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2014/09/27

#124柳家小満んの会(2014/9/26)

第124回「柳家小満んの会」
日時:2014年9月26日(金)18時30分
会場:関内小ホール
<  番組  >
前座・柳家緑太『弥次郎』
柳家小満ん『粗忽長屋』
柳家小満ん『御札はがし』
~仲入り~
柳家小満ん『寝床』

入りは5部程度だろうか、大半が常連客のようで温かい雰囲気につつまれていた。
なかみに入る前に、この会が次の理由から「理想的な独演会」といってよい。
・本人だけが出演(厳密にいえば前座が出ていたが)
・3席演じる
・2時間で終了
独演会というのは文字通り、その人の噺だけを聴きにいくのであって、それ以外は不要。
二人会でも一人2席は演るのだから、独演会なら3席は聴きたい(長講は別にして)。
公演時間は2時間がいいとこ、よぶんに長いと客も演者もダレル。

入り口で小さなプログラムが渡され、なかを見るとこの日は「駒下駄」について短文が書かれていた。それによると、下駄が用いられるになったのは江戸の元禄以後で、それまでは武士も町民も草履だった。形が馬のヒズメに似ていたところから「駒下駄」と名付けられた。当初は芸人や遊女が主に用いていたところから、次にような川柳ができた。
「駒下駄で出るとそこらで転ぶなり」
草履にくらべて下駄は転びやすい。これに転び芸者(みずてん)を掛けたもの。
むろん、この解説はこの日のネタ『御札はがし』に因んだものだ。
こういう心配りが嬉しい。
ご存知のように小満んの最初の師匠は8代目文楽で、死後に5代目小さん門下になった。
私見だが、あれだけの昭和の名人といわれた文楽だったが、彼の芸を正統に継承している弟子が少ない。そういう意味からも小満んは貴重な存在だ。

1席目『粗忽長屋』
粗忽とは「そそっかしい」という意味だが、ここに出て来る二人はいわゆる粗忽者ではない。八五郎の方はやたら「思い込み」が強く、事実を前にしてもチェック機能がなくて自分の考えを曲げようとしない男だ。
一方の熊五郎の方はといえば、ただただ八の思い込みに引きずられて自己さえ失ってしまう。
こうして見るとこの二人は、私たちに周囲にいくらでもいる人物だ。このネタがいつまでも色褪せないのはそのためだろう。
二人の性格付けを鮮やかに示した5代目小さんが絶品で、小満んはマクラを含めほぼ師匠の高座通りに演じた。

2席目『御札はがし』(三遊亭圓朝作『牡丹燈篭』より)
あらすじは、ざっと次の通り。
医者の山本志丈の紹介で、飯島平左衞門の娘・お露と美男の浪人・萩原新三郎が出会い、互いにひと目惚れする。これが2月。
新三郎はお露のことを想い悶々とした日々を送る。
6月に入って久々に訪れた山本志丈から、新三郎はお露と女中・お米が4月に死んだと聞かされる。
しかし盆の入りの13日に、お露が牡丹灯籠を提げたお米を連れて萩原新三郎宅の前に現れる。これから毎夜二人は逢瀬を楽しむ。
7日目に深酒して深夜に帰宅する途中の伴蔵が新三郎宅をのぞくと、そこには二人の女の幽霊の姿が。翌朝、同じ長屋に住む人相見の白翁堂勇斎に知らせ、勇斎は萩原新三郎にその事実と死相が出ていると告げる。新三郎も調べてお露が幽霊であることがわかり、僧侶の良石の助言に従い金の仏像とお札で幽霊封じをする。
新三郎の奉公人である伴蔵と妻のお峰は幽霊から百両もらって、萩原新三郎の幽霊封じの仏像とお札を取り外してやる。
この日は後半の御札をはがす所はカットし、前半の部分だけの高座となった。
このネタは今夏だけで3度目となるが、以前に聴いた小朝のものを含めて、どうしても納得いかない点があった。それは2月に新三郎とお露を引き合わせた山本志丈が、なぜ6月になるまで新三郎宅を訪れなかったのかという点だ。二人が相思相愛であることが分かっていた筈なのに。
この点に関する小満んの説明はこうだった。
先ず、新三郎とお露が出会った時に、志丈が二人に酒をつぎ、まるで三々九度だと言って冷かす。次に新三郎がハバカリに発った時に、お米が気を利かしてお露に手水に使うヒシャクと手拭いをお露に渡す。ハバカリから出た新三郎が、手水で洗った手を手拭いでふこうとして伸ばした手がお露の手と触れてしまい、ここで二人の思いが通じ合う。帰りしな玄関まで送ってきたお露は新三郎に「また来て下さらないと、露は死んでしまいます」と大胆な告白をする。
ここで山本志丈は、このまま二人が突っ走ったらまずい事になると気付く。というのは、お露の実家である飯島家の主人はゆくゆくはお露に適当な婿を添わせて跡取りにしようとしていた。もし二人が深い仲になってしまったら飯島の主人から志丈が責められ、場合によっては手討ちににでもなりかねない。クワバラクワバラ。だから二人がこれ以上近づくのを避けるため、志丈は新三郎宅に寄り付かなくなったのだ。
その後、志丈が飯島家に立ち寄り、お露とお米の死去を聞いたので、取り敢えず新三郎に知らせに来たというわけ。
ナルホド、これで納得!
このように小満んの演出は二人の馴れ初めの場面を丁寧に描いていた。今まで聴いた『御札はがし』の、これがベスト。
嗚呼、思い出すなぁ、初めてオレが女性の手を握った時の感激を。あの頃のオレはいったいどこへ行っちまったんだろう。

