「慰安婦」と「慰安所」の実態(例)
「帚木蓬生(著)『蛍の航跡 軍医たちの黙示録』(新潮文庫)」は太平洋戦争中の主に南方に配属された軍医たちの物語だ。15の短編よりなる小説だが、いずれも軍医だった人たちの手記を元に取材を重ね書いたもので、ほぼノンフィクションといって良い。この著書全体についての書評は後日改めて書くつもりだが、この中に『巡回慰安所』という編がある。
軍の命令でいわば慰安所の「妓楼主」にされた軍医が描かれていて、慰安所の管理や運営の詳細が記されている。
ここに書かれている慰安婦は日本人女性だ。最前線の日本軍部隊を巡回しながら兵士の相手をしていたようで、「従軍慰安婦」(当時の表記をみると「慰安婦」又は「軍慰安婦」となっているようだ)と呼称しても差し支えないだろう。
下記のその概要を書くが、女性の人権上問題となる個所が多々あり、事の性質上「性」にかかわる言葉も多い。不快に思われる方は記事をスルーして頂きたい。
【昭和19年9月、私(以下、軍医とする)は第五十五師団の部隊に所属し、ビルマ南部のイラワジデルタの駐留していた。
ある日、師団司令部から呼び出され、各部隊に配布される下記の命令回報が渡される。
一、九月二十日以降、十日間(後に司令部からの要請で十一日間に延長された)の予定をもって、当地区に巡回慰安所を開設せらる。
二、その設営地は、師団後方一キロのジャングルの中とする。
三、慰安所使用の細目は追って通達する。
軍医の任務は、経理担当の主計曹長と共に、特に衛生管理の重要問題を解決することと言い渡される。要は、巡回慰安所の責任者として任命されたのだ。
設営地に行くと既に長屋のような建物が出来ていた。
竹の柱に、竹の簀の子張りの床、アンペラ(アンペラという多年草の茎で編んだ筵)囲いの壁、屋根は椰子の葉を葺いたもの。
内部は、片側が一間幅の土間の廊下があり、これに面して三畳半ぐらいの個室が六つ並ぶ。個室のドアは竹枠の筵一枚で、間仕切りはアンペラの二枚重ね貼り。軍医はこれでは少しの体動でも建物全体が振動するのではと心配したが、もう遅い。
この地区一帯に駐留する部隊の兵士は約四千名、対する慰安婦はわずか五名だ。滞在期間は十日間なので四千を五十で割ると、慰安婦一人あたり毎日八十名の兵士を受け入れなばならない。それはあまりに酷だというと、経理は病気や怪我で来られない兵もいるので半分の2千名になるだろうと言う。
これだと一人あたり三十六分という計算になる。ただこれは二十四時間ぶっ通しの場合であって、食事や睡眠、休養を考慮すると半分の十八分になる。これじゃ時間が短過ぎるなどと、議論は尽きない。取り敢えず司令部に十日間を少しでも延ばせないか打診する。
経理が、これは時間割ですと紙を差し出す。
イ、兵 自 九:〇〇 至一五:〇〇
ロ、下士 自一六:〇〇 至一九:〇〇
ハ、将校 自二十:〇〇 至 八:〇〇
軍医が、これでは二十四時間勤務ではないかと指摘すると、主計曹長は将校は数が少ないので十二時以降は休養になると答える。
一回の使用料は階級が上がる毎に高く設定してある(料金は不明)。「一回」をどう定義するかが検討課題だ。
軍医として最も心配なのは性病の蔓延だ。予防のために衛生サック(コンドーム)の確保を上官に依頼する。
次いで、性病に関する知識とサックの使用についての注意点を講義するため、部隊の兵士全部が集められる。将校も同席していて、彼らも利用者だから真剣に聞いていた。サックの不良品の点検方法や、使用した製品は二度と使わないことなどの注意を与える。
別に慰安婦には「星秘膏」(当初は兵士に配る予定が数が足りず慰安婦に配布とあるが内容は不明)を配った。
慰安所から少し離れた所に検問所兼事務所があり、軍医と主計はここに詰める。
慰安所に隣接して慰安婦の居室が建てられ、日々の食事は司令部の炊事班が運んでくる。
経理部で運営の細目を決めた。一回の定義だが、射精一回をもって一回とする。防具の装着励行、飲食物の持ち込み禁止、機密漏えい厳禁、行為に際しては局所以外の体部をもって相手方の局所に触れることは厳禁、但し相手方はその限りにあらずなど、微に入り細を穿つ内容だった。
