それも地球2周するほどの距離を歩き測量し、初めて日本地図を完成させた(正確には測量までで、地図の完成は没後だが)という偉業を達成した人物として、定年後に新たな挑戦を始める「一身にして二生を得る」という生き方に注目が集まった。
超高齢化社会にピッタリの、まさに「中高年の星」である。
ここまでが今日のマクラ、長いね、まるで小三冶だ。
志の輔のイントロは2010年の長崎での独演会から始まる。その当時NHK大河ドラマの「龍馬伝」を受けて長崎は坂本龍馬ブームに沸き立っていた。地元の人でさえ便乗商法と苦い眼で見ていて、志の輔の楽屋でも龍馬ブームに批判の声が上がっていた時に一人の中年女性が楽屋に現れる。それが主役を演じた福山雅治の母親だった。何気ないエピソードながら、既に本編の導入部になっている。
翌日にシーボルト記念館を訪れる話が出てくるが、ここで「シーボルト事件」についての説明を受ける。
この事件は、1828年9月にシーボルトが帰国する直前に所持品の中から禁制品の日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死したというもの。シーボルトは1829年に国外追放処分を受けた。
ここに出てくる高橋景保は、伊能忠敬の物語にも登場してくる重要人物で、これまた本編とつながる。
その3年前の2007年、たまたま訪れた千葉県の佐原でふらりと入った「伊能忠敬記念館」で、伊能忠敬の地図が衛星から撮影した日本地図とピタリと重なっていることに驚愕し、志の輔が伊能忠敬を主人公にした落語が出来ないものかと思い立つ。
つまりこの演目ではマクラが本編の一部になっているという仕掛けだ。
このネタが完成し高座にかかるのは2011年だから構想から4年かかったことになる。難しかったんだろう、偉人伝というのは落語には合わないからね。その志の輔の苦闘をそのまま筋に反映させたと思われる。
物語は、千葉県の振興のために没後200年を迎える2018年のNHK大河ドラマに「伊能忠敬」の生涯を描いたものを採用させようという事でチームが結成され、新進のライターが起用される。
取材を重ねいよいよ原案発表の締め切りに現れた作者は、一言「出来ません」。詰め寄る担当者に、日本中を測量して歩いた人物をいくら大河ドラマとして映像化しようと思ってもアイディアが浮かんでこないというのだ。
しかし、とライターは続ける。なぜ伊能忠敬の死が秘密にされ、3年後に初めて明らかにされたのか、その物語をライターが語りだす。
伊能忠敬は地図の完成を見ずに死んでいった。この仕事に携わった全ての人たちが、これを忠敬の業績として公表するために地図の完成まで死亡の事実を秘匿し続けたのだ。
文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成した。7月10日、高橋景保と忠敬の孫忠誨(ただのり)らが登城し、地図を広げて11代将軍・徳川家斉公に上程した。その時になって初めて伊能忠敬の死を告げる。
本来なら重きお咎めあるところだが、家斉公は景保らに慰労の言葉をかける。
この部分は無論フィクションだがよく出来ている。
千葉県のチームの人たちも感激するが、これでは忠敬の死後の物語になり、目的は果たせなかったことになる。チームリーダーが出した結論は・・・。
一席終り暗転してからスクリーンには忠敬が辿ったであろう風景が上空から写され、伊能の地図と衛星写真が重なりあう。その誤差は1000分の1だそうだ。
落語というよりはもっと幅広い、講釈や一人芝居などを含めた話芸ともいうべきか。釈台を前に置いての口演は志の輔のそうした考えの反映なのだろう。
マクラから本編まで完成度が高く、志の輔の話芸の巧みさもあって仲入り抜き110分の高座は飽きさせない。
だが過去のブログに書かれていたような周囲の客の多くが涙を流していたとか、会場全体が揺れていたという状態には程遠い。なかなか良かったんじゃない、というのがアタシの率直な感想だ。
それは志の輔が面白いことを言う度に大仰に拍手するオジサンのせいで(さすがに志の輔が高座から注意していたが)演者の集中力が削がれたのか、聴き手の側のせいなのか。
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昨年、下北沢で聴いた事がありますがエンターテイメントとして楽しめました。多くの方が涙を流していたとか(知りませんでした。笑)大げさに書く方は多いですね。
以前、談春の『紺屋高尾』に「会場中の女性が泣いた」と企画した女性誌とテレビで記事になったり放送されていましたが、全くそんな事はなかったので、一緒に行った友人達とマスコミは膨らまし過ぎると話をした事があります。
また最近は大仰に拍手するオジサン・オニイサンがいる会場にあたる事が多く残念です、、、。
投稿: フラニー | 2014/05/06 19:12
フラニー様
ネットの記事でも大袈裟に書いた方が受けるという傾向がありますから。「会場が震えていた」なんて、きっと地震だったんでしょう。
大仰な拍手オヤジは困り者です。志の輔から注意されてからは控えていました。まるで子どもみたいですね。
投稿: ほめ・く | 2014/05/06 23:47