3席目『寝床』
このネタ、大きく分けるとこうなると思う。
・8代目文楽タイプ
・志ん生タイプ
・文楽+志ん生の志ん朝タイプ
・上方の枝雀タイプ(上方落語の四天王は誰もこのネタをかけていないそうだ)
・近ごろ見られる志ん朝+枝雀タイプ
ザックリと見れば、下へ行くほど話としては面白くなる。
しかしアタシは、この噺は一種の心理劇だと理解している。
先ず、ここの大店の旦那が自分の好きな義太夫を皆さんに聴かせ楽しんで貰おうという昂揚感からスタート。次々と欠席がしらされて旦那は落胆していく。欠席の理由が自分の義太夫を聴きたくないから嘘を付いていると気付き旦那の怒りが爆発。間に入った奉公人の機転で旦那の怒りは和らぎ、やがて再び旦那の気分が昂揚する。しかし皆が義太夫を聴かずに寝入っていることに気付き、再び怒る。だが定吉だけが泣いているのを見て、旦那は理解してくれる人がいたことで安堵する。そうではないと分かり、再び落胆する(ここはサゲの後になるので、噺の中では出て来ないが)。
こうした旦那の気持ちの起伏に焦点を当てるなら、アタシは文楽が一番だと思う。
小満んの高座で、その事を再確認できた。
まるで駄々っ子みたいだが、この主人公には大店の主人としての品格が必要だ。特に最大の見せ場である奉公人の説得により、怒りで部屋にこもってしまった旦那が次第にほぐれてゆき、最後に「みんなも好きだねぇ」と破顔一笑するシーンは最高で、いまこの演技が出来るのは小満んしかいないとさえ思ってしまう。
黒門町が蘇った思いだ。

この会に来た方は幸せだ。
来られなかった方は残念でした。

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コメント

私は「お札はがし」にもう一つ集中できなかった(間延びを感じて)けれど「寝床」で言う事なしでした、はい、幸せです!

佐平次様
『御札はがし』で、私としては永年疑問に思っていた「山本志丈の謎の空白期間」の謎が解けたので、それだけで満足です。
『寝床』は黒門町が蘇りました。
お互いに幸せ(四合わせ)で、足せば鉢合わせ(八合わせ)。

いらっしゃいましたか。
「お札はがし」、志ん生は、志丈が久し振りに新三郎を訪ねた時の無沙汰の理由を「風邪をひいてました」にしてますからねぇ^^
二人の師匠の十八番と圓生怪談噺、何とも贅沢な三席でしたね。

小言幸兵衛様
実は貴ブログの記事を見てこの会に参加したのですが、とても良い会でした。有難うございます。
3席とも、登場人物の心理描写に優れていて、さすがの高座でした。

訂正します。志丈は久し振りに新三郎を訪ねた際(四月としています)、風邪が流行って忙しかった、という理由でした。
藪でも風邪の患者は診るということですね^^

小言幸兵衛様
わざわざ有難うございます。
いずれにしろ言い訳めいています。やはり小満んの演出通り、志丈は意図的に新三郎宅への訪問を避けたと解するのが自然かと思われます。

小満ん「寝床」はNHKでしたが、見たことがあります。
ご立腹のだあさまが改めて語ってくれと言われても、
「御免蒙るよ」とふてくされるんですが、そこに落語スピリットを感じました。
ご説のように、後に機嫌を直すという「起伏」の描写がこれまた見事でした。

福様
『寝床』の勘所は、やはり旦那の感情の起伏をいかに描くかだと思います。「御免蒙るよ」から「みんなも好きだねぇ」に至る心理描写に小満んは優れていました。

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