問題はサックの数が足りないこと。仕方なく使用後全てを回収、消毒と洗濯、乾燥させ、破損や穿孔の有無を確認する。これらの作業は軍の衛生部が行う。慰安婦たちの性病検査も衛生部の仕事だ。
前日の夕方に五名の慰安婦が到着。
いよいよ当日の朝になると、慰安所の門の前には長蛇の列だ。この時運悪く敵機の来襲があった。通常なら兵士は近くの避難濠に飛び込むのだが誰一人動こうとしない。動けば自分の順番待ちがフイになるからだ。
門には日直の下士官が立つ。
「十五番、終りましたァ」と出て来た兵が申告する。
「ご苦労! 衛生防具を回収したか? 見せよ、よしッ、そこの消毒槽に返納して帰れッ」
「はいッ、返納終り、帰ります!」
こういう掛け合いが交わされる。
退室が遅れると、日直下士官が個室に向かって声を張り上げる。
「三十番! まだかァ? 長いぞ、急げ!」
兵の中には四回、五回という猛者もいた。
慰安婦の給金は相手した数によって支払われる。但し正式通貨ではなく軍票(戦地・占領地で軍が正貨に代えて発行する紙票。軍用手形)だった。
こうして無事に十一日間の任務が終わった。
五名の慰安婦は翌朝、司令部の下士官に連れられて次の勤務地へ向かった。】
私の理解では、慰安所というのは全て専門の売春斡旋業者が慰安婦を管理し、軍からは施設の提供だけ受けて運営は業者が行っているものだと思ってた。
しかし本書のビルマ南部のイラワジデルタでは、運営と管理は全て軍が行っていたようだ。
スケジュールを見る限り極めて重労働だったことが分かる。朝の9時から夜中の12時頃まで、途中に1時間の休憩が2回あるだけで、働きづめだ。しかも日々多数の兵士の相手をせねばならぬ。
給料は高かったようだが、彼女たちは最前線部隊を巡回しているので常に死と隣り合わせである。金には替えられない。
支払いが「軍票」だった点も気になる。特に終戦間近になると国や地域によっては「軍票」は紙屑同然になっていた。
報酬が高かったという論調もあるが、実態は必ずしもそうでは無かったようだ。
これとは別に本書の『アモック』では、スマトラ島北端にあるコタラジャに派遣された軍医大尉によって、この町の慰安所について概要が以下のように紹介されている。
【旧オランダ軍兵舎を慰安所としていて、広東生まれの朝鮮人が軍の委託経営者だった。
慰安婦はジャワまたはミナンカバウ出身(今のインドネシア国内と思われる)、ペナン(今のマレーシア国内)出身の華僑人、広東生まれの朝鮮人であり、三十名近くいた。
毎週金曜日が性病検査の日で軍医が担当、この署名がなければ営業は出来ない。
風紀取り締まりは、憲兵があたっていた。】
これ以上の詳細は不明だが、ここでの慰安所が軍の委託経営だという事と、慰安婦が全員日本人以外だという事が分かる。
後日談になるが、終戦後ここの慰安婦たちはそれぞれの出身地へ送還されたようだ。朝鮮人慰安婦はイギリス兵からの暴行を防ぐため看護婦の扮装をして日本兵と共に帰還船に乗船、シンガポールで朝鮮独立義勇軍に引き渡されたとある。
こういう記述を読むとなにかホッとする。
この様に国や地域によって慰安婦の置かれた状況、あるいは慰安所の実態というのは大きく異なっているようで、私たちにはその断片的な事実しか知ることが出来ない。今ではその全貌を把握するのは極めて困難だろう。
いずれにしろ今日の視点では許されない行為ではあるが、ただこの著作全体に描かれている日本兵の惨状からすれば、この問題も小さく見えてしまう。
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コメント
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いっそユーモア小説のごとき、哀切なる滑稽。
投稿: 佐平次 | 2014/08/26 11:18
佐平次様
この著書の中で唯一ユーモラスなのは、この慰安所を描いた1篇だけです。「面白うてやがて哀しき」です。
投稿: ほめ・く | 2014/08/26 15:07